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Numberと*史に関するnobodyplaceのブックマーク (6)

  • 元コロンビア代表の日系人がいた!道工薫、90歳のサムライ蹴球人生。(北澤豊雄)

    コロンビアのバランキージャ市で現在も仕事を続けている道工氏。その眼差しは「サムライ」の文化を思わせる精悍さを湛えていた。 コロンビアのサッカー元代表に日系人がいたことはあまり知られていない。国内屈指の名門「サンタフェ」でキャプテンマークを巻いた男は、1951年にコロンビア代表に初招集され、左サイドバックとして背番号6を背負った。今年で90歳を迎えた道工薫(どく・かおる)は、日戦を前に何を思うのか。コロンビアで話を聞いた。 元コロンビア代表選手だった90歳の日系人。 コロンビアの首都ボゴタを高速バスで北上しておよそ22時間、赤茶けた大地の先にスモッグで煙る高層ビル群が見えてくる。人口約186万人の工業都市バランキージャ市は国内第4の都市だ。道工はバランキージャ市の「日・コロンビア友好協会」会長として繁華街のやや外れに事務所を構えている。目の前の通りには布地屋やボタン屋や雑貨屋が軒を連ね、

    元コロンビア代表の日系人がいた!道工薫、90歳のサムライ蹴球人生。(北澤豊雄)
  • 個性豊かな選手たちが刻んだ、プロ野球の“伝説”を検証する。~二宮清純、最新刊の衝撃~(日比野恭三)

    書は『文藝春秋』誌上で1年間にわたり連載された「プロ野球 伝説の検証」に加筆して上梓された。書籍化に際して題名は改められたが、著者・二宮清純が筆を執ったのは、まさしく「伝説を再検証すべし」との思いからだった。 「たとえ事実ではなくても、10回も言われ続けるといつの間にかホントになってしまうことがある。プロ野球の伝説として巷間言われていることも、それがどこまで当のことなのか、調べてみる必要があるのではないか。関係者が高齢になってきている状況もありますし、今こそきちんと検証して、書き残しておくべきだと思ったんです」 平成の世も、はや25年。昭和のプロ野球史を彩った数々の名場面は、口から口に語り継がれ、近年は個人発信のブログなどで「引用の引用」を幾度も重ねられてきた。著者が試みたのは、いわば長大な「伝言ゲーム」の原文を確認する作業と言える。 「もはや時効」との思いが当事者たちにもあった? そ

    個性豊かな選手たちが刻んだ、プロ野球の“伝説”を検証する。~二宮清純、最新刊の衝撃~(日比野恭三)
  • 元巨人球団代表が描いた、プロ野球の大動乱時代。~著者が語る『プロ野球復興史』~(Number編集部)

    巨人軍の元球団代表がを出した。ただし、書き手は「あの人」ではないし、「告発」や「暴露」でもない。 『プロ野球復興史――マッカーサーから長嶋4三振まで』。著者は山室寛之氏。1964年、読売新聞社に入社。社会部長、西部社編集局長などを歴任し、'98年から2001年まで巨人軍球団代表として長嶋政権を支えた。 書は、同氏が社長・会長を務めた読売ゴルフを退社した後の'10年に上梓した『野球と戦争――日野球受難小史』の姉妹編にあたり、敗戦直後から2リーグ制確立に至るまで、奇跡的な復興を遂げたプロ野球の動乱期が、数多くの資料と証言をもとに丹念に描かれている。この2冊のを執筆したきっかけを山室氏が語る。 「僕は九州の野球少年で、学生時代から野球の歴史を調べてみたいと思っていました。読売新聞に入ってからは、東京社社会部の警視庁担当時代に起きた『黒い霧事件』('69年)を取材した際など、様々な

    元巨人球団代表が描いた、プロ野球の大動乱時代。~著者が語る『プロ野球復興史』~(Number編集部)
    nobodyplace
    nobodyplace 2012/07/03
    やばいこれ読みたい
  • 西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~(松井浩)

    もちろん、後悔しても、過去の歴史を取り戻すことはできない。野球は、グラウンドで行われたプレーだけが、歴史的事実として記録されるスポーツである。むしろ、四半世紀の歳月を経て、すでにユニフォームを脱いでしまった現在、どんな過去も穏やかに振り返ることができるということかもしれない。 「ただ、スクイズという戦法が、ウチの打ちまくる野球と違っていたのは確かやな」 西は、そうも言った。 「パ・リーグのお荷物」とバカにされ続けた弱小チームを、6年かけてリーグ一の打撃のチームに育てあげたという自負が、西にはあった。頭の中では「ストライクは、三つともバットを振れ」と思っている。「外野フライで同点や」。そうも思っている。 しかし、次の瞬間、西の左手が動く。当時、サインはベンチから三塁コーチャーを経て選手に伝えられた。西の利き手である左手が、右肩に触る。それが、1979年の日シリーズの命運を決するスク

    西本幸雄と江夏の21球。~悲運の名将を偲んで~(松井浩)
    nobodyplace
    nobodyplace 2011/12/09
    西本さんを偲んで2005年の文章をWebで全文掲載。素晴らしい。
  • 鳴尾球場、豊中球場――甲子園のルーツを訪ねて。~浜風の元を知ってますか?~(小関順二)

    第3、9回(1917、23年)の「全国中等学校優勝野球大会」(現在の全国高校野球選手権大会)が行なわれた鳴尾球場の跡地に建つ記念碑 先日友人と酒を飲んでいたときのこと。甲子園大会の期間中、よい席で観戦するために早朝に出かけ、行列の順番を確保した後に、開門するまでの時間を潰すのが大変だ、という話になった。しょうがないのでバスに乗って鳴尾浜まで行くことさえあるというのだから大ごとである。その友人に第3~9回の全国高校野球選手権大会(当時は「全国中等学校優勝野球大会」)が行われた鳴尾球場跡に行ったことがあるかと聞くと、「ない」と言う。それどころか、その史実を知らないという(第4回は米騒動のため中止)。 第1回が行われたのは1915(大正4)年で、場所は豊中球場(豊中グラウンドとも言う)。ここで第2回まで行われ、第3~9回が鳴尾球場、甲子園に場所を移したのは同球場が開場した1924(大正13)年か

    鳴尾球場、豊中球場――甲子園のルーツを訪ねて。~浜風の元を知ってますか?~(小関順二)
  • 神田川に沿って“東京横断旅行”。フォークソングの銭湯は、今も健在か?(疋田智)

    今回は、自転車で西から東へ、ひたすら神田川を下ってみようと思うのだ。 神田川という川は、規模でいえば、ホントに短くて小さな川に過ぎないのだけれど、その知名度たるや、日で一二を争う河川と言っても過言ではあるまい。 東京の都心まっただ中を横断する河川だから、という意味合いもあるにはあるが、メジャー化の一番の責任は、もちろん南こうせつにある。 昭和フォークの名曲、四畳半フォークの究極といわれた、名曲「神田川」。あのモデルとなった「三畳一間の小さな下宿」(四畳半ですらなかったのね)は、いったいどこにあるのか、ご存じであろうか。 私はご存じである。そのあたりも含め、さあ、神田川を下ってみよう。 出発点は井の頭公園。 全長24.6km。神田川ほど、川の始まりと終わりのはっきりしている川も珍しい。川の始まりは三鷹市にある“井の頭恩賜公園”である。あの公園の真ん中にある池こそが、神田川の源流なのだ。 と

    神田川に沿って“東京横断旅行”。フォークソングの銭湯は、今も健在か?(疋田智)
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