千葉県千葉市(現在の美浜区)に生まれる。大手レコード会社の社員で野球経験のある父親のもとで幼少時より野球に親しみ、小学校時代より父親の転勤により宮城県塩竈市に転居する。 宮城県塩竈市に転居後に硬式野球チームに入る。その後中学校の野球部に入ろうとするが、坊主になるのがイヤでバスケット部に入る。バスケット部では立川の活躍により、塩竈市第三中学校3年生に塩竈市の中体連を優勝に導く。さらに同年にはリトルシニアAA世界野球選手権大会に投手として出場し優勝を飾る。 拓殖大学紅陵高等学校に入学し、1992年の夏の甲子園大会にベンチ入り唯一の2年生および5番右翼手として出場。準々決勝で9回に逆転2点本塁打を放つなど活躍。その年同校は準優勝した。なお、この夏の甲子園で拓大紅陵は、初戦から準決勝まで全て別の投手が勝ち投手になるという長い甲子園の歴史の中でも史上初の快挙を達成した。1年先輩に多田昌弘がいる。 立