永禄3年(1560年)、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。 この頃の武田氏の駿河における拠点の一つが三枚橋城であった。三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。築城時期については、「北条氏政書状」によると、天正7年(1579年)、武田勝頼が築城したとされている。 この三枚橋城と狩野川を挟んで対峙したのが、北条氏の戸倉城(清水町徳倉)で、武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。天正8年(1580年)には、武田氏と北条氏の水軍が内浦重須沖から千本浜沖の駿河湾で海戦を行っている。 このよう