見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

水道橋で台湾料理

2017-07-14 23:25:46 | 食べたもの(銘菓・名産)
4月から働いている職場には、たぶん「定時退社」という概念がない。3か月余り働いているが、午後9時より前に職場を出ることができたのは数えるほど。だから、友だちと「退社後」の約束をするのも難しいのだが、今日は7時前に帰らせてもらった。強い意志をもてば、できるものだ。四半期に一度くらいなら、許してもらえるかな。

で、ずっと行きたいと思っていた台南担仔麺 (タイナンターミー)のお店で食事。



美味しかったけど、新宿にある台南担仔麺とは違う系列のお店らしい。初めて知った。まあ台南担仔麺って、喜多方ラーメンみたいな普通名詞だから、いくつお店があっても不思議じゃない。

むかし新宿ルミネに入っていた台南担仔麺はどっちの系列なんだろう? 私はひいきにしていたのである。
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100年の歩み/中国ナショナリズム(小野寺史郎)

2017-07-13 00:07:09 | 読んだもの(書籍)
〇小野寺史郎『中国ナショナリズム:民族と愛国の近現代史』(中公新書) 中央公論新社 2017.6

 国際社会における存在感を増すとともに、周辺諸国と数多くの摩擦を引き起こしている中国。その背景には「近年の中国における急激なナショナリズムの高まり」がある。本書は、中国ナショナリズムを「近代以来の歴史的過程のなかで形成されてきたもの」と考え、その形成過程を考察したものである。

 序章で伝統中国の世界観をざっとおさらいするが、本格的な考察の対象となるのは清末・光緒帝の時代からだ。日清戦争に敗北し、諸外国の影響(圧力)は不可避なものとなり、歴史上はじめて「王朝」ではなく「国」を意識する人々が現れる。梁啓超を代表格とする清末の知識人たちによって、はじめて「中国」という観念が成立し、「瓜分(領土喪失)」の危機感を伴って「領土」意識が生まれる。このことが現在に至る中国の領土問題に対する敏感さの一因になっているという。

 また、中国の領土内に居住する多数のエスニック集団をどう規定するかも大問題だった。「中国」「中華」は漢人を指すという理解の一方、漢・満・蒙・回・蔵の融合したものが「中華」民族であるという主張もあった。20世紀初頭には、戊戌変法の失敗により処刑された人々を追悼する「烈士記念」、日本との間に起きた第二辰丸事件に由来する「国恥記念」というナショナリズム文化が生まれた。中国における「記念」は、他国から強いられた屈従を思い出し、雪辱を期すためのものとして定着した(実は当時の日本の政治文化に影響を受けている)。

 こうしてみると、現代中国の「ナショナリズム的なふるまい」の源流は、だいたい20世紀初頭に形成されたと言っていいような気がする。ただし、これが順調に継承されてきたわけではなく、いろいろな揺れがある。「民族」をどう考えるかなどは、その最たるものだ。また、辛亥革命が成立すると、新国家の式典は、追悼や雪辱の記念ではなく、文明的な娯楽を市民が享受する日となり、モデルは日本ではなく、当時、数少ない共和制の大国だったフランスやアメリカが選ばれた(あ、この歴史を意識している日本人は少ないんじゃないかな)。

 しかし第一次大戦の終結後、日本の二十一カ条撤廃を要求した五四運動は、中国ナショナリズムに大きな影響をもたらす。「親日派」の否定的含意を決定的にしたこと、という指摘よりも、私は「政治がナショナリズムに基づく要求を実現できない場合、暴力を含む社会の直接行動でそれを行う、そしてその行動は既存の法律に反しても正当化されるという観念が広まったこと」というのが、より重要だと思った。この観念を日本は共有していない。

 そして日中戦争の時代があり、共産党の下で、日本に融和的な(指導者層と日本国民を区別した)戦後処理が行われる。これについて、「主要敵」以外の勢力には一定の譲歩を行うというのが毛沢東の一貫した外交政策だったから、という冷めた分析をしているのは面白いと思った。当時の中国にとっての「主要敵」はアメリカである。朝鮮戦争が中国ナショナリズムに与えた影響は非常に大きかった。朝鮮戦争という名前にまどわされて忘れがちだが、中国とアメリカが、わずか70年ほど前に、直接、戦ったことがあるというのは重要なことだ。

 さらに本書は、天安門事件、日中歴史認識問題、愛国(≒反日)教育(といわれるもの)などに触れる。しかし私は、やっぱり中国ナショナリズムの源流は、10年やそこらの愛国教育キャンペーンよりも、100年単位の歩みにあるのではないかと思う。なお本書は、2008年の北京オリンピック開会式の演出が中国の「伝統文化」を強く押し出したものだったことに言及しているが、私としては、この数年、中国の非常に古い時代を舞台にしたドラマや映画の製作が目立つことを併せて指摘しておきたい。なんとなく気分はナショナリズムの昂揚と通底している気がする。いや、ドラマは中身が面白ければいいのだけど。
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国宝の新しい楽しみ方/びょうぶとあそぶ(東京国立博物館)

2017-07-12 00:05:53 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・本館 特別4室、特別5室 親と子のギャラリー『びょうぶとあそぶ 高精細複製によるあたらしい日本美術体験』(2017年7月4日~9月3日)

 東博が何か面白いことを始めたらしいとは聞いてみたが、実際に体験してみるまで、こんなに面白いとは思わなかった。特別5室は大階段の裏にある。入口には、松脂とシトラス(だったか?)による香り演出を行っています、という注意書きが張り出されていた。中に入ると、薄暗くて細い通路が伸びている。墨画の松の木をプリントした透明の布が何枚も垂れていて、松林を掻き分けるようにして進んでいくと、広々した空間に出る。

 正面には畳敷きのステージ。その上に、長谷川等伯の国宝『松林図屏風』(の高精細複製品)が立っている。背景は大きなスクリーンで、墨画または淡彩画ふうのさまざまな風景が映し出される。私が最初に会場に入ったときは、畳の上に座っている人は誰もいなかったのだが、ムービーが終わって明るくなると、会場案内の方が「どうぞ、畳にあがってご覧いただけますよ」と声をかけてくれたので、屏風のすぐ前まで行って、眺めることができた。再び映像が始まったので、私は後ろに下がったが、畳の上でくつろいだままの人も多かった。



 はじめは山水画ふうの風景(湖岸か海岸)で、次第に色がつき、春は桜が散り、紅葉が色づき、雪が舞う(少なくとも一度目は後ろに下がって見ているほうが、全体が見えてよい)。



 やがて畳敷きの舞台は、まるで空飛ぶ絨毯のように松林の中に入り込んでいく。カラス(?)あるいは海鳥が松林の中を、そして屏風の中を飛んでいく。実に至福のひとときの体験だった。9月3日まで、何度でも体験しにいきたい。しかも無料である。

 特別4室では、尾形光琳筆『群鶴図屏風』(フリーア美術館所蔵)(の複製)とアニメーションのコラボを体験することができる。これも楽しかった。何よりも光琳本人がこれを見たら、大喜びするだろうなあと妄想した。ちなみに「びょうぶとあそぶ」(公式サイト)は、東京国立博物館とキャノン「綴プロジェクト」のコラボレーションだという。本物と見まごう複製をつくる技術も立派だが、それを使って、このような楽しみ方をひねり出す創造性は、より一層すばらしいと思う。みなさま、お見逃しなく。
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仏教美術の変遷/タイ(東京国立博物館)

2017-07-11 00:13:24 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 日タイ修好130周年記念特別展『タイ~仏の国の輝き~』(2017年7月4日~8月27日)

 いとうせいこう・みうらじゅんの見仏コンビが「タイ仏像大使」に就任し、グッズを監修したり、音声ガイドのボーナストラックに登場したりしているので、ほぼ仏像展かと思っていたら、そういうわけでもなかった。古代国家から現代までのタイの歴史と文化のさまざまな側面を紹介する。しかし、やっぱり仏教関係の文物が圧倒的に多い。

 本展では、だいたい13世紀以前をタイの「古代」として扱う。会場の冒頭には、古代の仏像としては新しい部類だが、きわめつけの名品である『ナーガ上の仏陀坐像』(12世紀末~13世紀)を安置。蛇神ナーガがとぐろを巻き、三枚重ねの座布団のようになった上に座る、若々しい肉体の釈迦。ナーガは七つの首を起こし、釈迦の頭上に光背のような蓋をつくる。後ろにまわってみると、ナーガがちゃんととぐろを巻いているのが分かる。一番下の台座にはタイ文字の碑文があったが、もちろん全く読めなかった。

 さらに古代に遡行すると、仏教は5世紀頃に東南アジアに伝来し、6~11世紀頃にチャオプラヤー川流域に存在したドヴァーラヴァティー王国では、上座仏教を中心に大乗仏教やヒンドゥー教も信仰された。石仏(砂岩)、青銅仏、漆喰仏、土製(テラコッタ)など、多様な仏教美術が残されている。アルカイックで愛らしい造形もあれば、7~8世紀の『クベーラ坐像』(ヤクシャの王)『菩薩立像』(2点)は、複雑で蠱惑的な表情を浮かべている。ドヴァーラヴァティーは『旧唐書』などに記載された「堕和羅鉢底」と推定されており、1943年、国銘のある銀貨が発見されたことで、実在が証明されたと考えられている。このへんの解説がとても面白かった。西アジア世界と交易があったらしく、アラビアの硬貨が発掘されていたり、ターバン・ブーツ姿の異人像(でも髭がない?)が出土していたりする。

 9世紀初頭に興ったクメール人のアンコール朝は急速に勢力を拡大する。この時期には、衣のひだの表現がなく、ほぼ裸のようなカンボジア風の仏像や、インド風(密教風)の仏像が登場する。

 13世紀、スコータイをはじめ、タイ族の国が次々と建国され始める。このスコータイ様式の仏像を見て、ああ、私の知っているタイの仏像はこれだ、と納得がいく。顔は面長で卵形、弓形の眉、小さな唇には微笑み、頭頂部にろうそくの炎のような突起を持つ。上半身は肩幅が広く腰の細い逆三角形。そして全身が金色に輝く仏像が非常に多い。

 しかし、初めて知ったのは「仏陀遊行像(ウォーキング・ブッダ)」という類型があること。スコータイ時代から盛んに作られるようになったそうだ。もちろん見仏コンビも注目している。日本にも、人々の救済に駆けつけようとする地蔵菩薩や観音菩薩の「動き」を表現した像はあるけれど、タイの遊行像は全く違っていて、ランウェイのモデル・ウォークみたいに優雅で楽しそうなのだ。仏の慈悲というより、自由で満ち足りた精神がそこにいる感じ。とてもいいので、必見である。

 仏像以外では、ワット・スタット仏堂伝来の大扉(木彫の素晴らしさ!)、彩色挿絵の美しい経典、蒟醤(きんま)、更紗などが魅力的だった。山田長政関係の資料がまとまってたくさん出ていたのも面白かった。長政だけではなく、16世紀から17世紀、戦国時代の終焉により、新たな活躍の場を求めて海外に進出した日本人武士は多かったらしい。その結果、アユタヤ―朝以降も日本刀は、在来のタイ式刀剣より格の高いものとして扱われ、日本との交流が絶えると、タイで日本刀を模した刀剣が作られるようになった。いやーびっくりした。19世紀にタイでつくられたという、微妙に全体のバランスが異国風な日本刀、面白かった。最後に控えていたのは、横浜の三會寺(三会寺、さんねじ)の涅槃仏(20世紀初め、釈興然が請来)。目は閉じているけれど、すぐに飛び起きそうな、若々しい涅槃仏で、こう言ってはなんだが、美人さんだと思った。

 余談であるが、展示解説は日・英・中・韓併記で、タイの地名の漢字表記が面白かった。バンコクが「曼谷」なのは知っていたけど、13世紀に登場したタイ族の国を「曼(ムアン)」というのだそうだ。アユタヤは「大城」でアンコールは「呉哥」なのかあ。ドヴァーラヴァティーの現代表記は「堕羅鉢底」だったと思う。面白い。
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2017年6-7月@東京近郊展覧会拾遺

2017-07-09 23:09:51 | 行ったもの(美術館・見仏)
鎌倉国宝館 特別展『常盤山文庫名品展2017-墨蹟の美と天神のかたちー』(2017年6月10日~7月17日)

 常盤山文庫は、鎌倉山の開発に尽力した菅原通濟氏(1894-1981)によって創始されたコレクション。ホームページが開設されていることに初めて気づいた。そして、鎌倉国宝館では、2015年、2016年、2017年と、この時期(紫陽花の季節)に常盤山文庫名品展の開催が定着しているようだ。常盤山文庫の墨蹟に、鎌倉の禅寺が所蔵する頂相(禅僧の肖像)を組み合わせているのが面白い。室町時代の『北野天神縁起絵巻』3巻がかわいかった。特に中巻、雷神の出現によって、浮き上がり、転げまわる殿上人たちがかわいい。下巻は、継母と二人の娘が登場する霊験譚。冒頭の詞書によって「乙類」に分類される系統で、加賀前田家に伝わったものだという。

神奈川県立金沢文庫 特別展『アンニョンハセヨ!元暁法師-日本がみつめた新羅・高麗仏教-』(2017年6月23日~8月20日)

 新羅の学僧・元暁(がんぎょう、617-686)の生誕1400年にちなみ、日本に伝わった新羅・高麗仏教の真髄を示す文化財を展示する。展示品は、ほぼ写本・経典類なので、非常に地味。元暁という名前には聞き覚えがあった。少し考えて高山寺の『華厳宗祖師絵伝』「元暁絵」の主人公だと思い出した。ドラマチックで見栄えがする「義湘絵」に比べるとどうしても見る機会が少ない。本展には、複製の「元暁絵」が全場面広げてあって貴重な体験をした。

 解説によれば、南都仏教は新羅・高麗仏教の影響を強く受けているが、現在、日本人にとって仏教といえば鎌倉仏教が主流となり、忘れられている。称名寺は関東における南都仏教の拠点であったことから、例外的に新羅・高麗仏教の資料を多く残しているそうだ。

文化学園服飾博物館 『世界の絞り』(2017年6月9日~9月4日)

 絞り染めは染め残し部分を作ることで文様を表すもので、「糸で括る」「縫い締める」「型ではさむ」などの手法がある。私は「絞り」と聞くと反射的に藍染めを思い出すが、世界にはさまざまな絞り染めがある。モンゴルには厚手のフェルトを巻き上げて絞ったものがあって、びっくりした。展示品は、黄色、緑、にんじん色のビタミンカラーだった。江戸時代の茶席では「蒙古絞り」と呼ばれて珍重されたそうだ。インドネシア、カンボジアなど南アジアは、赤や紫の絞り染めが目立つような気がした。肩掛け、腰布などに使われている。中国は、古代には絞り染めが行われていたが、現在は南西部の少数民族にのみ残る。雲南で藍染めの布を買ったことを懐かしく思い出した。会場内のモニタに、ミシンによる「縫い締め」等の実演動画が流れていて興味深かった。

五島美術館 夏の優品展『料紙のよそおい』(2017年6月24日~7月30日)

 根津美術館の企画展『紙の装飾』と足並みをそろえたような企画であるが、こちらのほうがやや上級編の趣きがあった。まず古経の名品がずらりと並ぶ。荼毘紙の大聖武・中聖武、紫紙金字経(何度見てもきれいだなあ!)、紺紙金字の中尊寺経、二月堂焼経も。古筆だけでなく墨蹟、さらに太田南畝の書簡集や夏目漱石「門」の原稿(漱石山房の原稿用紙)も出ていた。中国(清~民国時代)の色摺りの詩箋も面白かった。

 展示室2は料紙のよそおいから「描く」を取り上げる。『白描下絵梵字陀羅尼経断簡』の料紙には、稚拙なタッチで笛を吹く男の姿が描かれており、伊勢物語65段を絵画化したものと考えられている。伝存する最も早い「伊勢物語絵」の例である。ちなみに梵字の経文はスタンプを押したみたいに見える。また『仏説観普賢菩薩行法経』はいわゆる目無し経だが、見返しに黒い烏帽子の男が大股で走っている姿が描かれているのを初めて見た。上半身は赤い衣、膝までたくしあげた袴は白である。「継ぐ」の例にホンモノの石山切(本願寺本・伊勢集)も出ていて眼福だった。
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切絵図で江戸を歩く/江戸大古地図(別冊宝島)

2017-07-09 07:52:01 | 読んだもの(書籍)
〇菅野俊輔監修・はる制作室編集『江戸大古地図』 (別冊宝島2506) 宝島社 2016.11

 私は東京育ちだが、生まれ育ったのは荒川の東側である。成人してからは、山手線の西側での生活が長かった。この春、門前仲町に引っ越して、初めて「江戸切絵図」の範囲内で暮らすことになった。嬉しくて仕方ないので、これから古地図を見ながら、いろいろ歩いてみようと思っている。

 まず参考書として買ってみたのがムック版の本書。底本は国会図書館所蔵の「尾張屋板江戸切絵図」(嘉永2-文久2年/1849-1862年刊)(一部、同時代のほかの切絵図も参考)で、32枚からなる極彩色の地図で、江戸土産として人気だったと本書にある。なお本書には30枚の地図しか掲載されていないので、あとの2枚は?と思ったが、「八町堀細見絵図」と「霊岸嶋八町堀日本橋南絵図」という部分拡大図は掲載されていないようだ。※岩崎美術の「復刻 江戸切絵図 全32図」のホームページと対比させると分かる。

 本書は、切絵図と、切絵図の収録範囲の現代地図を、左右のページに並べて掲載する(一部、半透明のトレース紙で重ね合わせになっているものもある)。はじめに長い時間かけて眺めたのは、四月から住むことになった「本所深川絵図 富岡八幡宮・清澄白河駅周辺」である。まだ現代地図にもなじみがないので、網目のような掘割を興味深く眺め、それが幕末には、いま以上に多かったことを知る。このあたりの首都高速は、もとの掘割に沿っているのだな。

 いまの生活では、海沿いに住んでいる感覚はないのだが、永代橋(東京メトロ東西線が地下を通っている)が、墨田川にかかる最も下流の橋でだったことを再認識した。隣りの木場駅・東陽町駅あたりを見ると、東西線がほぼ江戸の海岸ラインだったことが分かる。京葉線なんて完全に海の中だったんだなあ。

 切絵図では、白が武家屋敷等、灰色が町屋、赤が神社仏閣を表すというのもだんだん理解した。私が住んでいるあたりは町屋だが、町屋の中にぽつぽつと武家屋敷も混じっている。近所に「真田信濃守」という文字があるので、調べてみたら信州松代藩の下屋敷で、幕末に佐久間象山はここで砲術塾を開いたそうだ。今度、散歩がてら訪ねてみよう。深川が新たな町場になったのは、江戸の人口が飽和状態となった17世紀後半以降で、多くの寺社が移され、寺町も形成された。だからこの一帯は、町屋と武家屋敷と寺町が混じっていて、とても面白い。

 一方、江戸城(皇居)に近い、今の東京駅周辺や霞が関・番町・駿河台などは武家屋敷一色で、町屋がないのはもちろん、寺社も全くなかったことは初めて気づいた。まあ屋敷の敷地内に神社を祀ることはあったのだろう(ネットで調べると、そのような記事がいくつか出てくる)。あと、明治に建てられた靖国神社は、立地から言っても江戸の伝統とは断ち切れているのだな。

 築地・八丁堀・日本橋南の地図を見ていて、海に突き出したような「御船手屋鋪 向井将監」の文字を見つけ、黒田日出男先生の『江戸名所図屏風を読む』に出てきた名前だ!と思い当たった。黒田先生の本には、浅草にあった「三十三間堂」への言及があるが、元禄年間に焼失すると、深川の富岡八幡宮のそばに再建された。本誌の切絵図にはその場所が記載されている。千手観音を祀っていたというが、明治5年に廃されたというから、やっぱり廃仏毀釈の影響だろうか。今度、散歩のついでに往時をしのんでこよう。
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驚きの日本画/川端龍子(山種美術館)

2017-07-06 23:17:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
山種美術館 特別展 没後50年記念『川端龍子-超ド級の日本画-』(2017年6月24日~8月20日)

 日本画家・川端龍子(かわばたりゅうし、1885-1966)の初期から晩年にいたる代表作を一堂に集めた回顧展である。会場に掲げられた面長のおじいちゃんの写真を見て、あ、川端龍子ってこんな顔をしていたのか、と初めて知る。私は、わりと最近までこの人を女性だと勘違いしていた(片岡球子と混乱するのである。スミマセン)。作品はよく見ていて、類例のない、あっと驚くような絵を描く日本画家だということは、早くから認識していた。

 本展には、大田区立龍子記念館から、若い頃の作品もずいぶん出品されている。はじめは洋画家を志していたり、雑誌や新聞でモダンなグラフィックデザインの仕事をしていたことは初めて知った。「日本画らしくない日本画」の下地は、このへんにあるのかなと思った。

 龍子らしい大胆な大画面作品の最初に登場するのは『鳴門』。群青の海に白く泡立つ渦の対比が明快である。黒鵜が飛んでいるのが、古い時代の絵巻(二月堂縁起)みたいだと思った。隣りの作品は、起伏の多い大地の上を飛行する巨大な戦闘機。『香炉峰』というタイトルなのは、中国の廬山上空を飛んでいるのだという。黒い頭部と赤い尾翼、日の丸以外、銀色の機体の大半が透明に描かれているのが不思議だったが、地上の野山の緑と茶色が、機体の迷彩色を表現しているという説明を読んで、なるほどと思った。小さな仏塔のようなものが一つだけ見え、画面の端に切れ切れに見える黄色い帯は長江らしい。これは、作者が偵察機に便乗させてもらった経験に基づくのだという。

 さらに目を転じると『草の実』。古代の装飾経のように、濃紺の地に金泥で秋草を描く。正確には、焼金(やききん)、青金、プラチナなど様々な種類の泥を使い分けて、繊細で奥行きのある表現を作り出している。清澄にして耽美。

 後半にもう一つ大画面の『龍巻』がある。天空に巻き上げられた海の生物たちが、逆巻く海に再び落下していく様子を、まるでスローモーションのように描いている。縦が3メートルを超え、壁画のような大画面だが、龍子はもう三尺(90センチ)伸ばしたかったのだそうだ。これは「太平洋」という連作の一だという。『香炉峰』も連作「大陸策」の一だと聞くと、龍子の作品をもっと見てみたくなった。

 ほかにも印象的な作品が多数。大きな金箔を大胆に散らし、地面にたたきつけられた植物を描いた『爆弾散華』には、残酷な美しさを感じた。『夢』は、中尊寺金色堂のミイラに触発されたもの。金色の棺に横たわるミイラの頭部が見え、蝶の群れが待っている。『花下独酌』の歪んだ顔の河童、『黒潮』のトビウオも好きだ。私は初めて見る作品がとても多かった。図録に山下裕二先生が書いているが、「日本美術院系の画家に比べると、展覧会の頻度は極めて少ない」というのは全くそのとおりで、今回、たくさんの作品を見ることができて本当によかった。帰ってから図録を見たら、後期(7/25-)出品の『金閣炎上』(国立近代美術館所蔵)も魅力的である。でも前期の『真珠』、あやしすぎる海辺の裸婦像も見逃せない。

 余談だが、『十一面観音』に描かれた、肩幅が広く胸の厚い、堂々とした観音菩薩像(奈良時代)は、今、どこにあるのだろう? 東博だろうか。 自邸の持仏堂の写真に写っていた、脇侍の毘沙門天像は東博でときどき見るのだが。
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漱石ランドで遊ぶ/漱石漫談(いとうせいこう、奥泉光)

2017-07-04 22:27:24 | 読んだもの(書籍)
〇いとうせいこう、奥泉光『漱石漫談』 河出書房新社 2017.4

 これは面白い本だった。私は、遠い昔、高校の国語の教師をやっていたことがあるので、こういう本を見ると、う~ん、授業に使いたいなあと思ってしまう。クリエイターのいとうせいこうさんと小説家の奥泉光さんは、年に数回(もう40回くらい)「文芸漫談」というライブイベントをやっているのだそうだ。ひとつの文学作品を決めて、二人でああだこうだと語り合うイベントである。これまでにも二人の文芸漫談を活字化した『小説の聖典(バイブル)』『世界文学は面白い。』を刊行しているが、本書は夏目漱石(1867-1916)生誕150周年を記念して、漱石の8作品が取り上げられている。各作品に独特のキャッチフレーズをつけた各章のタイトルを眺めてもらうと、本書の雰囲気が分かるだろう。

・鮮血飛び散る過剰スプラッター小説『こころ』
・「青春小説」に見せかけた超「実験小説」『三四郎』
・猫温泉にゆっくりお入りください『吾輩は猫である』
・ちょっと淋しい童貞小説『坊っちゃん』
・反物語かつ非人情『草枕』
・人生の苦さをぐとかみしめる『門』
・ディスコミュニケーションを正面から捉えた『行人』
・プロレタリア文学の先駆け『坑夫』

 はじめに『こころ』の導入部の「つまらなさ」を、奥泉さんは「ネタバレしたミステリーを読むときと同じ」と喝破する。漱石は、けっこう注意深く読者の興味を掻き立てながら、衝撃の結末に導こうとしているのだが、今やこの「国民的ネタバレ小説」の結末を知らずに読む日本人は、ほぼいないので、漱石の苦心は水の泡となっている。しかし、ネタバレしていても楽しみ方はいろいろある。「出だしは完全にBL(ボーイズ・ラブ)」という指摘には笑った。そうだよねえ、出会いは海水浴場だし。Kと先生の関係もあやしい。

 『吾輩は猫である』は奥泉さんの大好きな作品で、譬えていえば『猫』を読んだことがない人は砂漠の民であるという。自分は『猫』という温泉に浸かっている。「猫温泉のよさを教えてください」と言われても「お前も入れよ」としか言いようがない。この比喩はいいなあ、「好き」ってそういうことだ、と心から納得できる。そして、小説の一部がいろいろ紹介されているのだが、どの短章を読んでも、うっとりして気持ちがよくなる。小説の妙味はストーリーではなく、落語や俳諧や漢詩漢文と同じ「言葉」そのものだということが感じられる。

 『門』について、二人とも若い時は地味で辛気臭い話だと思って敬遠していたという。そうかあ、私は大学生の頃には、すでに好きな作品だった。具体的にどこが好きだったかはよく覚えていないのだが、今回、引用されている文章のいくつかが素晴らしすぎて、冷や汗が出た。二人が「くわー!なにこれ?」「このくだりを読んだ瞬間、ぱたりと本を取り落としました」「天才ですよね」と感極まっていくのも道理。

 私が唯一読んだことのない『坑夫』も、「プロレタリア文学の先駆け」では片付けられない、「反物語のエッジ」が効いた実験的な作品だと分かって、すごく読んでみたくなった。あと、漱石作品に一貫して現れる主題が「ディスコミュニケーション」だという指摘も非常にうなずける。でも、読者はそこに、自分と同じ淋しい人間を発見することで、少し癒されるのだと思う。

 読書を楽しむ方法のひとつとして、一時期、ビブリオバトルというのが流行ったが(今でも流行っているのか?)、私は、自分の読みを巧みにプレゼンすることには、あまり興味を持てなかった。それよりは本書のように「漫談」の形式で、相手の話を聞きながら、自分の読みがどんどん変わっていく経験のほうがずっと面白いと思う。「文芸漫談のようなことはそこかしこで起こるべきなんだよ」という奥泉さんの発言に賛成する。特に漱石作品は、もっと教科書の中から解き放たれて、「対話の中で笑い声とともに」読まれますように。それが本来の姿だと思うから。
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みんなの牛乳/ミルクと日本人(武田尚子)

2017-07-03 23:09:53 | 読んだもの(書籍)
〇武田尚子『ミルクと日本人:近代社会の「元気の源」』(中公新書) 中央公論新社 2017.6

 私は牛乳好きである。ふだんは好きという自覚のないまま、毎日ふつうに飲んでいるが、和食中心の旅館に連泊したりすると、牛乳を買いにコンビニに走ってしまう。そんな私なので、本書はタイトルを見てすぐ読もうと思った。

 牛乳は近世以前の日本でも全く飲まれていなかったわけではないが、普及したのは明治以降である。文明開化にかかわりの深い名前がいろいろ登場する。福沢諭吉は、旧幕府の牧士集団が設立した牛馬会社(築地)に協力し、牛乳や乾酪(チーズ)の宣伝文を書いている。由利公正は自宅(木挽町)を拠点に牛乳会社を設立し、経営人材を育てた。大久保利通は内藤新宿の試験場や下総牧羊場などを整備した。いま牧畜業のイメージの強い北海道はなかなか出てこない。それもそのはず、当時の技術では輸送や貯蔵が容易でないから、消費地(都会)のすぐ近くに生産地が求められたのである。

 そこで登場するのが渋沢栄一が出資した耕牧舎で、箱根と東京で牛乳販売をおこなった。東京の店舗は築地入船町にあり、もとは五代友厚の貿易商社だった(えええ、五代様!)。のちに五代は土地の一部を分割して転貸し、一部を東京邸として使い続けた。五代から転貸を受けたのが耕牧舎で、実務を託された新原敏三は、芥川龍之介の実父である(えええ!)。その後、新原家は芝に移転、龍之介は芥川家(母の実家)の養子となるが、両家そろって内藤新宿の牧場で行楽を楽しんだりした。龍之介やその家族、友人の文章には、「アーツ・アンド・クラフツ」を体現した成功者であった新原と、ハイカラで朗らかな暮らしのスケッチが残されている。芥川って、こんなに健やかな幼年時代をすごしたのかと初めて認識。

 一方、意外な人物と牛乳のかかわりでは、角界で明治の名親方として知られる初代高砂浦五郎が、本所柳島町で「高砂社」牛乳店を営んだというのも面白かった。弟子の相撲取りたちに読み書きそろばんを教え、将来、生業を得て自立する道を作ろうとしたのである。それから、歌人の伊藤左千夫。そうだ、「牛飼が歌よむときに世の中のあたらしき歌大いに起る」は文学史で習った記憶がある。牛乳配達人から身を立て、資金を貯めて自営業主に移行した。左千夫の「茅の舎」が茅場町にあったというのにちょっとびっくり。今ではビルの立ち並ぶオフィス街だ。

 明治末年には、牛乳はますます社会に普及し、国木田独歩はミルクコーヒーを飲み、一般家庭でもアイスクリームが作られた。学生街には「ミルクホール」があって、トースト、カステラ、ドーナツなど簡易な食事がとれて、無料の新聞雑誌が読めたので、知識人層の独身男性が情報収集、栄養摂取、時間選択に利用した。いまのカフェとあまり変わらない感じがする。大正期には森永がキャラメルブームをつくりだした。

 ここまで牛乳(ミルク)は、だいたいにおいて明るく豊かで健康な生活とともにあったが、終盤三分の一ほどはガラリと雰囲気が変わる。大正12年(1923)関東大震災が発生。9日後に東京市社会局による無償の牛乳配給が始まった。乳幼児への緊急措置として始動し、妊婦、傷病者にも配給された。配給所は4ヶ月後に54箇所設置され、大正12年末には徐々に整理して19箇所になったというから、かなり長期の事業だったことが分かる。牛乳配給所には児童健康相談所が併設され、幼児への栄養食の配給も行われた。東京市すごい。

 そして、この栄養食配給の効果が評価されて(貧困児童対策としての)学校給食が東京府において始まる。なるほど。しかし、当初(昭和7年)の給食の献立に高価な牛乳はついていなかった。ところが、日中戦争が勃発すると「第二国民の体位向上のため」子供に牛乳を飲ませる取り組みが活発化する。著者が苦々しく書いているように、「戦力」として有能な身体の先にあるものは「死亡率の低減」ではない、という批判が胸に沁みる。

 そして終戦。戦後の食糧難の中で「ララ物資」と「ユニセフ」の脱脂粉乳が日本の子供たちの栄養を支えた。脱脂粉乳は湿ると固まりやすく、ノミや小槌で割ったとか、溶けにくくて鍋の底に沈殿して焦げついたというのは初めて知った。私は小学校の低学年時代、温めたミルクをアルミ(?)の器で飲んだ記憶が微かにある(昭和40年代)のだが、脱脂粉乳だったのかどうかは定かではない。でもそんなに不味いと思った記憶はないのだ。本書にも脱脂粉乳を「美味しかった」という人の手記が掲載されていて、我が意を得た気がした。

 その後は駆け足だが、1980年代くらいだろうか、牛乳は毎日配達されるものから、スーパーで買うものになってしまった。でも私は、朝の寝床で聞く牛乳配達の音、自転車かバイクが止まって、ガラス瓶の小さくぶつかる音に、今でも俳諧味みたいな懐かしさを感じる。著者の武田尚子さんは『チョコレートの世界史』も面白かった。チョコレート、ミルクと来て次回作は何だろう? 期待している。
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