去年の京都での円城さんとの対談で『コード・ブッダ』の中世ぽさについて話したが、これは前提として、今小説から描写が消えつつあり、説教(エンパワメント)/法悦(エモ)復権の時代であるという意識がある。読者が舶来ものに飽きたと言えばそれまでであるが、書き手としては身の振り方を考えなければならない。 司馬遼太郎の語り口というものがある。司馬はほとんど描写をしない。するのは説明である。描写というのは上にも書いたが近代の輸入技術であり、書くのも読むのもはっきり言って面倒である。難点もあって、ストーリーにブレーキがかかる。小説の速度が落ちる。うまく行っても継ぎが残る。ではなぜそんな技術を輸入したかというと、いろいろな見方・理由があるが一番には説得力である。フィクションというものはフィクションなのでまず読み手にそんな世界が存在することを了承してもらう必要があるのだが、時間をかけて視覚的な証拠を並べると、「