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blog.livedoor.jp/koshek
NHKが、台湾の日本統治時代について扱ったドキュメンタリーにおいて、統治時代の差別や構造的暴力について扱い、統治を肯定しない論調で語った。これに対して「反日」だと叫ぶ声が散見される。 「反日」という扇情的なコトバの意味するところを窺い知るのは難しい。が、おそらくは、「本当は台湾は『親日』的で日本統治時代を肯定的に捉えている」のに、否定的な声を拾い集めて前面に押し出し、日本時代を否定的に語っているとして怒っているらしい。つまり前提として「台湾は『親日』」という認識がある。そうした「自分の認識に反する」番組制作がなされたので、日本を貶めるために恣意的に「真実とは反する」放送をしたとでも言いたいのだろう。 しかし「台湾=親日」という幻想にこそ辟易しますね。 戦後台湾は、蒋介石一派による本省人の虐殺・弾圧、中華民国と中共との対立、それに拍車を掛け下支えた冷戦の文脈、戒厳令下における暴力と民主
『耳刈ネルリ御入学万歳万歳万々歳』(石川博品作、ファミ通文庫、2009年)なる面妖なタイトルのラノベが出版されたが、「イラストが何故速水螺旋人ではないのか」との声が挙がっていたとのことで、早速読んで見たところ、やっぱり速水先生の挿絵が頭に浮かぶのです。 実際に挿絵を描いたイラストーターには何の瑕疵もないし、かわいらしいイラストはわるくない。けれども、多民族の坩堝かつ権力闘争の蠢く学園で、アクの強い登場人物が画面のここそこで騒動を繰り広げている様は、速水絵を連想させてやまないのです。 小説そのものはかなり人を選ぶ作風ですね。文章の半分近くが、主人公の妄想から構成されているという特異な構造は、ややもすると何が起きているのかわかりにくくさせます。しかし主人公の眼前で繰り広げられる現実を余所に、脳内に秘めた妄想を際限なく発達させる様を描く様はなかな巧み。様々な小ネタを過剰なぐらい盛り込んでいるのに
「外国語をそのままカタカナにして使うのはケシカラン。外国語は、漢語的に翻訳して日本語に採り入れるべきだ」という声はしばしば聞く。 しかし、むしろオーラルにおいてはカタカナ語の方が便利だ。日本語は同音異義語が絶望的に多く、その意味を表意文字に依存する度合いが高い。それが良くも悪しくも日本語の特性であるのだが、表意文字依存は知的基盤を共有しない公衆に対して、オーラルで広く呼びかける演説などの伝達手段の効果を低めている面も否めない。 さらに言えば、漢字を見ればコトバの意味をなんとなくわかった気になる点は、便利な反面、コトバの厳密な定義と意味の使い分けが必要な場面には、むしろ有害である。漢字を見ればなんとなく意味がわかるという言語文化に慣れ親しんだ人間は、わかった気になればそれで済ませてしまうので、コトバについて調べて定義を厳密にする習慣に乏しい。 カタカナ語は、表意文字に依存しないので同音異義語
「ネットカフェ難民」というコトバで表される、簡易宿泊所を渡り歩くしかない住所不定者層について語られるとき、驚くほどの冷淡さと冷笑を感じるコトバを聞くことが多い。 自分とは明らかに異なる層、それも自分よりも諸条件に劣る人々を単純にバカにして悦びとしているのならば、(それはそれで不快だが)まだ理解できる。だが、どうも身近や巷で「ネカフェ難民」について語られるコトバは、必ずしも単純な侮蔑に終始しないようである。 その特徴を一言で言えば、「簡易宿泊所を渡る歩くしかない層」に関する問題の矮小化である。無知や貧しいイメージによって「ネカフェ難民」の問題を彼らの人格に帰結させ、無邪気なほど簡単な「解決策」らしきものを示し、「こんなものは問題でも何でもない」と断じている。しかしそうして語られるコトバは、あまりにも現実と乖離している。それにも関わらず、往々にして話者は「侮蔑」しているのではなく「正しいことを
私の出身大学院の中国人留学生にも、やはり長野への動員の号令がかかっているようです。使命感から自発的に行くという留学生もいれば、「自分達は大学院生だ。そんなことをするために日本で勉強しているのではない」という留学生もおり、さらには「2000円で長野に行けるのならば、ちょっくら長野まで行ってみるか」という観光・お祭り気分の学生もいるので、様々な人間模様が見られます。さてはて。
「日本はたかだか18歳かそこいらのときに入学した『大学名』を問われる愚かな『学歴社会』だが、アメリカは個人の力量が問われる実力社会だ」とか言うようなことを好んで口にする人がたまにいるけど、そういう人は、アメリカの病院や法律事務所の看板(屋内でもパンフレットでもなく、通りに面した看板!)に「イェール大学ロースクール修了 S.J.D.」とか大学名が当たり前に書かれていて、それが顧客への宣伝効果を有している光景を見て、どう思うんだろうか。昔から、非常に気になって仕方がない。 もちろん日本とアメリカでは「学歴社会」の様相は全く異なる。留学・海外駐在・日本における実務経験のある先輩から聞いた話は以下の通り。 仕事に就くときに、エントリー出来る学位学歴が限られるのは日本もアメリカも同じだし、むしろアメリカの方が厳しいぐらい。だけれども、日本の場合は18〜19で大学に入って概ね24までには卒業しなければ
映画「300」を観た。とりあえず、クセルクセスのペルシア軍に参加して、スパルタ兵悉く皆殺しにしたくなった。 もちろん、祖国と家族と体制を守るため、圧倒的な侵略軍に対して、ごく少数の精鋭が決死的な戦いを挑む物語が面白くないわけがない。漫画的な(というか漫画が原作なのだが)大胆な演出を用いた、ド派手な殺陣に心躍らないわけがない。物語として映画としてとても面白い。それは保証する。 だけれども、スパルタ軍には決して感情移入できなかった。むしろペルシア軍にこそ親近感を抱いたね。それはスパルタに私が忌み嫌う論理を感じたからだ。血縁ないし疑似血縁的な強固なゲマインシャフトを。 以下、ややネタバレあり。ちなみに「歴史」ではなく「本作品」に焦点を絞って書くので悪しからず。 スパルタ軍の強さは、有事に動員される兼業兵士ではなく、日々訓練する専業兵士からなる軍隊であると同時に、鉄の団結に基づいて精緻な集団密集戦
私は田舎の同質性の高さと、差違がこの世に存在するという発想そのものがなく「永遠の昨日」の再生産に生きる田舎の「魔術の園」的なゲマインシャフを嫌悪している。だけれども、田舎に対する都市住民の「被害者意識」もまた、同じぐらい嫌悪している。 都市住民の「被害者意識」とは、田舎に都市住民の血税が注がれ浪費されている、というものだ。地方への補助金や交付金は地方自治体財政の7割をも占めていることが、その背景にある。そして、田舎ではとかくムダな建物や道路が作られて、血税がムダに使われているというイメージも根強い。実際、ムダな事業はここそこで見出され、また、地元の土建屋に仕事を回し、そのカネが土地に回ることの意義の前には、事業の妥当性そのものは問題ではないといった主旨の主張をする代議士も存在する。 だけれども、都市住民の「被害者意識」には重大な陥穽がある。 まず第1に、とにかく田舎の事業をムダと見なすステ
かの有名な反プーチン派ジャーナリスト、アンナ・ステパーナヴナ・パリトコーフスカヤ(Анна Степановна Политковская)が銃殺死体で発見されたという。日本で一般的な表記をすれば「ポリトコフスカヤ」ね。過去にも一服盛られて毒殺されかけたと言われているが、ついに殺されましたか。 いやまあ、単純に権門の仕業だと決め付けることは出来ない。もともと国民に人気の高いプーチンを陰謀論で語り、敵であるチェチェン武装勢力(ロシア連邦の側に立てば『テロリスト』)に肩入れするなど、国内では反感を買っていた。誰に殺されても不思議ではない。 現在のロシア連邦は、ソ連よりもジャーナリストにとってはやりにくい国だという。ソ連時代は、どこまで報道すればどの程度の危険があるのか、割と明確に線引きがされていた。だが今は、何を報道したら、何が返ってくるのかはわからない。些細な報道で記者が殺された事例も後を絶
本日未明、日本自治共和国首長速水螺旋人閣下が民族問題に関する重要な提起を行った。 冗談めいた口調はともかくとして、これは結構マジな話ですよ。ネットに於けるКорейский民族への嘲笑があまりにも多いということね。こうしたネタを書いている人の多くは心底のレイシストなんかではなくて、ちょっと面白いからネタにしている、あるいはテレビ等で報道されるантияпонский行動への当然の批判として捉えているのかもしれない。だが、こうした人種・民族を嘲笑して他者化する行為そのものが、中長期的にはポグロムに繋がらないかと速水先生は危惧しておられるわけだ。 具体的な政策や政治体制、政党や圧力団体、企業を批判するのは個々人の自由だ。具体的な個人の批判も名誉毀損にならない方法でならば、まあ、いいだろう。だけれども、民族そのものの批判はどうかと。ましてや民族への侮辱は危険な行為だ。 というのは、民族なるものは
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