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買ってよかったもの
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再開以前はこのブログの読書ノートに人類学の本は取り上げないという方針でした。それは、専門的になりがちだからという理由と、人類学の文献については大学のゼミで取り上げたり授業のなかでコメントをしたりしていたからでした。けれども、今後は人類学の本も取り上げていこうと思います。 今回は、執筆者の一人である猪瀬浩平さんから贈っていただいた以下のブックレットを紹介します。猪瀬さんありがとうございました。 農文協編『新型コロナ19氏の意見:われわれはどこにいて、どこへ向かうのか』(農文協ブックレット21)農山漁村文化協会 ISBN978-4-540-20137-0 このブックレットには、4月上旬に書かれたり聞き取りされたりした19人の論考やエッセイが収められています。新型コロナウイルスについての専門家とも言えるウイルス学者や感染症学者も寄稿しているとともに、農文協らしさとも言うべき新自由主義的グローバリ
C・ダグラス・ラミス『ガンジーの危険な平和憲法案』集英社新書、2009年8月刊 Isbn:9784087205053 不思議な本でした。 ガンジーの独立についての構想の異様ともいうべきラディカルさは、今回のこの本ではじめて知りました*1。それだけでもこの本は読む価値があります。ガンジーが考えていた「独立=自立」とは、インドの70万の村ひとつひとつを自立した共和国にするというのですから。 想像してみてください(ジョン・レノンみたい)。70万の共和国! そのひとつひとつが主権をもちます。たとえ、村が集まって「タルカ」をなし、タルカが集まって地域をなし、地域が集まって州をなし、州が集まって連邦をつくるとしても、州や連邦に権限や強制力はなく、村のために助言と提案をするだけ。あくまでも主権をもった村=共和国が全インドを埋め尽くす。すごい。 ガンジーは、インドの村の平均人口が400人くらいと言っていま
レヴィ=ストロースが10月30日に亡くなったというニュースが今朝はいってきました。コメントでもそのことを書かれた人もいましたね。去年11月に100歳の誕生日を迎えたときも寝たきりになっていたので、ああやっぱりそうなのかという感想でした。「祝 レヴィ=ストロース100歳の誕生日」を書いてから1年もたたないうちでしたね。 共同通信社から追悼文の寄稿を依頼されましたが、短時間で(もちろん予定原稿なんか作っていませんからね)、しかも原稿用紙3枚ぐらいだと何も書けない感じで、いちおう寄稿しましたが、新聞向けとは思えないものとなりました(依頼した方も、時間がないので、しょうがねえなあという思いで配信するのではないかな)。 いま、その改訂増補版を書いているところです(まあ、代打で三振したあとにベンチ裏で素振りしているようなものですが)。これくらいの枚数だとすこしはましなものを書けたのになという思いで、加
学部のゼミのM君がゼミ論文のテーマを「疑似科学と呪術」とするというので、ゼミで発表してもらいました。その発表のなかで、「疑似科学」とは何かということを説明するのに、M君が池内了さんの『疑似科学入門』のなかの分類を批判的に紹介してくれたのですが、「ん?」という疑問符でいっぱいになったので、早速この本を注文して読んでみました。その結果、頭の中の疑問符はもっと増えました。 私は、疑似科学(似非科学・ニセ科学)というものは、「マイナスイオン」とか「ゲーム脳」とか「電磁波の害」といった、「科学を装っているが科学的方法に基づいていない言説」のことを指すのかと思っていました。しかし、池内さんはそう思っていないようです。この本では、疑似科学を3つに分類しています。 《第一種疑似科学》 現在当面する難問を解決したい、未来がどうなるか知りたい、そんな人間の心理(欲望)につけこみ、科学的根拠のない言説によって人
いま大学院の授業で、関根康正さんの『宗教紛争と差別の人類学』(世界思想社、2006年)を講読しています。この本のなかで、関根さんは、インドの今日の宗教紛争を招いているヒンドゥー・ナショナリズムとイスラーム主義双方の「コミュナリズム(宗教対立主義)」の台頭に対して、セキュラリズム(世俗主義)を擁護しようという論調があるけれども、コミュナリズム対セキュラリズムの構図では、宗教紛争を解決することも読み解くことはできないと言っています。 すなわち、特定宗教を普遍的価値として主張するコミュナリズムと、すべての宗教の価値評価を保留し私的領域に押し込めるセキュラリズムの対立は、見せかけのものであり、両者は、「宗教を対象化して眺められるような近代思考としての世俗化した社会認識を共有している」(41頁)と言います。 つまり、セキュラリズム(世俗主義)もコミュナリズム(宗教対立主義)も、宗教を「客体化」してい
前々回のエントリーで、私が調査している西ケニアのクリア社会の女子割礼のことを取り上げました。人道的介入を訴えるFGM(女性器切除)廃絶論者と文化相対主義に立つ人類学者の断絶を少しでも埋めて対話がなりたつようにという意図もあって書いたのですが、FGM(女性器切除)廃絶論者からのコメントもトラックバックもいまのところありませんね。 これはひとえにこのブログの力不足のせいでしょう。Googleで「女子割礼」を検索しても上位200までに入っていないのですから、関心のある人に読んでもらうのは困難というものです*1。学生のレポートにも使えると思うのですが(単位がとれるかどうかは保証の限りではありません)。 日頃からゴールデンタイム番組のような万人向けではない「深夜放送」的なニッチを目指しているなどと、読みにくいブログになっていることへの言い訳にしているから、いざ広く読まれることを狙ったものを書いても、
民主党のマニフェストの目玉の一つである「子ども手当」について、所得制限を設けるべきという声があがっているようです。政権発足後すぐに、与党である社民党の福島みずほさんが、子ども手当には所得制限を設けるべきだと発言しましたし、自立生活サポートセンター・もやいの湯浅誠さんも、『毎日新聞』2009年9月8日夕刊の「特集ワイド」の記事でのインタヴューのなかで、所得制限のない子ども手当を「まるっと支援」と呼び、「一億中流は崩れたのに、階層の発想がない」と批判しています。 再分配すべき財源が一定なのに、金持ちに再分配するなんて無駄だという左翼らしい発想ですが、このブログで「ベーシック・インカムを!」と提案している私としては、このような発想は困ります。「0歳から死ぬまで、金持ちにも貧困層にも、なんの区分・制限なしに、一人当たり一律月10万円支給」なんて言ったら、「なんで限られた財源から金持ちにまで支給する
アフリカの女子割礼について話題になっているようです。私は、ケニア西南部とタンザニア西北部の国境をまたいだ地域に住んでいるクリアという民族について、西ケニア側で現地調査をしており、1990年代後半に、クリア社会の男子割礼と女子割礼の調査をしたことがあります。 その成果の一部は、科研費の成果報告書ならびに博士論文という形で発表していますが、一般に読まれる形での発表ではありませんでした。アフリカの女子割礼への関心がすこしでも上がっているときに、現地調査したことのある人類学者として、現地の声を紹介する義務があるだろうと思い、緊急エントリーをアップします。 民族誌的事実を紹介する前に、まず、アフリカの女子割礼を廃絶するために人道的介入をすべきだという人権派と、現地の声や当事者にとっての意味を知ることが大切だという、文化相対主義的な立場をとる人類学者との間のディスコミュニケーションについて、私の意見を
いつのまにか5月ですね。いま、真正性の水準の帰結である「二重社会」という視点の意義について、1冊の本を書いています。論文を集めたような学術書ではないのですが、少しでも学術的な部分を含んだ本を書くとなると、たとえば、これまで似たようなことを述べている研究との類似点と相違点や、共同体や過去のロマン化ではないか等の想定される批判への防御、用いている概念の厳密化など、ようするに誤解されないような手続きを経なければならず、そのために、書いていても論がストレートに進まず、多少まどろっこしい思いをしています。 私の「二重社会」論についての最新の論考「『社会の二層性』あるいは『二重社会』という視点」を「小田亮の研究ホームページ」にアップしました。上で触れた本の「序論」の内容の一部を、4月24日に京都大学で開かれた、京都人類学研究会の例会で講演したときの原稿です。 http://www2.ttcn.ne.j
「二重社会」ないしは「社会の二層性」という視点から、内山節さんの著作を読み直してみたいと思います。これは、二重社会論・社会の二層性論を明確にするための作業でもあります。 その前に、「二重社会」ないしは「社会の二層性」という視点について、ここで簡単にまとめておきましょう。二重社会は、レヴィ=ストロースのいう真正な社会と非真正な社会という、二つの社会の様相の基本的な区別からの帰結です。この区別は、レヴィ=ストロースのことばを使えば、「3万の人間は、500人と同じやり方では一つの社会を構成することはできない」という、いたって単純なものです。この単純さが重要です。たとえば、この単純な区別は、近代になって、貨幣や行政や議会やなどの媒介によるシステムがローカルな共同体の内部にまで入り込んでくるようになってからも維持されます*1。 レヴィ=ストロースは、シャルボニエとの対談で、議会という制度を例にして、
内山節『怯えの時代』新潮社(新潮選書)2009年2月20日発行 Isbn:9784106036293 内山節さんは、私が現在もっとも関心を寄せている哲学者です。東京と群馬の上野村という山村の「二重生活」をしながら書かれた、『「里」という思想』(新潮社、2005年)、『「創造的である」ということ 上・下』(農文協、2006年)、『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社、2006年)といった著作は、このところの私の研究テーマである「共同体」や「ローカル」という概念の再構築というテーマにつながるものでもあるからなのですが、それ以上に、レヴィ=ストロースの「真正性の水準」にとても近いセンスを感じるからでもあります。 レヴィ=ストロースのいう「真正性の水準」という視点から「共同体」や「ローカル」を捉えなおすと、「社会の二層性」ないしは「二重社会」という見方に行きつきますが(私も最近ようやく行きついたのです
話題となっていた村上春樹さんのエルサレム賞受賞講演について書こうと思っていながら、つい忙しさにかまけて時期を逸し、書きそびれてしまったなと思っていたら、きょうの毎日新聞の夕刊とサイトに講演の英文と日本語訳(夕刊は日本語訳だけですが)の前半部分が載っていました。残りは火曜日に載るようですが、この機会に書いておこうと思います*1。とはいっても、受賞講演のテキストは、共同通信エルサレム支局長の長谷川健司特派員が、エルサレム賞主催者から提供を受けたテキストを基に、実際の講演での修正部分も録音を使って再現したものを使うことにしますが*2。日本語訳は拙訳です(といってもまずい訳という意味ではありませんよ)。 さて、レヴィ=ストロースの「真正性の水準」の帰結のひとつは、人は社会の二つの層を二重に生きているというものです。すなわち、近代になって地球上のあらゆるところで非真正な社会が真正な社会を包摂するよう
悪い癖でもあるのですが、ベストセラーや話題となっている本にはどうも食指が動きません。『バカの壁』はついこの間読んだばかりですし、『生物と無生物のあいだ』や『悩む力』は買う気もまだ起こりません。養老孟司さんや姜尚中さんの本は『バカの壁』や『悩む力』以前の本はたいてい買っていたのですから、ベストセラーに対する偏見としかいいようがないのですが。みんなが買っているものを読むのがいやなのか、いろいろ書評やコメントが出ているともう読んだ気になるのか、やっかみなのか。ただ、いちおう自分なりの理屈はあります。 『バカの壁』(それなりに面白かったです)のように、話題にならなくなってから機会があれば読むこともありますし、それでもっと早く読めばよかったと後悔することもほとんどありません。ひとそれぞれにその本と出会ういい時期というかタイミングというものがあるわけで、そのときが来たら自然と読むべきものは読むことにな
河出書房新社から『道の手帖 中島敦』が送られてきました。河出の編集者に知り合いはいないので「はて?」と思って開けると、松本潤一郎さんからの献本のようです。松本さんとも面識がないので、二度目の「はて?」。 謎を解くべく掲載されていた松本さんの「トロピカル・ダンディ?――動物・近親性交・聲・文字・自死・食人儀礼」と題された論文を読みました。中島敦の「文学」をレヴィ=ストロースのインセスト(近親性交)論から浮かび上がらせるというもので、文学論として評価する能力は私にはありませんが、レヴィ=ストロース論として面白く読めました。けれども、知り合いである出口顕さんや渡辺公三さんの論考は参照されていましたが、私の書いたものを参照したりしているわけではないので、そこで三度目の「はて?」となるところですが、つぎのようなことばを注で見つけたときに、勝手に、疑問を解消させました。それは、 ついでに述べておく。一
報告書用の論文の原稿が一息ついたので(とは言っても書き終えたのではなく、締切を1か月伸ばしてもらっただけですが*1)、久々に2日連続のエントリーを。 政府や政治家の景気対策や雇用対策はどうも変な方向に行きがちになってきました。政府のほうはといえば、定額給付金も額が小さい上に、どうしても3年後の消費税増税とセットにしないと気が済まないようです。定額給付金はいわゆる「埋蔵金」を充てるのですから、増税と一緒に言わなくてもいいはずなのですがね。増税と一緒にアナウンスすれば、ただでさえ額が小さくて少ない効果がゼロになるという理屈は誰でもわかるはずですが。麻生総理は増税の計画は責任ある政権与党の「矜持」だと言っているようですが、そんな自分たちのプライドよりも、不況対策のほうが大事だということも分からなくなっているようです。 それに、どうしても政権与党の矜持とやらを示したいというならば、増税(しかも消費
2009年最初のエントリーは、心に残っている言葉を紹介したいと思います。発言者は、アメリカの哲学者リチャード・ローティです。どんどんナショナリストになりつつあるローティの書いていることには批判的になることが多いのですが、つぎの言葉は腑に落ちます。 デスクの前に座ってキーボードをたたいているわれわれが、手をよごしてトイレを掃除してくれる人びとの十倍、われわれが使っているキーボードを組み立てている第三世界の人びとの百倍の報酬をもらっているというのは耐えきれないと思うように、わたしたちの子供を育てるべきである。最初に産業化した国々が、まだしていない国々の百倍の富を有しているという事実について、子供たちが確実に憂慮するようにすべきである。子供たちは、自分たちの運命と他の子供たちの運命との不平等を、神の意志だとか、経済効率のために必要な代価とかでなく、避けることのできる悲劇だと見ることを早くから学ぶ
年の瀬もいよいよ押し詰まりましたが、12月末締切りの原稿がまだ2つ溜まってしまっています。毎年のように「年末締切」の原稿があり、年々増えていきます。これはひとえに「オーディット・カルチャー」のせいです。学振(科研費)や共同利用機関や大学の共同研究プロジェクト等の成果報告書を年度内に出すために年内締切りとなるわけです。補助金をもらっている以上、成果報告論集を出すのは当然ということになっていますが、本当の意味での研究成果はそう簡単に出るわけはなく、時間が必要なのですが、細切れの成果報告書を書く時間のために消化・熟成する時間がなくなってしまうということになりかねません。と、愚痴を言っていても仕方ないので、本題に。 さて、年末になったので、非恒例の「今年の5冊」を発表します*1。今年出版された本で私が読んだものの中から、印象に残った本を5冊選んでみました。 今年も本の購入金額は300万円くらいにな
きょう11月28日は、クロード・レヴィ=ストロースの100歳の誕生日です。予定原稿でも作っておいて気の利いたことでも載せればよかったのでしょうけれども、行き当たりばったりで。 主著の『神話論理』の最終巻(神話論理4)の第一分冊の『裸の人1』はようやく誕生日に間に合って刊行されたようですが、『裸の人2』は来年の4月ごろになるようです。これで『神話論理』4部作の翻訳が完結しますが、なかなか読む人は少ないでしょうね。もっと短く読みやすい神話論である『大山猫の物語』が翻訳されるといいのですが。原著の『裸の人』が出版されたのが1971年ですから、70年代に翻訳が出ればもっと読まれたでしょうが、もっとも「構造主義」ブームという形で消費されて忘れ去られてしまうよりは良かったのかもしれません。レヴィ=ストロースの思索は、「現代思想」として消費されてしまうものとは無縁の、消費されつくせないものを示しているの
論文執筆で忙しいさなかですが(いつのまにか次の締切が近づいてきました)、田母神前空幕長の更迭問題に絡んで、「言論の自由」についての言説が飛び交っているようです。この言葉の使い方が前から気になっていたので、ちょっと言論の自由について書いてみたいと思います。 まず、マスコミや歴史学者が田母神前空幕長の「論文」と称するものの「内容」を、「事実に反する」とか「中学生以下」と批判しているのに対して、ものを自由にいう言論の自由はないのかと怒っている人がいます。今回の問題に限らず、ブログで書いたことを批判されると「言論の自由はないのか」と言ってしまう使い方は前から気になっていました。言論の自由は、その内容にかかわらず、意見を公表することを妨げることに対する「自由」の主張です。公表した後で批判されるのは当然引き受けなければなりません。ある言論の「内容」に対してはあくまでも言論で対するというのが「言論の自由
11月4日の毎日新聞夕刊の「牧太郎の大きな声で言えないが…」というコラムで、次のようなことが書かれていました。 追及すべきは「税金を納めない人にも一律に定額給付する経済政策」である。税金を払わない人にまで金券を配る。大枚2兆円。選挙前の合法的買収行為じゃないのか。 ネタとしても、このネタを構成する理屈がわかりません。税金を払った人に配るのは「減税」だから合法的買収にはならないっていうことなのかな。まあ、「合法的買収行為」なんで行為はないと言ってしまえばそれまでですが、あえてそう言いたいのならば、選挙前の「減税」の公約だって同じことでしょう。選挙前に税金を払っている奴にお金を渡すと買収ではなくて、払っていない奴に渡すと買収に近いっていうのは、どこから来た考えなのでしょうね。たぶん理屈ではなく、「税金を払っていないなんてけしからん」、「どうせ働いていないんだろうから、そんな奴にまで金をやるな」
麻生首相が30日、全世帯を対象とした総額2兆円規模の給付金支給などを柱とした追加経済対策を発表した際に、3年後の消費税率の引き上げを明言しました。消費を拡大するための政策を発表するときに、増税を明言するって、給付金支給の効果を無にするようなものなのじゃないのかな。ただでさえ、不況の際の一時的な給付金や減税は将来の増税を予想しやすいので消費に回らないと言われているのに、首相みずからだめを押すとは不思議です。もっとも、ご本人もまずいと思ったのか、31日になって、景気が回復すればという条件を強調したらしいけど、もう遅いって。河村官房長官は31日の記者会見で、「未来を考え、国民にきちっと説明をしたことは評価されるべきだ」と言ったようだけど、ただでさえ弱い景気対策を台無しにした責任のほうが重いでしょう。 でも言いたいのは、なぜ消費税の増税なのかということです。消費税が逆累進的なもので、低所得者に重く
黄色い犬さん、コメントありがとう。予告編には期待していますというコメントをいくつかいただいたのに、本編にはコメントがなかったので期待外れだったのかなと思っていました。これで心おきなく仕事をしようと思っていたのですが、黄色い犬さんのコメントに、 「労働倫理」が強力な足かせ(?)になってるのは当然にしても、「独り占めにしたい気持ち」や「人を見下したい気持ち」というようなたぶん誰にでも少しはあるような感情が「労働倫理」というものを支えているような気がして、ベーシック・インカムへの道はなかなか険しいような。 とあったのが気になりました。やはり、走り書きでしかもあちこち話が飛んだりしていたので、肝心なことを伝わるように書けなかったみたいと思い、補遺を書いておきたいと思います(念のため、黄色い犬さんが読解できなかったということではなく、コメントによって何を書き落としたのかが明確になってありがたかったと
さて、連載3回目です。 前回の最後に、ベーシック・インカムによって労働意欲がなくなり、モラル・ハザードを招くという右派やエコノミストの危惧を挙げました。それと関連して、ベーシック・インカムに反対する人たちの理由として最も多いのが、「働く気もなくぶらぶらしているやつに税金から金を出すなんて」というものでしょう。つまり、フリーライダー批判です。 けれども、ベーシック・インカムの思想は、労働による所得以外にも所得があることが社会にとってプラスになるということであって、労働による所得を否定していません。否定していないどころか、むしろ「労働による所得」を全面的に純化しているともいえます。つまり、扶養家族がいるかどうかなどという基準はなくなるし、労働に純粋に応じた給与が支払われるようになり、有能に働けば働いた分だけ所得が増えるのですから、月10万円のベーシック・インカムとは別に労働による所得を目指す人
世界金融危機にはじまる不況によって、何かシステムを変えなくてはという流れができつつあるようにも思いますが、はたしてどういうシステムにするのか、またどういう人たちがそれを考えるのか。それを思うと、結局はなかなか変わらないのかなという気もします。少なくともエコノミストたちにシステム自体の転換を考えることを期待はできないでしょう。主流の経済学は、システム内の問題を考えることに特化したものであり、システム自体の大転換を考えることは苦手というか、むしろそれを考えないことを自らの立場としてきた学問だからです。「金融資本主義」やネオリベラリズムを支えてきた「経済自由主義」からの脱却を唱えても、経済成長しつづけるというシステム自体への信仰を捨てない限り、エコノミストたちの思考は、もう一度なにか別のバブルを起こして景気回復をしなくてはというところに落ち着かざるをえないのでは。もちろん、そのバブルを安定的なも
ようやく前門の虎も後門の狼もいなくなって一息ついたところです*1。その間にchinalocaさんからも催促をいただき(chinalocaさん、お久しぶり)、ベーシック・インカムについて書くことへのハードルがかなり高くなってきましたね*2。ちゃんと議論しようとすると長くなりそうなので、最初から連載にしようと思います。今回はその第1回目です。 さて、基本的なおさらいから。ベーシック・インカム(基本所得)は、「すべての個人へ無条件で給付される所得」を意味し、赤ちゃんから死ぬまで、生きているだけで一定の生存保障の所得を政府が分配するというものです。ベーシック・インカムについての文献は以下のものがあります。 トニー・フィッツパトリック『自由と保障――ベーシック・インカム論争』勁草書房 Isbn:4-326-60185-X →ベーシック・インカムを考える上での基本文献。私の記事もこの本に多くを負ってい
前々回のエントリーで触れた「ベーシック・インカム」について書こうと思っていたのですが、とっくに締切のすぎた原稿をまだ書かないうちに、前方から別の現行の締切が2本迫ってきている、まさに「前門の虎、後門の狼」という状況です(どこか「まさに」なんじゃ、比喩がおかしいだろ*1)。まあ、一言でいうとさぼりすぎです。 それはともかく、このままだと9月も更新なしということになり、「月刊」にもならなくなってしまうので、あわてて、10月には「ベーシック・インカム」について書くという予告だけでもしておこうかと。 ベーシック・インカムとは、前にも書いたように、「就労の有無、労働意欲の有無、年齢・性別・資産状況などの一切の条件を問わず、無条件ですべての個人に個人単位で支払われる生活保障の所得」のことです。つまり、働こうと働くまいと、生まれてから死ぬまで、生きている限りにおいてお金が得られるわけです。ベーシック・イ
「とびとびの日記」のはずのこのブログも「ほぼ月刊」になりつつありますが、今月からはせめて「ほぼ週刊」を目指したいと思います。 さて、今年の3月30日に「気になる言葉」シリーズの第一弾として「フリーライダー」を取り上げましたが、その後、フリーライダーという言葉について、2、3の事柄が目に付いたので、今回は続きを(ネタがないんかいと言われそうですが)。 まず、日本でいつごろからフリーライダーという言葉が一般的に普及したんだろうというのが気になっていたのですが*1、斎藤貴男さんの『教育改革と新自由主義』(2004年、子どもの未来社)を再読していたら、「竹中平蔵氏はよく『フリーライダー』ということばを使います」(95頁)という一節を見つけました。私自身は竹中氏の書いたものや発言をほとんど追いかけたことがないので、「フリーライダー」ということばをどれくらい使っていたかは知りませんが、この辺りが普及の
レヴィナスの話で好きなのが、裁きと顔の関係の話です。ポワリエとの対話の本、『暴力と聖性』(国文社、1991年)のなかで、レヴィナスは次のように言っています。 ある聖句は「裁きを下す者は個人の顔を見てはならない」とあります。つまり、裁き人は自分の前にいる者を見てはならず、その者の個別的な事情など斟酌してはならない、というのです。……けれども別の聖句があります。……「主はそのお顔をあなたに向ける」という聖句です。ラビたちは彼らの流儀で[この矛盾]に答えています。「判決を下す前には決して顔をごらんにならない。けれどもひとたび判決が下されたのちには、あのお方は顔をごらんになるのである。」(『暴力と聖性』160頁) レヴィナスのこの言葉を知ったのは、2001年に出版された内田樹さんの『ためらいの倫理学』によってでした。内田さんは、裁き人が被告の顔を見てはならないのは、「顔」が誰によっても代替し得ない
ローランさんがコメントを下さったので、調子に乗って「気になる言葉シリーズ」の第2弾を。取り上げる言葉は「他人に迷惑をかけないなら、何をしてもいいだろ」って言葉です。気になるのは「何をしてもいい」という部分ではなく、「他人に迷惑をかけないなら」というところです。つまり、「他人に迷惑をかける」かどうかということが、このように重大な基準となっているのは、どこかおかしくないかと言いたいわけです。「他人に迷惑をかける」ことがそんなにも避けるべき悪いこととされているのはどうしてなのでしょうか。 なんらかのかたちで他人に迷惑をかけないで生きていくことは不可能でしょう。もちろん、だからといって、なるべく人に迷惑をかけないで暮らすように努力することは悪いことではないだろうと思われるかもしれません。しかし、人に迷惑をかけることから人との関係が作られていくわけで、迷惑をかけないということは人とのつながりを否定し
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