千葉県富津市出身。中学1年の時に父親を病気で亡くす。子供の頃は日本共産党の動向に関心を持ち、60年安保においては民主社会党を支持していた[2]。 千葉県立木更津高等学校卒業後、1965年4月に東京水産大学水産学部増殖学科(現東京海洋大学海洋科学部)に入学、水泳部に所属する。同部に所属していた川島豪に近づくためだった[2]。当時4年生で自治会で後援会費闘争を行っていた川島を慕うようになる。その後、日韓条約反対闘争に参加し初めての集会とデモを経験。更にこの年の夏に課外実習で水産労働者の劣悪な労働状態に接し、労働運動に人生を捧げようと決意する。1966年4月、同年水産大学を卒業した川島が元社学同ML派幹部のM・Kと共に労働運動を重視した「警鐘」グループを結成すると、大学を中退し「警鐘」に加わることを望むが、川島の指示で大学に残り自治会活動を続けることになる(「警鐘」は学生をやめ労働者になることを