〇武田尚子『ミルクと日本人:近代社会の「元気の源」』(中公新書) 中央公論新社 2017.6
私は牛乳好きである。ふだんは好きという自覚のないまま、毎日ふつうに飲んでいるが、和食中心の旅館に連泊したりすると、牛乳を買いにコンビニに走ってしまう。そんな私なので、本書はタイトルを見てすぐ読もうと思った。
牛乳は近世以前の日本でも全く飲まれていなかったわけではないが、普及したのは明治以降である。文明開化にかかわりの深い名前がいろいろ登場する。福沢諭吉は、旧幕府の牧士集団が設立した牛馬会社(築地)に協力し、牛乳や乾酪(チーズ)の宣伝文を書いている。由利公正は自宅(木挽町)を拠点に牛乳会社を設立し、経営人材を育てた。大久保利通は内藤新宿の試験場や下総牧羊場などを整備した。いま牧畜業のイメージの強い北海道はなかなか出てこない。それもそのはず、当時の技術では輸送や貯蔵が容易でないから、消費地(都会)のすぐ近くに生産地が求められたのである。
そこで登場するのが渋沢栄一が出資した耕牧舎で、箱根と東京で牛乳販売をおこなった。東京の店舗は築地入船町にあり、もとは五代友厚の貿易商社だった(えええ、五代様!)。のちに五代は土地の一部を分割して転貸し、一部を東京邸として使い続けた。五代から転貸を受けたのが耕牧舎で、実務を託された新原敏三は、芥川龍之介の実父である(えええ!)。その後、新原家は芝に移転、龍之介は芥川家(母の実家)の養子となるが、両家そろって内藤新宿の牧場で行楽を楽しんだりした。龍之介やその家族、友人の文章には、「アーツ・アンド・クラフツ」を体現した成功者であった新原と、ハイカラで朗らかな暮らしのスケッチが残されている。芥川って、こんなに健やかな幼年時代をすごしたのかと初めて認識。
一方、意外な人物と牛乳のかかわりでは、角界で明治の名親方として知られる初代高砂浦五郎が、本所柳島町で「高砂社」牛乳店を営んだというのも面白かった。弟子の相撲取りたちに読み書きそろばんを教え、将来、生業を得て自立する道を作ろうとしたのである。それから、歌人の伊藤左千夫。そうだ、「牛飼が歌よむときに世の中のあたらしき歌大いに起る」は文学史で習った記憶がある。牛乳配達人から身を立て、資金を貯めて自営業主に移行した。左千夫の「茅の舎」が茅場町にあったというのにちょっとびっくり。今ではビルの立ち並ぶオフィス街だ。
明治末年には、牛乳はますます社会に普及し、国木田独歩はミルクコーヒーを飲み、一般家庭でもアイスクリームが作られた。学生街には「ミルクホール」があって、トースト、カステラ、ドーナツなど簡易な食事がとれて、無料の新聞雑誌が読めたので、知識人層の独身男性が情報収集、栄養摂取、時間選択に利用した。いまのカフェとあまり変わらない感じがする。大正期には森永がキャラメルブームをつくりだした。
ここまで牛乳(ミルク)は、だいたいにおいて明るく豊かで健康な生活とともにあったが、終盤三分の一ほどはガラリと雰囲気が変わる。大正12年(1923)関東大震災が発生。9日後に東京市社会局による無償の牛乳配給が始まった。乳幼児への緊急措置として始動し、妊婦、傷病者にも配給された。配給所は4ヶ月後に54箇所設置され、大正12年末には徐々に整理して19箇所になったというから、かなり長期の事業だったことが分かる。牛乳配給所には児童健康相談所が併設され、幼児への栄養食の配給も行われた。東京市すごい。
そして、この栄養食配給の効果が評価されて(貧困児童対策としての)学校給食が東京府において始まる。なるほど。しかし、当初(昭和7年)の給食の献立に高価な牛乳はついていなかった。ところが、日中戦争が勃発すると「第二国民の体位向上のため」子供に牛乳を飲ませる取り組みが活発化する。著者が苦々しく書いているように、「戦力」として有能な身体の先にあるものは「死亡率の低減」ではない、という批判が胸に沁みる。
そして終戦。戦後の食糧難の中で「ララ物資」と「ユニセフ」の脱脂粉乳が日本の子供たちの栄養を支えた。脱脂粉乳は湿ると固まりやすく、ノミや小槌で割ったとか、溶けにくくて鍋の底に沈殿して焦げついたというのは初めて知った。私は小学校の低学年時代、温めたミルクをアルミ(?)の器で飲んだ記憶が微かにある(昭和40年代)のだが、脱脂粉乳だったのかどうかは定かではない。でもそんなに不味いと思った記憶はないのだ。本書にも脱脂粉乳を「美味しかった」という人の手記が掲載されていて、我が意を得た気がした。
その後は駆け足だが、1980年代くらいだろうか、牛乳は毎日配達されるものから、スーパーで買うものになってしまった。でも私は、朝の寝床で聞く牛乳配達の音、自転車かバイクが止まって、ガラス瓶の小さくぶつかる音に、今でも俳諧味みたいな懐かしさを感じる。著者の武田尚子さんは『
チョコレートの世界史』も面白かった。チョコレート、ミルクと来て次回作は何だろう? 期待している。