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継承にかかわる諸問題2003-05-07「継承」はオブジェクト指向ではよく話題になり、また問題視されます。しかしそれは使い方が間違っているからです。 単刀直入に始めましょう。継承には3種類あります。そしてそれは「オブジェ クト指向」の話で出した「オブジェクトの3つの意味」に対応します。それを 順に見ていきましょう。ここでもまた犬の例を使うことにしましょう。 内包の継承内包とは「犬とは何か」でした。そして内包の継承とは、「犬」という概念を 受け継いで、それより狭い概念を導出することにあります。例えば「秋田犬」 というオブジェクトを作ることにあたります。 「犬とは何か」という問いの答えは「食肉目イヌ科の哺乳類でオオカミを家畜 化した動物」でした。そして「秋田犬とは何か」という問いの答えは、「食肉 目イヌ科の哺乳類でオオカミを家畜化した動物であり、秋田原産で大型、尾は 太く番犬に適した動物」です
nerdという英単語とgeekという英単語は、日本語ではどちらもオタクと訳されてしまうが、細かいニュアンスを見ていくと、両者はかなり意味が違う。 なお、ここでの話は単に言葉の意味について話をしているだけで、実際にそういう人がいるかどうかは問題にしていないし、現実の人がどちらかの特徴にすっぱり分けられるなんてことも主張していないということを念のため書いておく。 興味の範囲違いを端的に言うなら、広さを求めるのがnerdで、深さを求めるのがgeekだ。図で描くとこんな感じだ。 geekは、普通の人より興味が狭く、その分深い。そして多くの場合、中心軸は普通の興味対象からずれている。 それに対してnerdは、興味が広く浅い。しかし、浅いといっても、普通の人は興味を持たない分野について見れば、それよりは深いと言える。また、人間の当然の限界として、すべての分野を知ることは不可能だ。だから、これは実際の知
継承にかかわる諸問題2003-05-07「継承」はオブジェクト指向ではよく話題になり、また問題視されます。しかしそれは使い方が間違っているからです。 今回は少し専門的に、継承のお話です。「オブジェクト指向とは?」と問われ た時、多くの人は「クラス・継承・多態性だ」と言います(そしてそれは間違っ ています)が、そのくらい継承というのは世の中で重要視されています。 「継承」というのはオブジェクト指向言語の一番かっこいい部分であり、また 一番問題になる部分でもあります。ここで「オブジェクト指向言語の」と書い た事に着目して下さい。継承の問題のほとんどは、システム分析などの上流工 程を知らないプログラマが、下流工程であるプログラミング言語の知識をその まま持ってきてしまうことに起因します。つまり、「オブジェクト指向とは?」 という質問と「オブジェクト指向言語とは?」という質問の違いがわからない 人
さて、次にゲームバランスの話をしよう。ゲームの良し悪しを語る時に、「ゲームバランス」という言葉がよく使われる。ゲームバランスはあった方がいいと一般に思われている。しかし、ゲームバランスとはいったい何だろうか? 非対称ゲームボードゲーム「スコットランドヤード」は泥棒役と刑事役に分かれて追いかけっこをするゲームだが、あまり勝率のバランスは取れていない[1]。普通にやると多くは刑事側の勝ちに終わる。しかし、それにも関わらずこのゲームは非常に面白い。つまりは、ゲームにおいて勝率が五分五分である必要はないのだ。 ゲームは「勝ちを目指すもの」である。だから相手の方が多少有利でも問題はない。いや、自分が不利な方がより望ましいともいえる。難しいゲームになって、より考える事が多くなるからだ。勝率が皆等しいという意味でのゲームバランスはなくてもよい。 しかし、多くの対戦ビデオゲームではそうなってはいない。それ
「セカイ系」というのは、その手の小説やマンガを知っている人には感覚的に わかる概念であるが、そうでない人にはなかなか説明しづらい。そのせいで、 人によって説明がけっこうバラバラだったりする。知っている人が見れば、そ れぞれの説明が同じ対象を別の角度から言い表しているものとわかるのだが、 知らない人にとっては分かりにくい。 ここでは、困難は承知の上で、セカイ系とは何であるか、できるだけわかりや すい説明を試みたい。 セカイ系は「世界を救う物語」ではないアニメやマンガなどでは、「世界を救う」物語が悪い意味で非常によく目につ く。そのため、セカイ系をこうした物語を指すものだと思ってしまっている人 もいる。半分は当たっているが、半分は外れている。 確かに、「世界を救う物語」にはセカイ系が多い。しかし、そうでないものも 多い。「世界を救うからセカイ系」というのは間違いであるということをまず 認識して
いつも思うのですが、朝、テレビをつけると、どこのチャンネルでも同じニュースを放送していて、残念な気持ちになります。チャンネルを変えていっても、まるで申し合わせたかのように同じ画面が出てくることすらあります。その結果、メリおっと!たいそうを「なんでこんなのを見てるんだろう」と不思議に思いながら見ることになってしまいます。 いつも単に「まったく日本のマスコミは」程度に思っていたのですが、ネットのニュース記事へのコメントで「こういうことを日本のマスコミは報道しないのが問題」みたいなことが書いてあるのを見て、少し考えが変わりました。もはや、みんなテレビを情報源として見てはいないんじゃないか。テレビの報道番組は、そこから情報を得るために見てるのではなく、「テレビが何をどのくらいの扱いで報道するか」を見るために見てるんじゃないか。そんな気がするのです。 極端なことを言えば、テレビの報道番組、特にワイド
ソフトウェア開発の落し穴2013-09-01ソフト開発はプログラムの文法だけを知っていてもうまくいきません。 ソフトウェアのよい開発の仕方について考えます。 ソフトウェア開発はよくトラブルに巻き込まれます。納期がずるずる延びたり、 プログラムがスパゲッティ状態になったり、非常に使いにくいものが出来てき たり。こうした問題をどう解決するかについては今までに多くの人が研究して きました。そして「よいソフトウェアを作るには」という方法論について一定 の成果が上がっているにも関らず、ソフトウェア開発に携わる実務者にまでは 浸透していないのが実状です。 近年では、「ソフトウェア開発方法論」あるいは「ソフトウェア工学」という 名前でこうした成果を本にしたものを数多く見かけるようになりました。これ はこれで望ましいことです。しかし、こうした本を読んだだけでその精神をよ く理解しないまま適用するとかえって
他のところではどうだか知りませんが、少なくとも名古屋の地下鉄では、エスカレーターは走ったり歩いたりせず、止まって乗らなくてはいけないというルールになっています。にもかかわらず、みんな右側を空けて乗るんですよ。 実際、東京に比べてのんびり屋が多いのか、あるいは東京ほど地下深くないからなのか、実際に歩いている人はあまりいません。なのに、律儀に右側を空けているんです。 私は普段は階段を昇っていくのであまり気にしてなかったのですが、この前たまたまエスカレーターで昇る羽目になって、この困った現象に出くわしました。 右側空けの実害として、エスカレーターが傷むとか、すれ違いの事故が起きるとか、いろいろ挙げられています。しかし、ここ名古屋(の通勤時間以外)では、別の実害があります。空いているのにほとんど誰も歩いて行かないから、輸送力が落ちて、入口が混雑するんです。本当に誰も得してない状態です。 公式に「や
昔、ヨーロッパに旅行に行ったとき、電車の切符の扱い方の違いを感じたことがありました。 1日乗車券を使ったのですが、街角の雑貨屋みたいなところで券を買って、自分で今日の日付に印をして、あとは持っているだけ。路面電車だったので、好きなところで乗って好きなところで降りればよく、誰もチェックしたりしませんでした。ほんとにこんなんでいいんかな、とちょっと心配になったりもしました。 たまに検札があって、そこで万が一違反していたりするとどんな言い訳も通用せずに高い違反金を取られるらしいのですが、それが抑止力になっている(事情はよく知りませんが、抑止されているんだと思います)のが、面白いと思うのです。 同じシステムを日本で導入したらどうなるでしょう?やはり日本ではキセルが横行してうまく行かないでしょうか。そんなに日本人はモラルがないとは思いたくはありません。しかし、もし日本でもうまく行くというのであれば、
前に書いた話で思い出したのですが、日本人の「どっちに転んでも困らないようにする」が苦手な特質が明確に出ているものに、保険に対する考え方があります。 本来、保険に入るかどうかというのは、「保険に入って問題が起きたときの得」と「保険に入って問題が起きなかったときの損」を合計して考えるものです。しかし日本では、この両方を合わせて考えるという考え方があまり浸透していなくて、「問題が起きると思うなら入った方が得」「問題が起きないと思うなら入らない方が得」という話になってしまいます。 株も同じような傾向にありますね。「上がると思えば買い」「下がると思えば売り」と言われてしまいます。そういえば、原子力発電所の場合も「事故は起きる」「起きない」で対立していましたね。「どっちの場合も想定する」という考え方が抜けています。 こういうとき、「わからない」と答えると、「ちゃんと自分の意見を持たなくてはならない」み
プログラムは文芸だ2003-04-16プログラムは小説のようなものです。斬新なアイデアと練りに練られた構成が 必要なのです。わけのわからない呪文の羅列ではありません。 程度の差こそあれ、多くの人は「ソフトウェアを作ることはプログラムコード を書くことだ」と思っています。そしてそれは間違ってはいません。しかし、 ソフトウェアというのはそれだけでできるものでもありません。ソフトウェア を作る際にプログラムコードの事しか頭にないという状態をここでは「プログ ラムコード至上主義」と呼びたいと思います。 プログラムコード至上主義の弊害プログラムコード至上主義のもとでは、どれだけ仕事が進んだかは書いたプロ グラムの行で計られます。一日にたくさんの行のプログラムを書ける方が偉い と思われています。確かに毎日何千行もコードが増えていくと仕事をした気に なります。 しかしこれは良くない徴候です。なぜならバグ
今回は微妙に前回の話の続きです。 最近ニュースなどを見ていると、日本人は何か問題が起こったときの対処が苦手な感じがするなぁと思います。といっても、外国のことをそう知っているわけでもありませんが。 たとえば、「何日までに○○を作る」という話があったとして、これだけで契約だと思ってしまう人が結構多くいます。しかも、ちゃんと契約書を作ろうとすると、「できなかった場合にどうするかはその時相談して決める」なんてバカな文面になったりします。その時に相談しても遅いでしょうに。 そして、「何日までに○○を作れ。できなかったら××円払え」みたいな結論になったとして、これ全体で約束だとは思ってない人が多くいます。本当だったら、これ全体で一つの約束事ですから、当日まで他の事をやってて「いやぁわりいわりい、全然できてねーからさぁ、しょーがないから××円払うわ」でもいいはずなのですが、なぜかこうなると怒り出す人がい
最近またマンションのくい打ち工事での偽装のニュースがありました。自分に関係のあるニュースじゃないんですが、いろいろと思うことがあります。 インタビューで、住人が「大手だと安心してたのに」と言っていたのが気になりました。東芝が決算を偽装し、フォルクスワーゲンがプログラムに細工をするこの世の中で、大手だと何が安心なのだろうかと。 大手だと安心なことといえば、お金があることと、夜逃げできないことです。今回は偽装がわかって補償もされるのだから、かなり良かったケースではあります。そう考えると、「大手だと安心してたのに」ではなく、逆に「大手だから偽装があってもちゃんと補償するだけの金があって安心だ」となるはずで、それこそが「大手の安心」であるはずです。逆に、それ以外に何の安心があるのか。 たとえば、野菜だと、ちょっと前に「生産者の顔が見える」というのが流行りました。実際に顔が見えたからといってどうだと
経営の本の嫌な感じ2015-09-29他人の力を信じようとせず、逆にだまして儲けようという風潮について。 本屋さんでいろんな本を眺めていると、平積みになっている本のタイトルが嫌でも目につきます。面白そうに思うのもあるけれど、首をかしげたくなるタイトルもあります。 よくあるタイプでなんだか嫌な気持ちになるのが、「100円のものを1000円で売る方法」みたいなタイトルです。読む方としては何が書いてあるのかちょっとは気になるけど、そんな本を読んでる人がやってる店には行きたくないよなぁ。100円のものを1000円で売りつけられたらたまったもんじゃない。 最近いろんなニュースを見ていると、他人への信頼が揺らいでいるような気がするのです。はっきり言うと、他人をバカだと思っていて、お客が細かいところまで見ないことを想定した複雑な料金体系や、最初はタダにしておいてお客が解約を忘れるのを狙っているとか、悪事
ロールプレイとは何か2002-11-12テーブルトークRPGを取り上げ、「ロールプレイとは何か」を大真面目に考察しました 今度は、テーブルトークRPGがロールプレイ主体からなりきり主体になったために、プレイスタイルにどんな変化が起きたかを例を挙げて説明する。特に、旧来のロールプレイングゲームをしたい人の中にそうでない人が混じるとどんな問題が起きるかについて考えたい。 パワープレイ敵が出たらとりあえず殴る、そんなプレイが「パワープレイ」と呼ばれる。きっとこの人はコンピュータRPGしかやったことがないのだろう。コンピュータRPGでは敵が出たら殴るしか選択肢がないが、テーブルトークRPGではそうではないのだ。隠れてやりすごすとか、わなを仕掛けて待ち伏せするとか、やれることはいくらでもある。しかしそういう人に限って運が良く、「敵が出た→殴る」だけでどうにかなってしまう。他のプレイヤーはそんな事は既
はじめに 最近、日本のRPGはよくJRPGと略され、海外からの主に嘲笑の的になっている。そして、それに対する反発もよく聞かれる。しかし、どうも議論が的外れになってしまうことが多いように思う。ここでは、そもそもRPGとは何なのかということを考えつつ、なぜJRPGと一くくりにされるのかということを考えていきたい。 この問題を、キャラデザインの問題(なよなよした中性的なキャラクター)やグラフィックの問題(アニメ調あるいはマネキン人形)、ストーリーの問題(何のとりえもない若者が世界を救うストーリー)だと捉えてしまうのは、いかにも早計である。こうした要素は、よくよく考えてみると、海外のRPGもたいして変わらなかったりする。 問題は、もう少し根幹部分にある。RPGとはどういうゲームなのか、である。 理想と現実 まず、本文中には理想論を多く出す。これらを「そんなのは理想論だ」と言っても意味はないし、「海
議論のしかた2003-07-16ネットで議論をするにはルールがあります。いえ、ネット以外で議論する場合も同じですが。 「自由」というのは難しいものです。何もない時は皆「自由は大切だ」と言いますが、何か問題が起きると「野放しはよくない」「規制をかけるべきだ」と言い始めます。はたして「自由」というのはいいものなのでしょうか、良くないものなのでしょうか。 ここでは「発言の自由」について考えます。これは「議論では発言の自由を保障すべきあり、それを阻害してはいけません」という注意事項ではありません。発言は本質的に自由であり、それを阻害することは物理的に不可能だというのが結論です。発言の自由をわざわざ阻害しているのは自分たちなのです。 発言の自由とは「発言の自由」とは何でしょう?文字通り「誰が何を言ってもいい」ということです。そしてそれは質問にも回答にも言えます。してはいけない質問もしてはいけない発言
仮想的な価値2011-06-21それが良い物なのであれば一番でなくてもいいが、そういうものはたいてい一番になってしまうのだ。 以前、事業仕訳で蓮舫の「なぜ一番でなくてはならないのか」という質問が話題になったことがあった。日本人はどうも、この手の質問に弱い人が多いように思う。 価値基準を決めたらそれに盲目的に追従してしまう人が多く、価値基準自体を設定したり見直したりすることが得意ではない。言い換えると、対象自体に価値があって、それを適切な基準で評価するという考え方ではなく、まず基準があって、それで評価されたものが価値なのだと考えてしまう。だから、ある価値基準が設定されると、それを追求することに本当に意味があるのかどうかを考えずに、とにかくそれを追求することが是なんだと考えて、そこに突っ走ってしまう。 英語には、"one of the most ~"という言い回しがある。これを日本語に訳すと「
ゲームとか小説とかで、リアリティが重要だとよく言われる。しかし一方で、リアルにすれば面白いのか?という疑問もよく聞く。リアリティが今回のテーマだ。 わかりやすいように、ゲームの話をしよう。リアルに作ればゲームが面白くなるんだろうか?という問いは、発想が逆だ。ゲームをリアルに近づけるんじゃない。リアルをゲームに落とし込むんだ。 つまり、現実に面白いものを持ってきて、それをゲームにするのだ。自動車レースが面白いからレースゲームを作る。飛行機の操縦は面白いからフライトシミュレータを作る。会社の経営が面白いと思ったら経営ゲームを作る。戦争が面白いと思うならウォーゲームを作る。 じゃあ、現実ではないけれど面白いものを持ってきたっていいじゃないか、そうすれば別にリアルでなくってもいいんだろ?と思うかもしれない。ある意味、その通りだ。しかし、「現実ではないけれど面白いもの」をどうやって見つけるんだ?でき
本音と建前という概念は、外国の人にとってはどうもよくわからないと言われる。では日本人はそれをきちんと使い分けてているかというと、最近ではどうも怪しい気がする。 そもそも、本音と建前とはいったい何かということから、見ていくことにしよう。 建前というのは概念の世界であると考えるとわかりやすいだろう。そうすると、「本音と建前」という言葉は、「現実の世界と概念の世界との間にある違い」を示していると言える。そうすると、「本音と建前を使い分ける」とは、この違いを意識して考えるということだ。 建前の世界には、「本音と建前」という概念はない。建前の世界の中では、どこまでも建前のみが正しく、例外など存在しない。だから、「本音と建前」を持ち出すのは、必ず本音を言う側だ。「本当はこの書類は昨日までに提出しなければならなかったんだけど、どうせ作業を始めるのは午後からだから、今日の午前中までにここに持ってきてくれれ
カウンターカルチャー2011-01-19今のアニメはサブカルチャーではなくカウンターカルチャーである。 いわゆるオタクと規制の問題は、繰り返し話題になり、しかもネタにしやすいので、またかと思われるかもしれないが今回もこのネタで書くことにする。 これから、今のオタク系のマンガやアニメなどは、世間から非難されるのが当然なのだという話をする。それはなぜかというと、これらがカウンターカルチャーだからだ。アニメやマンガがサブカルチャーだった時代はもう終わった。これらが既にメインとして取り込まれてしまい、残りの部分が先鋭化してカウンターカルチャーとなっている。 サブカルチャーとカウンターカルチャーの違いは、漢字で「非」と「反」の違いだと言えばわかるだろうか。一般人の価値観というものがもしあるとして、そこから外れているのがサブカルチャーで、それを否定するのがカウンターカルチャーである。サブカルチャーが否
以前、コラムで文系と理系の話をした。文系は主観を、理系は客観を対象とする、という話だった。 理系は客観を主観に置き換える学問であり、文系は主観を客観に置き換える学問である。ところが、対象に興味がなく成果だけを取り込もうとしまうため、客観と主観のイメージが逆転してしまうようになる。本来、外の世界というのは「何でもありのよくわからない世界」であり、それに対して人の心は「よくわかっている存在」であるのだが、それが逆になってしまう。すなわち、外の世界は「すべて知り尽くしたよくわかっている世界」であり、人の心が「よくわからない存在」になってしまう。 これがどういうことであり、その結果どうなるかというのが、今回のテーマである。 たとえば、「ある日突然空から美少女が降ってきて、さえない男がモテモテになる」という筋書きの小説に対して、「こんなのあり得ない」と言う。では、この話のどこがどうあり得ないのか。「
最近、「こだわり」という言葉を誤用している人が多いことが気になる。 辞書を引いてみると、「気にしなくてもいいことを気にする」とか「細かいことにとらわれる」とある。語義を見る限り、どう考えても悪い意味の言葉だ。それが、最近、良い意味に使われることが多くなってきた。 「こだわる」ことは悪い事で、「こだわらない」ことは良い事だ。それがどうして反対になってしまったのだろう。 たとえば、「こだわりのそば屋」と言ったとき、どんなそば屋を想像するだろうか。「○○産の厳選されたそばの実を使い、それを石臼で丁寧に手で挽いて……」てな感じのものを想像するのは、皆同じだろう。ただ、その後、「やっぱり手間をかけたそばは味が違うねぇ」となるか、「材料にばかり時間をかけているけど、打ち方もゆで方もまるでなってない」になるか。本当は、後者の意味で使うのが正しい。 原義に従う限り、「こだわり」という言葉は、「気にしなくて
細切れにされた文章2010-10-20他人の文章をしっかり読んでいないのではなく、読むことができないのだ。 ネット上で、誰かの発言に対する反応を見ていて、違和感を感じることがいくつかある。本筋とは関係のない一発ギャグに対して過敏に反応したり、本文に書いてあることをわざわざ質問したり。要するに、元の発言をちゃんと読んでないんじゃないかと思われるのだ。 これを「文章をちゃんと読んでないのが悪い」で済ますのは簡単だが、どうもそれだけではない、もっと根本的な問題をかかえているようだ。 文章をちゃんと読んでないように見えるこの手の事例は、彼らが「文章を読む」ということを次のように処理しているのだとすると、とても納得がいく。 文章を最初から1文ずつ読み込み、意味を解釈する意味が解釈できないなら、それはノイズとして破棄する。その1文が正しいなら、それを頭の中にインプットする。その1文が間違っているなら、
ネット上で、誰かの発言に対する反応を見ていて、違和感を感じることがいくつかある。本筋とは関係のない一発ギャグに対して過敏に反応したり、本文に書いてあることをわざわざ質問したり。要するに、元の発言をちゃんと読んでないんじゃないかと思われるのだ。 これを「文章をちゃんと読んでないのが悪い」で済ますのは簡単だが、どうもそれだけではない、もっと根本的な問題をかかえているようだ。 文章をちゃんと読んでないように見えるこの手の事例は、彼らが「文章を読む」ということを次のように処理しているのだとすると、とても納得がいく。 文章を最初から1文ずつ読み込み、意味を解釈する 意味が解釈できないなら、それはノイズとして破棄する。 その1文が正しいなら、それを頭の中にインプットする。 その1文が間違っているなら、捨てる。あるいは、どこが間違っているかを指摘する。 文章を、頭から1文ずつ処理しているのがミソだ。最初
今回も、前回の内容の続きである。 ちょっと前に、5年考えて解けなかった問題が反響を呼んでいた。なかなか面白い問題で、みんなが熱中するのもわかる。私もこういう問題は大好きだ。下の図の角CDEを求めよという問題である。なお辺AB=ACである。 しかし、一つお願いだ。本当の中学生にこの問題を解かせないでほしい。この問題はあくまでパズルであり、本当の数学の問題ではない。こういう問題しか出さないから、子供は数学をパズルだと勘違いする。そしてこういう問題は面白いから、この面白さを数学の面白さだと勘違いする。それが良くないのだ。 「問題とは何か」という認識がまだできていない子供の頃からこういう問題ばかり目にすると、こういうものが「問題」であると勘違いする。世に言う「ひっかけ問題」「ひらめき問題」というやつのことだ。そういう問題ばかりを与えると、問題はひっかけがあったりひらめきが必要だったりするものという
ライトノベルという言葉は、よく使われるようになったが、定義の非常に難しい言葉だ。 ライトノベルとはいったい何なのか。ライトノベルは通常のフィクションとどこが違うのか。それが今回のテーマである。 目次はじめにメタフィクションケータイ小説感情移入ジュブナイルとファンタジートレンディドラマキャラクターさいごに
前回、「理想の自分」という話をした。しかし、何か勘違いされそうな気がするので、「理想の自分」の話を詳しく書くことにする。 「理想の自分」には2種類がある。一つは、前回に書いた、「欠点のない素晴しい自分」という幻想だ。もう一つが、目標としての自分の理想像だ。 結論から言うと、まず前者を持ち、それを捨て、後者に持ち換えるべきだ。「素晴らしい自分」で止まってしまっていては良くないが、それすら持てない人はもっと良くない。 「素晴らしい自分」と書いたが、本当は逆で「自分は素晴らしい」と書くべきところだ。自分は素晴らしい存在で、世界に唯一無二の存在であり、(自分にとっては)他の誰よりも価値がある。そして、誰も自分の存在の素晴らしさを否定することができない。こういう考え方である。 こうした考え方は、人間が生きていく上で無くてはならないものである。普通の人は、子供の頃にこうした考え方を心の奥底に刻み付けら
ここの内容も含む文書が議論のしかた にあります。 日本人は議論が苦手だ、とよく言われる。本当はこれは日本人に限ったことではない。議論好きにみえる古代ギリシャの人々でも、ソクラテスが「あなたとは議論にならない」と怒って帰ってしまったというような話がある。だから議論にならない人というのは昔からいたのだろう。 ただ日本人のよくないのは「議論はよくないことだ」という印象があることだ。「朝まで生テレビ」などの番組を見て普通の人が持つ印象は「なんであいつらはあんなに下らない事をやってるんだ」というものだろう。テレビ視聴者は議論を見たいのではなく、口喧嘩を見たがっているのだ。そして、彼らはその期待に答えてよく口喧嘩をやる。だから議論=口喧嘩のような印象を受けてしまう。 正確には「朝まで生テレビ」は議論ではなく討論だ。「ディベート」という英語があてはまるところだ。あれは議論ではない。では議論と討論はどこが
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