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赤穂の旧藩士は、なぜ吉良邸に討ち入ったのか?~東大名物教授が解説
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赤穂の旧藩士は、なぜ吉良邸に討ち入ったのか?~東大名物教授が解説
※本稿は、山本博文著『東大流 教養としての戦国・江戸講義』(PHP研究所刊)より、一部を抜粋編集したも... ※本稿は、山本博文著『東大流 教養としての戦国・江戸講義』(PHP研究所刊)より、一部を抜粋編集したものです。 浅野内匠頭の武士としての体面 日本人の大好きな「忠臣蔵」は、赤穂事件という本当に起こった事件をもとにはしていますが、随分脚色がなされています。 歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が、現在の「忠臣蔵」ものの映画やテレビドラマの原型になっていますが、これは非常に脚色が多く、事実とはまったく異なります。最近は、かなり史実に忠実なものが出ていますが、それでもいろいろと脚色されています。歴史学者は誤解を避け、「忠臣蔵」ではなく、「赤穂事件」と言います。 その「赤穂事件」とは、元禄14年(1701)3月14日に起こった、赤穂藩主の浅野内匠頭が高家筆頭の吉良上野介に斬りつけた刃傷事件と、その翌年12月14日に、赤穂の旧藩士たちが吉良上野介の屋敷に討ち入り、上野介の首を取った事件、その一連の事件を総称し