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  • 久し振りの大雪

    8日の朝、新潟市では観測史上最も多い44センチの雪が積もった。8時ごろに除雪車が来て路をあけたので、玄関から3メートルほど一人歩くだけ雪を踏みつけながらゴミ出し、後はお天道様におまかせ。普段は雪の少ない新潟市内の雪情報が全国に報道されたため、県内外の身内や知人から雪見舞いの電話か続いた。27年間を豪雪の上越市(高田)での生活を思えば可愛らしい雪である。上越市(高田)では一冬3回か4回の屋根の雪下ろし、3回目には落とす場所が無いので、落とし場所を確保するため、ダンプカーで市が指定した雪捨て場へ運んでもらう。老夫婦だけで一軒家を構えて厳しい冬を過ごすことは無理だと決断、雪の少ない新潟市に避難してから34年になるが、今もなお春になると上越市(高田)の地が無性に恋しくなる。久し振りの大雪

  • 爺のこの頃

    間もなく92歳、平熱35度8分、寒がり屋の爺にとって一年で一番いやな季節である。毎朝3時前後には同い年の老妻と熱い日本茶を飲んで体を温める習慣も定着したこの頃である。時々仲間から来るメールの最後には、「寒さ厳しきおりご自愛ください」「外出は控え温かい部屋で過ごし下さい」「水分補給をこまめにしてください」等々いたわりの言葉が書かれている。長男が手配してくれた宅配弁当(昼食・夕食)を利用したが一週間ほどで解約してしまった。ネットスーパーで買い物をしながら、老夫婦の共同作業で食べなれた食事が一番である。40日に一度の通院でいただく9粒の薬を服用しながら、生活動作は、ゆっくり、やわやわ、もどかしくて悔しいが寄る年波には勝てない。老妻と静かに残りの人生を過ごしている。爺のこの頃

  • 節分

    今年の節分は例年より1日早い明日2月2日、節分といえば豆まだが、近年は「恵方巻の日」としての意識が強く、テレビでも有名人による豆まきの他、恵方巻を食べている情景が。子供の頃、家での豆まきは無かったが、母方の実家へ豆拾いに行く神棚に供えた枡に入った豆を家族みんなで参拝した後、和服姿の爺さんが枡を抱えて、神妙な顔で福は内鬼は外と。大婆ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん、叔父さん,叔母さん、爺と妹と母と大勢で賑やかな豆拾い、呉服商だったこともあって部屋の隅々まで丁寧に撒くので隠れている豆も宝探しのように。拾った豆から自分の年だけ紙に包んで街角に立っているおばさん達に恐る恐る渡してくる、帰りは後ろを振り向かないようにと聞かされ一目散に走って来たもの、素朴な厄除け行事が懐かしい。節分

  • 野尻湖との縁

    長野県信濃町に位置しご存知の方も多いと思う。湖の形から別名が芙蓉湖とも呼ばれ、夏の観光シーズンは若者たちで賑わう湖だが、もう40年ほどご無沙汰だが記憶に残る話題も多い。最初の縁は、昭和29年の夏、仲間6人(男3女3)と湖畔でのキャンプ、予約したバンガローでの宿泊だが、当時、現地で用意されているのは共同の炊事場と簡易トイレ位、食材等は全て事前に準備した昭和49年夏、初めての仲人役を勤めることになったF夫妻の出会いの場に選んだ婚活の場である。翌年3月「お彼岸のお中日」にはゴールイン、今では3人の息子たちに恵まれ仲良くしている。両親が60代の頃だと思う、野尻湖湖畔で並んで写した写真が御位牌と並んで飾られている。確か妙高市赤倉温泉に案内した時の翌日だったと思う。これが両親と過ごした最後になった。野尻湖との縁

  • 観光ガイド

    現役時代、リタイア後を通して体験した観光バスでの団体旅行、ガイドが車内や行く先々で説明しくれる、ガイド次第で、車内の雰囲気を盛り上げたり、旅行をより楽しませてくれたり。南紀地方を観光した時の年配の女性ガイドさん、事前に勉強されたであろう、新潟の気候風土、観光、名産、民謡等の話題を重ね合わせながら和歌山を紹介する手法は退屈することなかった。長野県の川中島合戦場跡には、案内人の爺ちゃんがいた。、後方から続いて来た山梨県からの団体客を見て、武田家の子孫が近づいて来てるので、上杉家子孫の皆さんは静かにこちらへと案内され大笑い。フルムーン旅行で奈良の旅の時だった、東大寺の紹介しながら、修学旅行を思い出したでしょうと、修学旅行を体験した年代ではないことを、客からたしなめられたガイドもいた。観光ガイド

  • 愛犬ゆうちゃん

    ご先祖様のお位牌の傍には、2018年8月に18歳で旅立った愛犬ゆうちゃんの元気な頃の写真を飾り声をかけている。毎年お盆には爺婆と3泊4日一緒に過ごしていく。家の建具や唐紙や壁の所々に残っている幼い頃のゆうちゃんによる引っ掻き傷やおしっこの跡があるが、老夫婦を癒してくれたし、夫婦げんかも食べてくれた、ゆうちゃんに感謝している。近くにいた同い年のムックちゃんとは性格の不一致と言ったところか、親しんではくれなかった。ゆうちゃん見つけると主人の後ろに隠れ、名前を聞いただけで逃げの体制になった。毎日の散歩のほか、家ではゲージもなく自由に走り回っていたので運動不足はなかったし、日中も食事も寝る時も常に爺婆と一緒の生活が多かったので、ストレスも少なかったと思う。愛犬ゆうちゃん

  • アパート生活

    昭和33年5月の結婚当初は8畳一間の間借生活だったが、半年後の11月には新築の3階建て18世帯の職員アパートに入居することが出来た時は嬉しかった。6畳と4畳半の和室、3畳の板の間、台所、洗濯場、お風呂場、水洗トイレ、物置が合理的に配置された当時としては、羨ましがられた作り、家賃は2615円は平均よりやや高値の家賃。18世帯での最初の共同作業が自転車小屋作り、雨を凌ぐ程度の簡単な小屋であるが、個人が持っている、かなづち、かんな、のこぎり、ペンチなどの大工道具を持ち寄っての作業だった。くい打ち用の槌や、丸太を切るのこぎり等、どこから借用したのか、木材、トタン等の資材の調達をどうしたのか覚えていないが、全員が共同で、持ち合わせの知識と技能を活用しながらの作業だった。アパート生活

  • ほのぼの情景

    スーパーの店内でショッピングカートに乗っている女の子、ショッピングカートと並んで歩いている女の子、ショッピングカートを押しているおめでたのお母さん、次は三女か長男か、頼もしい。親との行動を嫌う中学、高校時代も大学生になると、少年時代に戻ったように、親子で楽しそうに会話をしながら、マンションを背景の写真撮影など入学式当日の微笑ましい光景を見る。若者から高齢者まで利用されているリュックサック、背中に背負うのが一般的だが、女子高校生達の背負い方は、みんなお尻近くにぶら下げている、見慣れたせいか可愛らしく見える。前抱っこ、ベビーカーが多いこの頃、背中におんぶしている若いお母さんさん、一緒にいた2歳くらいの女の子、自動販売機に向かって、どこかしこと押しては、下の出口を覗いている。ほのぼの情景

  • 昭和100年

    「爺の世間ばなし」を訪れていただいている皆さん,明けましておめでとうございます。昭和100年の年を迎えましたが、今年も是非お立ち寄りくださいますようお願いたします。昭和8年生まれの爺は3月には92歳になる年で年齢が素早く数えられる。昭和は12年に始まった日中戦争、16年~20年8月の大東亜戦争を挟んで戦前、戦後の三つの時代だったとも言われている。爺は昭和14年から同20年3月まで小学生時代は、「欲しがりません勝つまでは」我慢を強いられた戦争中、中学、高校生時代の食べ盛りは食糧難時代、昭和26年の高校卒業時は就職難だった。同世代の仲間の殆どが川を渡ってしまって昭和一桁生まれは少なくなった。中古車が故障が多いように、中古の人間も体のあちこちに不具合が生じるが、今年も自立した一年にしたい。。昭和100年

  • 今年も僅か

    今年も僅かとなったが、91歳の老夫婦が二人で出かけた所は、タクシーで病院とスーパーだけだった。爺にとって、悔しかったこと、寂しくなったこと、意に沿わないことはあった。巨人が4年ぶりにセ・リーグ優勝を果たし喜んだものの、ペナントで3位だった横浜ベイスターズがC・Sで勝ち上がって、日本シリーズでソフトバンク破り下剋上」となり日本一に輝いた。高校2年生だった昭和24年12月1日に初めて発売された年賀状、初年度から交換していた唯一同級生の新野君、今年も「お元気でしょうか」と添え書きがあったが、間もなく新聞のお悔やみ欄で彼の名前が。衆議院選挙で新潟県内5つの選挙区すべてで立憲民主党が勝利し、政権交代した2009年以来の自民党全敗となった。選挙前に7人いた自民党の衆院議員は比例の2人だけになった。今年も僅か

  • 手を合わせる

    日本人の多くは仏教の様式でお葬式を出し、お盆やお彼岸には毎年お墓参りをする人は国民の過半数を大きく超えており、墓前で手を合わせるのは仏様への礼拝の方法である。爺も毎年お盆には故郷へ帰省してお墓参りをしていた。故郷の仏壇には過去帳だけでお位牌が無いので、住職に尋ねたら、浄土真宗では過去帳がお位牌になるのだと言われた。両親が亡くなってから、過去帳だけでは寂しく、家内の実弟(日蓮宗の住職)と相談して、両親のお位牌と先祖(3人の弟)のお位牌を作ってもらい、我が家の居間に安置して手を合わせてる。独身時代は墓参りもしなかった爺も寺の娘と結婚してからは、自然に仏様に手を合わせるようになり、仏になる日も近くなった今では、毎朝、お水を変え、線香とローソクを灯している。手を合わせる

  • パソコンのお陰

    爺がインターネットに出会ったのは、平成14年68歳の時だった、国のIT戦略が始まりIT活用の推進中で、新潟西郵便局で高齢者を対象とした講習と受講者の募集に応募した。パソコンは何でも知っているし、分かり易く何回でも教えてくれる。イチジクの剪定方法が最初の質問だったが、一本のイチジクながら実り多く、ご近所の皆さんに喜んでもらっている。運転免許の返納した今、日頃の買い物は殆どネットスーパーやアマゾンを利用しており、インターネットを出会って良かったとつくづく思う。でも気分転換に対面での買い物も楽しんでいる。2007年5月2日にブログを初投稿して17年、投稿回数も間もなまく1200回になる、身近に応援してくれる読者、全国各地の顔の見えない多くの読者から励みと楽しみを頂いている。パソコンのお陰

  • 幼馴染の女の子

    子供の頃に別れたまま消息の分からない幼友達、今も達者だろうかと、当時に思いを馳せながら、会いたいと思ったり、昔のイメージのままにして置く方が良いと思ったり。小学校2年生の時だった、近くに転居してきた4人姉妹の三女で同級のN子さん、愛くるしい女の子で、男の子達から注目されていた。一緒にお喋りしなから下校した日のことを覚えている。昭和15年頃の田舎で、男女二人だけで通学する姿は見ることはない。男の子達は羨ましかったのか、やきもちだったのか、あらぬ噂をされたこともあった。N子さんとは、1年足らずの出合いだったが、あれから84年になる、思春期の頃には、どんな女性になったろうかと想像していた。一度だ様子を耳にしたが、聞かない方が良かった。幼馴染の女の子

  • アルバイト

    爺の高校時代の夏休みは、建築現場の雑役としてアルバイトをしていた。仲間たちと思いっきり遊びたかったのに、目的もないまま、親から言われて仕方なく、嫌で嫌で、たまらないかった。現場監督が居ない時は、休ませたり、個人の買い物を頼んだり、現場から解放してくれた流行歌を歌いながら壁塗りしていた左官職の兄ちゃん、爺に優しくしてくれたのが嬉しかった。長男と次男は大学生時代の夏休みには、卒業後の職とは無縁の仕事だった道路舗装、新築ビルの清掃、道路のライン引きなど建設現場でアルバイトをして小遣い稼ぎをしていた。、27歳になる孫も大学生時代は駅構内の食堂でアルバイト、一緒にアルバイトしていた女子大生と意気投合、めでたくゴールイン。1年10か月になるひこ孫の成長を楽しんでいる。アルバイト

  • ご縁に感謝

    新潟県長岡市塚野山に江戸時代初期から庄屋を務めた古民家の長谷川邸がある。現在の母屋は茅葺寄棟造りの約300年前に建築され、現存する豪農の館としては北陸最古と言われている。家内と初めて訪れたのは2004年の秋、神様のお導きか、長谷川邸ゆかりの上品なご婦人と出会った。庭に咲く娘さんがベルギー在住時に持ち帰ったものだと言う朝顔で家内と花談議になった。春の桜、秋の萩の季節には「いらっしゃいよ」と電話での声掛けに甘えて、食事とお喋り、温泉旅行を、家内とは花談議を、爺とはプロ野球談議を、弓子姉さんとお呼びする間柄になった。2007年12月23日、静かに帰らぬ人に、わずか3年のお付き合いだっが、今も尊敬し続けている御仁である。親子とは言え、娘さんのお振る舞いから弓子姉さんを偲ばれる。ご縁に感謝

  • 身体検査

    県北の小さな田舎の保内村(現村上市)国民学校で6年間(昭和14年から20年)は戦時下とあって学校での楽しかった記憶はなく、卒業写真もない珍しい学校だった。国民学校は児童の心身を鍛錬する場であったので、身体検査と称するものが重要視されていた。検査内容は身長体重視力などの測定隣の村から人力車やって来る老医師の診察である。眼鏡を鼻の先まで下げて一通りの聴診の後、胸部をたたいて「栄養可」、次に背中を撫でて「脊柱正」、今度は瞼をひっくり返して「眼疾なし」、最後に「はいよし」の声で終わる診察である。老先生の名前は丸山先生、ゆっくりと、少々震え声で唱えると先生の雰囲気に近くなる。穏やかな人柄は生徒から好かれ、特徴があるので意味も分からずに口調の物まねをしていた。身体検査

  • この頃は

    先日千葉に居る長男夫婦が5日間滞在中はテレビのリモコンの音量は20に設定して見ていたが、家内共々補聴器を利用しながらの生活はリモコンの音量はで40に設定している。最近視力も大分落ちたようである、普段テレビは3メートルほど離れた位置で見ているが、この頃は画面の文字がボケて見えるので、テレビに近寄って確認するようになった。10月初めから、ふくらはぎに痛みが走り、整形外科に2回受診して注射と電気マッサージ、湿布で経過を見ているが変わらない。腰かけているとき、就寝時は痛みが無いので我慢している。老化とともに、就寝時のトイレ通いも頻繁になり、降圧剤、中性脂肪、コレステロール、血液サラサラ、痛風薬、便秘薬の服用しながら、残り少なくなった人生を大切に過ごしている。この頃は

  • 転ばないように

    90歳の壁を越えてから1年8か月、すべての生活動作を減速しながらも自立した日々を過ごすことが出来るので喜んでいる。これも体質と長年の生活習慣によるものだと思う。家内と常に心掛けていることは「転ばないこと」に尽きる。安全のため、外の階段、玄関、風呂場に手すりを付けたが、外出時のことを考えて、住宅内の段差で気を遣う習慣を養っている。転倒して大腿骨の骨折により車椅子、寝たきりの生活になった友人知人の姿を見ているので、高齢者には必ず「転ばないように」と声掛けする習慣がすっかり身についてしまっている。毎年募集している転倒予防川柳で知った、「つまづいて,身より心が傷ついて」は仰る通り、爺も時々小さな段差で躓いたりすると、「やっぱの年をとったな」と改めて自覚する。転ばないように

  • 仲人

    昭和40年代は農家の嫁不足が叫ばれた時代だった。先輩で仲人暦の豊かな高波さん(故人)を思いい出す。彼の頭の中は、年頃の男女の顔と名前が保存されたカタログのようだつた。農繁期ともなれば食堂も閉店、冬は鉛色の空の日が続く豪雪地帯、赴任した職員の宿探しから子守の世話など、日常生活での相談役として重宝がられた田舎でも珍しい存在だった。昨今は、仲人を知らない若者もいるが、縁あって爺は現役時代に頼まれ仲人ながら4組の縁結び役を体験した。今も盆暮れの挨拶のほか、折に触れ老夫婦に元気を運んで来てくれる。恋愛結婚が殆どの御時世になって、結納、挙式・披露宴での謝礼などの費用、結婚後も盆暮れのご挨拶など、お付き合いが面倒な仲人を立てない結婚式が大勢になった。仲人

  • ユニークな先輩たち

    飯塚さん、職場旅行で入浴後のことランニングが無くなった言うので、見ればパンツの上にランニングを重ねてはいている。翌朝今度は靴下が無くなったと、素足で革靴はいて何食わぬ顔。池田さん、職場の親睦野球でのこと、力任せに振るバットから、いい当たりを見せる好打者だが、毎回3塁ベースに向かって走る、周りからの反対、反対の声がけで1塁に向かって走り直す。田村さん、昭和34年頃、同じ職員アパーの2階だった、酒を飲んで帰宅の際は、決まって3階の我が家のドアをノック、施錠していない時は玄関に入り込み、栄養豊かな奥様が強引に連れ帰る。大塚さん、保健所勤務の時、神経質の方で宿直の就寝前には事務室の柱時計を止め、いびき、寝息も気になり別室で寝る。ある日、調理用のボールで下着の洗濯してひと騒ぎしたことも。ユニークな先輩たち

  • チョンガー生活

    20歳の春、昭和28年3月1日付「新潟県柏崎保健所勤務を命ずる」、一枚の辞令は今も保存されている。県職員になった喜びと親からの開放感を覚える中でチョンガー生活が始まった。初任給5400円、勤務地手当270円、計5670円控除後の手取り4500程から3食付き下宿料3500円を支払った残り1000円少々と月5回の宿直料1800円が小遣いだった。ボーナスは衣類、カメラ、ポータブル蓄音機を買ったり、遊びの範囲が広くなるにつれ、深刻な小遣い不足が常態化して、13円の銭湯代もままならず、給料日払いになるなど、貧乏生活が定着していた。小言を言う者がいないので自由気ままに遊び転げる日々だった。好きだった映画(30円)の帰りに夜食のラーメン(30円)、勝ち目のないパチンコ、何時も金欠状態だった。チョンガー生活

  • 学力差

    昭和14年から6年間の田舎の小学生時代は、真剣に勉強したという覚えが全然ないにもかかわらず、偏差値の低い小学校だったのだろう、卒業式には成績優良の証をいただいたのである。戦時下だったことで、毎年イナゴ取り、落穂ひろい、ドクダミ、ゲンノショウコの薬草の採取、テントウムシ、ずい虫取りなど害虫の捕獲、桑の木の皮むきなど楽しくない行事ばかりを覚えている。昭和20年旧制中学1年生の教科は、国語、漢文、歴史、地理、体操、幾何、代数、、英語、生物、配属将校による教練だつたが、理解するのに苦労しながら一学期が終わった。一学期の通知書の成績が150人中の128番は、他の学校との学力差を痛感、卒寿が間近になった今も忘れないである。この時のショックが初めて勉強する気にさせてくれた転換期となった。学力差

  • のんべえの介護

    爺は酒は嫌いではないが量は飲めない体質のため、ほろ酔い気分で終わるのでよく言う二日酔いの体験はないが、現役時代は酔っ払いの後始末係りと言う損な役割体験は数々ある。のんべえを自宅まで送り届けるのは、書留郵便の配達と一緒であり、奥様からの丁重なるお言葉がハンコ代わり,後で、当人も奥様からの厳しいお言葉をいただくのであろう。昭和63年夏だった、市内のベンチに寝込み交番に保護され警察署の留置場にお休み中の部下のF氏をお迎えに行ったとき、会えば「おぉご苦労」の一言、のんべえは、誰よりも偉い。のん兵衛の介護は、憎らしくもないが可愛くもない、酒は程々になどと言っても無駄なことであり、いつの世にも、安全を支えてくれる介護するボランティア活動がある。のんべえの介護

  • 老化期

    91歳の半ばを過ぎた爺も、昔々は人並みの成長期と成熟期を経て、今は川を渡る日も遠くない老化期の日々である。認知機能に大きな支障はないが、体のあちこちが着々と老化している。目はかすみ、耳は遠くなり、腰,ひざ、ふくらはぎの痛み、消化不良による胃もたれ、それぞれの専門医で受診するも、治癒することのない老化現象では、共存していくしかない。時々近くのコンビニと100円ショップまで杖をついて散歩方々買い物を楽しんでいるが、以前は数分で行けたのに、今は途中一休みしながら15分ほど、若者は爺を追い越して行く。救急車のお世話になった83歳の時の痛風、84歳の時に命拾いした心筋梗塞は、月に一度の定期検診で数種類の薬をいただきながら異常ないので一安心している日々である。老化期

  • あいさつ

    小学生時代(昭和14年~20年)は、全校生徒が講堂に整列する中で、朝礼や始業式や卒業式や記念式典など学校行事の度に校長先生とお偉い方々の挨拶を聞いてきた。お偉い方々は、触れ合う機会のない人達なので、たぶん、挨拶の内容は抽象的な話ばかりだったのだろう、前列に並んでいるので声は良く聞こえるが、内容は何にも覚えていない。当時は起立したままの長時間だったので時には体調が悪くなったり、オシッコを垂れて隔離される生徒もいたものである。今に思えば小学生にとっては無意味な挨拶だったように思う。挨拶とは、「長々と話さず手短にまとめる」、「参加者に合わせたユーモアを加える」、「明るく元気に大きな声であいさつする」のが喜ばれる挨拶だとある識者が言っていたが、仰る通り。あいさつ

  • 元日本海軍

    10年前の7月7日のこと、病院の待合室で90歳だと言う爺ちゃんから、「おめさん元気そうだが幾つだね」と声をかけられ会話が始まったが、もう彼の地でお休みだろう。敬礼をしながら俺は日本海軍の生き残りだと、20歳の時、京都の舞鶴に入隊するも軍艦が一隻もなくて丘で大砲を撃っていたとか、B29を撃ち落したという話になると信じがたいが。どこが悪いのか尋ねたら、90にもなれば体中の全部悪いに決まっているだろうと口だけは達者だった。車の運転もしているという、車の運転ができなくなったら死んだほうが良いとか男前だったので若いころは女性にもてたでしょうと尋ねたら、入隊日には泣きながら送ってくれた俺に惚れた5人の女性に向かって、帰る所は靖国神社だと敬礼して別れたとか。元日本海軍

  • 大関 大の里

    最近の大関は昇進すると勢いが衰えて、優勝争いにどころか番付を温めるだけになる。横綱に駆け上がったのは照ノ富士だけ、霧島,貴景勝、高安、正代、御嶽海は陥落したまま。また、我が郷土新潟県出身の豊山も大関への期待も大きかったが、最高位は西前頭筆頭どまり、体力の限界で令和4年11月場所で引退後は郷土出身の関取不在ではテレビ観戦はご無沙汰。久し振りに新潟県の糸魚川市能生(のう)中と海洋高へ相撲留学して猛稽古を積んだ横綱への期待も大きい大関大の里が誕生した。日本中から応援される力士になるのが夢とか、実現して欲しい。伝達式での口上どおり、唯一無二の力士になって欲しい、昨年の9月場所に十両になってから1年で大関になった出世頭、早い機会に横綱の伝達式での口上を聞く日が楽しみである。大関大の里

  • 91歳の容姿

    40代初めだつた、職場の宴会の席で所属長が爺に酒を注ぎながら「僕も長い顔だが、君も随分と長い顔だな」と言われ、確かに面長だが肯定も否定もせず聞き流したかと思う。タブレットで撮った自分の顔を見たら、写真は正直に映ると言うが、誰が見ても91歳の容姿である、豊かだった黒髪は消え、顔と頭の境界は不明瞭、一面にシワとシミが散らかっている。風雨にさらされ続けた顔、唯一隠すことが出来ない顔、加齢に伴って衰えるのは、気力と体力と容姿だと言うが、気力と体力は生活習慣次第で先送り出来ても、容姿は化粧しても隠せない。人生の年輪とも言われるシラガ,シワ、シミが、還暦、古希、喜寿、傘寿、卒寿を迎えながら増えたが、年寄りの勲章だと思って、残り少なくなった一生を自然体で世に公開している。91歳の容姿

  • ハーモニカ

    小学生のころ、伯父さんから一部の音が出なくなったハーモニカを貰い、我流で覚え、4年生の時には、学芸会で独奏したり、3人で合奏したことがあるが、曲目は覚えていない。リタイアした平成12年、市内のハーモニカ教室へ1年(週1回)通い、生徒は同年代の8人で子供のころから我流での体験者ばかり、課題曲を一人づつ演奏させながら個人指導を受けた。曲目は童謡、文部省唱歌で、中でも、素朴な田舎の風景をうたった朧月夜(菜の花畑に入日薄れ・・・)、故郷(兎追いしかの山・・・)、紅葉(秋の夕日に照る山紅葉・・・)が好きだった。今も時々子供の頃を過ごしたふる里の情景を思い浮かべながらハーモニカを楽しんでいる。広い菜の花畑、鮒やハゼ釣りをした小川、山林でのカブトムシ取り等が懐かしく思い出す。ハーモニカ

  • おにぎり

    おにぎりは、元々は残り飯の保存や携行食として発達したもの、白米に塩をふりかけて手で握り、海苔で巻いた日本の伝統料理でもある。爺も忘れられないい思い出のおにぎりがある。戦争末期の昭和20年の6月に農家への勤労奉仕は、除草機での田の草取りだった、小昼(こびり)と称して10時に出される塩むすびの味が今も忘れないでいる、コシヒカリよりも美味かった。単身赴任で下宿先のお婆ちゃんから、おにぎりを用意してもらった時のこと、ご飯茶碗2膳分のおにぎり2個渡され、「若いもんは、これくらいは食べなさい」と言われたが、当時38歳の爺には無理だった。遠足で母が作ってくれたおにぎりは、具は梅干しがお決まりで全体を海苔で巻いたもの、農家の子供たちの味噌を塗って、こんがりと焼いた大きなおにぎりが、美味しそうで食べたかった。おにぎり

  • 昭和20年一学期

    大東亜戦争末期の昭和20年一学期はゲートルを巻いて戦闘帽姿の旧制中学1年生だった、8月15日の敗戦までの4ヶ月は二人の配属将校による軍事教練を体験した最後の年代である。主に軍人勅諭の朗読と行軍と言う名の行進訓練、団体で歩調をあわせての行進は、時々足と手が一緒になってしまい、甲子園における高校球児の入場行進でも時折見かける。出征兵士のいる農家の手伝い、除草機と称するものを転がしながら苗と苗の間の田の草をとる作業でかなりの重労働だったが、10時に出される塩むすびの味はコシヒカリよりうまかった。。終戦後の配属将校たちは、食糧増産の指導員に早変わり、生徒は鍬を持参で通学することになり、グランドはたちまち芋畑と化し、これから数年間の食糧難時代が続くのである。昭和20年一学期

  • 手のひら集音器

    2021年9月、テレビの音量を上げても聞こえに変わりないので、耳鼻科医院で聴力検査をしたら加齢による難聴が始まっていると診断され、テレビの老化ではなくて耳が老化していた。あれから3年、今では公民館での仲間との集いでは、補聴器のお世話になりながら参加しているが、家で家内との会話では時々片手を耳の後ろに当てながら聞いている。週刊誌で作家の五木寛之さんも爺と同じ動作をしているという記事を読んだ、昔から、片耳を手に当てて相手の言葉を聞こうとする年寄りを見かけたものだが、今は我が身になろうとは。五木さん曰く、紙かプラスチックで手のひら型の集音器を商品化したらどうかと提案している、外出時でもおかしくないようなデザインにしたらいいのにとも、爺も同感である。手のひら集音器

  • 91歳の老夫婦

    90歳以上人口が200万人を超え、総人口に占める割合は1.6%になり、アメリカ(0.8%)の約2倍だとか、こんなに長く生きるとは思わなかった爺も91歳半ばになってしまった。相変わらず、2時半前後に起床、5時半に朝食、11時に昼食、16時に夕食、5時半~6時に入浴後は寝床で横になり、テレビを見ながら夢の世界へ行く生活がすっかり定着してしまった。同い年の家内と結婚66年、今も老夫婦だけで自立した日々を過ごしている、知人から何を飲んでるのと聞かれるが、3度の食事を食べたくないと思った覚えが無いだけである。テレビでは管理栄養士や料理研究家による豊かな食材を用いた美しい料理が紹介されているが、我が家は子供の頃から食べている醤油と味噌味の和食が主流の地味なバランス食である。91歳の老夫婦

  • げんこつ

    小学校の5年生か6年生の頃だったと思う、家の近くの空き地に設置されている鉄棒をしていた近所の中学生が失敗ばかりしていたので、「下手くそ」と笑ったら、頭を殴られたことがあった。爺も、やっぱり戦時下の少年だったのだろう、体力差で抵抗する力はないが、痛みに耐えながら幾つか殴られたが泣くこともなかったし、親にも言わなかったが、子供心に悔しさは大きかったと思う。大きくなったら何時か小林と言うあの中学生に必ず仕返ししてやろうと思ったのは事実である。このことで中学に入学するや、小学校五年生からやっていた柔道部に入り、真剣に鍛えたのである。八月の終戦とともに暴力禁止になったので仕返しをすることは出来ずに終わっている。憎しみはないが、げんこつで殴られたのは91年の我が人生で唯1回だけ、あの顔と痛みは忘れない。げんこつ

  • お下がり(おさがり)

    昔はお下がり(おさがり)は物を大切に使うために、子供の衣類など、使えなくなった物を、兄弟姉妹、親族の間で、当たり前、「三女・おさがり節」も生まれたほどである。爺の高校卒業アルバムを見ながら、まともな学生服を着ている生徒は、お下がりを着ている一部の生徒だけ、みんなバラバラ、爺は鉄道員だった親父の作業服を多少加工した物を着ているお金も物もない時代、服装に不満を言ったことはないが、詰襟の学生服のかっこ良さに憧れたのは確か、学生服を着ることは遂にないまま、卒業式には親父の和服を加工したジャンバー姿で出席してる。少子化の昨今は、子供一人に両親、双方の祖父母で保護者6人がいると言われ、お下がりは行われていないが、初孫女の子は、弟へのお下がりを予定して自転車、長靴は黄色系だった。お下がり(おさがり)

  • 我が家の8月

    16日、家内が91歳の誕生日を迎え爺と同い年になる。薬と共存しながらお互い無理のできない体になったが、まだ共同作業をしながら3度の食事を美味しく食べている。18日、自動車運転免許証とマイカーを返納してから2年になる。免許を取得した37歳から返納した89歳までの52年、ドライブを楽しみながら各地で親しくなった方々が懐かしい。23日、6年前のお昼過ぎだった、買い物から帰宅して間もなく胸の痛みが激しくなり、救急車で運ばれ、心筋梗塞と診断され手術、命拾いをした日である。今年の健診結果も異常はなかった。30日、6年前に18歳で亡くなった愛犬ゆうちゃんの命日である。犬種は愛称はヨーキーと言う小型犬、活発で頭が良いそうだが、何も教えなかったのでお手もしなかった。我が家の8月

  • 下ばき

    爺が子供のころ見た父はもとより成人男子の下ばきは越中褌で、クラシックパンツとも言われた長さ100センチ、幅34センチの布に紐をつけた金隠し用の下着である。父の勤務地である国鉄職員用の風呂を利用していた爺、仕事を終え入浴する職員達の下ばきは、みんな見慣れた越中褌で、何の違和感もなく、脱ぐときは静かに丸めて棚に収めていた。着用する時は,理由は分からないが、褌の両端を持ってホコリでも払うように床に向かってパンパン威勢のいい音を立てて払い落してから、おもむろにしめていたのを覚えている。定かではないが、T字帯と言って一部の医療用として使用されていると聞いているものの、戦後は成人男子の下ばきは、ラクダ色した猿股を着用するようになり越中褌の姿は見られなくなった。下ばき

  • 夏休みの宿題

    小学生にとって待ちに待った夏休みの最中だが、学校から課される宿題の数々は、子どもたちはもちろん、見かねて手伝ったりする親の負担になるのは、昔と変わらないようだ。65歳と60歳になった二人の息子達が小学生の頃は、夏休み帳は新学期が迫ってから親が手伝って仕上げるのが当たり前、自由研究は昆虫採取をしたこともあったが、何もしないことも。爺の小学生の頃は、夏休みの宿題らしいものは記憶にない。3年生の12月に戦争が始まってからの夏休みは、ドクダミやゲンノショウコなどの薬草採取、水泳の練習などに終始していた。昨今は、夏休みの題に異変が起きているようで、夏休み帳、漢字・計算ドリルなど一律で実施する宿題から脱却して改革を進める学校、宿題自体を廃止した学校もあるという。夏休みの宿題

  • テレビ離れ

    1950年代)は爺の青春時代で映画の全盛期だった、結婚した翌年の昭和34我が家にテレビがお目見えしてから映画館はご無沙汰してしまったが、今ではテレビ離れが進んでいるとか。国のIT推進政策によるインターネットの普及でパソコン時代になり、またテレビ以外のインドア系娯楽で楽しめる選択肢が大幅に増えたことからテレビ離れが進んだという。また男女雇用機会均等法が制定され、女性の社会進出が進み、仕事に出る女性の増加によって、これまで昼間に家でよくテレビを見ていた女性の日中の在宅率が低くなったからとも言う。やっぱり、一番大きな原因はスマホの普及だろうか、爺も朝起きるとパソコンでブログ仲間の作品を読んだり、スマホで孫や知人からのラインやメールを楽しんでいる。テレビ離れ

  • 寄る年波

    周りから元気だねとか、若いねとか、言われることもある91才中盤の爺、確かに日常生活に大きな支障はないが目に見えないところで老化が進んでいるのを痛感するこの頃である。歩いて近くのコンビニまで週刊誌を買いに行くことがある、時間帯によって通学する大学生に出会う,みんな爺を追い越して行くので、一度どうして急いで歩くのか聞いたら、「普通です」と一言。業者に庭の草取りを依頼したら3時間程度ですっきりしたものの、名前は知らない小さな雑草が毎日芽生えてくる。時々早朝に草取りをしているが、一分少々で腰に痛みが出て中止。細かい生活動作に手落ちが増えてきたのは否めない、最近ではメモ書きを見ながらの買い物で忘れ物したり、席を立ってから何をするのか忘れたり、曜日を間違えてゴミを出したり…。寄る年波

  • 買い物

    買い物は、店内の商品を見ながら自然に歩行距離が伸び、手を伸ばして商品を取る、荷物を持って歩くなどの買い物する動作は、全て運動機能のリハビリにつながるという。爺は、買い物が好きなので、時々気晴らしに散歩を兼ねて近くのコンビニや百円ショップで無駄遣いをしてくる。安全のため何時もリックサックを背負っていく。小学生低学年の頃、父の煙草を買いに行ったり、母の買い忘れた食材を買いに行ったり、貰った駄賃でアイスキャンデーを買ったり、道路で拾った一銭でなんか屋で飴玉を買ったりした。ある研究グループの調査結果によると、1週間のうち6日を買い物をしている65歳以上の死亡率は、節約が好きという同年齢の人々よりも28%も低いとか。買い物

  • 中学、高校時代

    卒業アルバムを見ながら、昭和20年から同26年3月までの中学、高校時代は、全ての物が不足していたことが分かる、現代っ子が着てるもの、履物、持ち物とは雲泥の差がある。当時の生徒の服装と言えば、学生服らしい服装ではあるが、制服と言うものは無かったし、校舎内でも上履きは無かったのでみんな裸足で授業中の写真を見て、冷たかったという覚えがない。中学、高校時代の部活は軟式庭球部だつた。アルバイトで買ったラケット、部員の服装もまちまち、もちろん裸足、大きなやかんの水を、上級生から順番に口を付けないようにして飲むのである。、高校3年になって、初めて新潟市で行われる県大会の選手に選ばれた。木村君(故人)とペアで爺は前衛、初日の一回戦は勝ち進み翌日の2回戦で敗退した忘れられない体験である。中学、高校時代

  • マイカーへの思い

    89歳で運転免許を返納してマイカーのない生活も2年になる、銀行、郵便局はバスで、病院、スーパーはタクシーで、コンビニ、百円ショップは徒歩での生活にすっかり慣れてしまった。タクシー代、バス代を正確に計算したことは無いが、マイカー利用時のガソリン代・保険料・税金、点検や車検費用、故障時の修理代等の維持費にかかる費用と比べて大差はないようだ。マイカーがあった頃は、近郊の春の桜、秋の紅葉を楽しんだり、郊外の馴染みになった和食どころ、洋食どころ、日本そば処での食事の楽しみが無くなって少々寂しさはある。今もアクセルとブレーキの踏み違えによる高齢者が引き起こすニュースを見るたびに、免許も車も返納して良かったと思ったり、やっぱり車があった方が便利だなと思ったりを繰り返している。マイカーへの思い

  • パワハラ

    最近、、テレビや新聞、ネットなどで有名人や政治家によるパワハラやセクハラに関するニュースを見かけることが多くなった。更に聞きなれないカスハラと言うカタカナ語が現れた。昭和一桁生まれの爺、パワハラについて思い起こせば、昭和時代はパワハラが盛んにおこなわれていたと思う。小学校6年の時の担任からクラスの生徒全員がぴんたを食らったのを忘れていない。戦争末期の昭和20年、旧制中学1年生の時だつた、理由は分からないが、上級生から殴られているところを何度も見ており教師も黙認していたのである。8月の終戦まで続いていた。少子化の御時世で、親からも、先生からも厳しく叱られた経験のない現代っ子は。初めて上司や先輩からの厳しい指導に耐えられない者もいると思うが、パワハラは許してはならない。パワハラ

  • ある日のこと

    バス停でリックを背負い、杖を使っていた70代と思われる女性に買い物ですかと尋ねたら、「通院の帰りで今日はゲキコミ」だったと、一瞬理解できなかったが大変混んでいたということ。人並みにバスの利用料金が半額になる高齢者用のカードを買い求めた。降車時に運転席の読み取り機にタッチ、稀に小声でありがとうございましたと挨拶する運転手には小声でご苦労さんと一言。自動精算機が増えた、スーパーやコンビニは支払い方法を選択後、画面の案内に従って清算、病院は診察券を挿入するか、読み取り機にタッチして、百円ショップもスマホで清算する人も。よく利用するコンビニのスタッフは新潟大学の学生が殆ど、故郷も国籍も色々。客が少ない時間帯は店にいないがレジに並ぶと奥の部屋から出てくる、レジには防犯カメラがあるらしい。ある日のこと

  • 憧れた都

    東京は地方の若者達には憧れの都であることに今も昔も変わりはない。昭和27年、爺が19歳の初夏だった、父の友人の田村さんの好意で始めて東京へ、72年前の興奮が今も忘れない。羽越線坂町駅から新津駅で上越線に乗り換え、夜行列車で上野駅に着いたのが翌朝の夜明け前、最初の行き先は戦時中は写真に向かって最敬礼していた皇居二重橋、一礼して去る姿があった。国電、路面電車、地下鉄など初めて見る乗り物を利用しながら行き先は、上野銀座浅草へ、田園地帯で育った爺、田村さんを見失わないよう、キョロキョロしながら歩くだけだった。最大の楽しみ、後楽園球場1塁側内野席でのプロ野球観戦(国鉄対大洋)芝生の上に敷物を利用しての観戦、全選手の動きを逃さずに無我夢中、生で見るプロ野球の醍醐味を満喫。憧れた都

  • 乗り合いバス

    初めてバスに乗ったのは、小学校低学年の頃(昭和14年から16年)だと思う。羽越線坂町駅から汽車に乗り、二つ目の村上駅から母の実家近くのバス停まで何回か乗ったのを覚えている。昭和16年から昭和27年まではバスが走っていない田舎で戦中戦後の混乱期を過ごした爺、昭和28年信越線柏崎市の勤務地へ社会人として赴任するまでバスに乗った記憶はない。昭和28年と言えば爺が二十歳の年である。公務でバスを利用した当時は車内で乗車券を販売していたバスガール、職員旅行で案内してくれたバスガイドの姿が懐かしい。新潟でも昭和38年からは市内の路線バスがワンマン化になってから久しい、車内の様子は様変わり、乗車時と下車時に読み取り機にカードをタッチするだけ、寂しい情景になってしまった。乗り合いバス

  • 長生きしてる

    今日まで内科、外科、歯科、眼科、耳鼻科、皮膚科のお世話になりながら91歳まで生き延びてきた。とりわけ内科の医師からは、生活指導やら食事指導やら細かく言われてきた。85歳の夏に心筋梗塞に見舞われるまでは、年に2回程度風邪をひく程度で常時薬を飲む習慣は無かったが、朝食後に数種類の薬を飲み続ける習慣も身についてしまった。爺は92歳まで生きた母親の体質を引き継いだようだが、3歳年下の妹は74歳でなくなった父親の体質を引き継いだのか、父親と同じ年齢で亡くなっている。カリュームの数値が高めで、漬物、生野菜、果物は控えるようにと指示されている身だが、今日まで健康を維持してきた食習慣を変えることなく、3度の食事を楽しんでいる。長生きしてる

  • 顔と名前

    現役時代は転勤するたびに新任地の職員の名前と顔は短期間に覚えたものだが、加齢とともにテレビでよく見るアナウンサー、スポーツ選手、力士、タレント等々名前が出てこないことが増えた。二十歳の春、社会人として最初の職場の職員数は36人ほどだったが、今も当時の写真を見ながら全員の名前をはっきりと言える。58歳で退職した120人ほどの職場の場合は2割程度だろう。巨人ファンの爺、以前は巨人のレギュラー選手の顔と名前は知り尽くしていたものだが、一軍に定着しない選手の名前は覚えられないでいる。今年から背中の名前が無くなり、覚えにくくなった。子供の頃から見ている大相撲の力士のしこ名も様変わりしてしまった。特に何と呼ぶのか分からない読めない漢字が増えで覚えにくい。山、川、海、里の字のはいったしこ名が力士らしい。顔と名前

  • シラミ

    昭和20年代の家には、ネズミ、蚊、ハエ、ノミ、シラミが我が物顔で同居していた時代だった。とりわけシラミは大半が知らない世代であり、姿かたちから観音様とも言っていた。シラミには、アタマジラミ・ケジラミ・コロモジラミの3種類があって、皮膚から吸血してかゆみや湿疹を起こす昆虫でシラミにまつわる話題も数々ある。中でも清潔にしていても衣服に寄生するコロモジラミには大勢の人が悩まされたのではないだろうか。ノミと違って動きが鈍いので手で簡単に捕らえられた。昭和20年2月に3歳で亡くなった弟が、父が肌着を脱ぐと必ず爪でシラミをつぶすために使っていた小さな板切れを持ってきたとか、父が生前に話していた一粒話を思い出す。シラミ

  • 2人の息子

    6月は息子たちの誕生月、長男は65歳に、次男は60歳になる。共働きの子は不良になると言われた時代の中での子育てだったが、2人とも普通の社会人に成長してくれた。長男は素直な子に育つようにと直(すなお)と名付けたが、名前通りの性格に成長してくれた。60歳からの第2の人生を終えて第3の人生となる年金生活になるがご苦労様でした。次男は昭和39年6月16日の新潟地震の前日に予定より早めに帝王切開で標準よりやや小さく生まれたので、早く力をつけるようにと力(つとむ)と名付け、名前通り力強く成長、現役で頑張ってる。長男には3歳の女の子と3か月になる男の子の孫がいる、次男には、1年4か月になる女の子の孫いる、ラインで送られてくる3人のひ孫の動画や写真から爺と婆は元気を貰ってる。2人の息子

  • 映 画

    小学生の頃は清叔父さんに連れられ当時は活動写真と言っていたチャンバラ映画を、中学生の時は従兄の仁さんと、高校生の時は友達と、西部劇や探偵映画をよく見ていた。社会人になって昭和28年からの下宿生活だった独身時代の娯楽と言えば、映画、パチンコ、麻雀くらいである、交互に毎日を楽しんでいたと言っても過言ではないほど映画をよく見た。職場の先輩で映画館の娘婿の植木氏から時々招待券を貰ったり、給料日前の懐が寂しくなると、先輩の自宅へ遊びに行く。部屋に入ることは無く自宅続きの映画館に案内してくれた。昭和33年に結婚した翌年34年にテレビが入ってからは子供と一緒に漫画を見たり、映画やドラマを見る生活になり映画館へ出かけることはなくなり、今ではテレビもあまり見なくなった。映画

  • 大相撲 雑感

    我が郷土新潟県出身力士の中で唯一の横綱である第36代横綱羽黒山は戦前・戦後の優勝額を併せ持つただ一人の力士という、歴史に名を残す名横綱で郷土の誇りでもある。子供の頃から地方巡業の大相撲を見たり、ラジオ放送を父と一緒に聞いていたのを覚えている。羽黒山の他、双葉山、照国、男女川、名寄岩、大内山,吉葉山の名前が浮かんでくる。今場所は横綱照ノ富士、大関貴景勝、元大関朝の山と高安、先場所110年ぶりに新入幕で優勝した尊富士と休業する力士の多い中で、横綱候補と言われている大の里が場所を盛り上げている。相撲部屋での暴力沙汰が絶えない、有望視されている力士が協会を去って行くとのは寂しい、広く国民から愛されている日本の国技である大相撲から暴力を絶滅して欲しい。大相撲雑感

  • 集合住宅

    学生を対象にしたアパートやマンションが新築されているが、全室入居しているのだろうか、3月に我が家の東側に3階建て15室のアパートには新しい自転車が10台並んでる。アパート名は「アルチェ新大」、調べたらアルチェはイタリア語で「山頂、頂上、砦」のことだとか、最近の集合住宅の呼び名は、英語やフランス語やイタリア語が多いそうで、覚えにくい。「アルチェ新大」の向かい側には、爺がこの地に住み着いた平成元年には存在した二階建てのアパートが二棟があるが、改築する様子もなく今は入居者はいない廃屋状態である。当時は学生たちが、アパートの空き地に集まり、何やら楽しそうに語り合う情景が毎日ように見られ賑やかだった。声を掛け合って親しくなった学生もいた頃が懐かしく思い出される。集合住宅

  • ひ孫との対面

    5月4日、越後線新潟大学前駅に孫夫婦と1歳2か月になったひ孫の莉音ちゃん(女の子)を乗せた電車は11時22分定刻どおり到着、名前を呼んだら「にっこり」顔の可愛かったこと。家で待っていた家内との初対面でも同じにっこり顔、人慣れしているのか、泣くだろうかと思った心配が消えてホッとした。早速に莉緒ちゃんは持参したのお弁当を、食べっぷりの良いこと。我が家で4時間ほどの滞在中、家では見られない親子電話の受話器、うちわ等を手当たり次第に手に取りながら部屋中を歩き回りっていた一連の動作を両親がカメラに収めていた。さっそく受信した写真を見たら、写真は正直に映る。日頃は周りから年齢に見えないと言われているが1歳2か月のひ孫と一緒に写った91歳の爺の顔はやっぱり年老いた年齢通りの顔。ひ孫との対面

  • 公衆トイレ

    トイレの言い方には、いろいろあるが、昔の公衆トイレは全て便所と書かれていた。現代は男性は青色で、女性は赤色でのイラストがほとんどて、たまにお手洗い、化粧室などを見かける。爺が子供の頃の昭和10年代のお年寄りたちは厠(かわや)と言っていた。昔の日本の軍隊では公式の用語だったそうだが、ちなみに小生の爺ちゃん婆ちゃんはお手水(おちょうず)と言っていた。公共施設のトイレには、「トイレットペーパーを持ち帰らないでください」と書いた貼り紙が目立つ。あるところで、貼り紙の「ペーパー」の部分をマジックで黒塗りしてあり苦笑いしたことも。「トイレを綺麗に使っていただいてありがとうございます」という以前とはニュアンスが違った掲示が増えた。その効果が出たのか、掃除が徹底したのか、公衆トイレが綺麗で快適になった。公衆トイレ

  • 母の実家

    昭和10年代の田舎の小学校は、春、夏、冬休みの他に春と秋には農繁期休みがあった。爺は休みになると、しつけのためか、呉服店だった母の実家で過ごしていた時のことを断片的に覚えている。店は殆ど大婆ちゃん(祖父の姉)が針仕事をしながら接客、近郷近在からの馴染み客で賑やかだった。時には爺が店番を頼まれ、お客が来ると大婆ちゃんを呼んだり、針の溝通しを手伝ったりしていた。実家では5歳年上の叔父さん(故人)とは言え、お兄さん的な存在で夏は魚釣りに、冬はスキーに、爺の子守役をしてくれていたと思う。囲碁、将棋、麻雀に才長けた人だった。年の暮れの夜だつた、売掛金の集金のため祖父は大福帳を持ち手首に集金袋をかけ、爺は提灯を持ってついて行ったことがある。現金を受け取ると大福帳の記録を筆で消すことで受領書になる。母の実家

  • 末は博士か大臣か

    将来は博士や大臣のような“立派な人”になって欲しいという子供の将来を期待しての言葉であるが、いつ頃、誰が言ったものか不明らしい。現代ではあまり聞かなくなった。明治維新で徳川幕府が消滅し、若者たちの新政権下での夢は、1番が政治家になること、2番が学者だつたことからではないかとも言われているが、現代っ子は望んではいない。小学生男子は、1位YouTuber、2位スポーツ選手、女子は、1位パティシエ、2位看護師、中学高校になると男子は、1位会社員、2位公務員、女子は1位会社員2位看護師と現実的な職業になる。学問や政治を志す若者にとって目指す到達点であることは変わりがない。学者は博士を目指して励み、政治家は大臣に憧れ、順番を待ち続け、たまに適材適所でない方も見受ける。末は博士か大臣か

  • ヤミ米

    昭和16年12月に大東亜戦争が始まった翌年の2月、食糧管理法が制定されお米は政府の管理になった。米穀通帳と言うものが各家庭に配られ、販売店も指定され配給量も決められてしまった。配給量では足りないので農家等から買った米をヤミ米と言っていた。昭和20年の終戦後は満州、朝鮮、台湾からの引揚者により人口が急増したことで食糧不足が深刻であった。警察当局によるヤミ米の摘発が盛んにおこなわれていた、汽車通学の中学生だった爺、列車内で怒号が飛び交う中で没収されるヤミ米、泣き崩れて警察官に泣きすがる女性の姿が忘れられない。我が家でも、母が近くの農家から衣類と交換して米を求めてきた。配給米は玄米、農家から買った米は白米で一目でわかる。爺の白米の弁当を見て、農家の子たちにヤミ米だと騒がれたことも。ヤミ米

  • 春が来た

    昨年の夏の記録的な猛暑に続き冬は暖冬小雪と異常気象の中で、我が家の庭には福寿草が予定通り3月には咲いてくれたし、今は水仙の花盛り、偉大な自然の力が心を和ませくれる。我が家の東側には昨年10月に3階建て15世帯のアパートの新築工事が始まり3月下旬に竣工、早速に大型車両が家財道具を運んでくる、自転車小屋には真新しい自転車が並んでいる。お米をとぐ前のお釜のご飯粒や米櫃周りに零れた僅かな米は庭に捨てることで、スズメが一粒残さず食べてくれる、また庭に捨てたキャベツの外側の葉、今年も虫が食べ始めたようである。新潟は桜の花盛り、新入生、新入社員は、そろそろ環境の変化に慣れたろうか、関東に居る3月に3歳になったひこ孫も幼稚園入園、母親に手を引かれた制服姿の写真の可愛いこと。春が来た

  • 雑 感

    新しくなった新潟駅を見たいと思っていたが、生粋の新潟っ子の知人の話では、3回も尋ねながら目的地にたどり着いたと聞いて、誰かに案内してもらって行くことにしたい。生来のせっかちな性格もあるが、スーパーの買い物でマイバックを忘れたり、郵便局専用の振込用紙で銀行窓口で断られたり、時計を見間違えて早く起きてしまったり、みんな一度だけだが。運転免許証を返納して1年半、タクシーは運転経歴証明書を提示することで1割引きになる。利用する度に番号を控える人、証明書を確認するだけの人、統一できないものかと。高校同級生の新野君とは年賀はがきが初めて発売された高校2年生の1949年12月から75年続いた年賀の友である。今年の年賀状には、「元気で頑張っていますか」と、最後の年賀状になるとは。雑感

  • プロ野球開幕

    3月29日、今年のプロ野球ペナントレースが開幕した。昨年の日本一阪神と今年こそ優勝を義務付けられた阿部新家督率いる巨人との一戦、巨人ファンにとって久しぶりの喜びだった。去年の巨人の開幕戦は最下位だった中日に3対6で敗れ、阪神とは6勝18敗1引き分けだった嫌なイメージを払拭させた一勝であり、に投打ともに安定した巨人戦、最後までテレビ観戦を。初の開幕投手になった戸郷、セーブの大勢のピッチング、試合の流れを変えたベテラン梶谷ファインプレー、続いてホームランはお見事、阿部新監督の思惑通りの試合になった。阪神とは2勝1敗と勝ち越したものの、中日には2連敗中とは、喜んだり不安になったり、阿部新監督の采配に期待して今年の巨人戦を楽しみながら今年こそ日本一になることを祈る。プロ野球開幕

  • 大相撲

    日本人横綱はいない、郷土出身力士がいない、日本人大関の高安、正代、御嶽海には、前頭に陥落したままで横綱への期待は無くなり、新大関琴の若の活躍に期待した春場所が終わった。琴の若を中心の場所になるかと思ったら、新入幕の尊富士が優勝、110年ぶりの快挙だそうで、更に初場所に入幕して敢闘賞の大の里大が最後まで優勝争いで、尊富士と二人で盛り上げた場所だった。想像だが、琴の若には気楽だったろう、祖父のしこ名横綱琴桜になる来場所に期待したいし、尊富士は前頭上位に躍進、大野山は新三役だろうか、上位陣との対戦が楽しみな場所になる。期待できる郷土力士はいないのが少々つ寂しいが、5月の夏場所では琴の若、尊富士、大野里の若きホープの活躍を楽しみにしとてい。研究されて今場所より苦戦するだろうが応援したい。大相撲

  • 公衆トイレ

    トイレの言い方は、便所、厠(かわや)、雪隠(せっちん)、はばかり、ご不浄お手水(おちょうず)など色々あるが、現在では「トイレ」が普通であり、日本語として認知されている。「厠(かわや)」は、現在では使われていないが、昔の日本の軍隊では公式の用語であったそうであり、確か爺が子供の頃の昭和10年代のお年寄りたちが使っていたのを覚えている。和式から洋式へとトイレの中も変わったことで、座りながらスマホに触ってしまうという人が多くなり、落書をするのではなくスマホからメッセージのやり取りをしているとか。「トイレットペーパーを持ち帰らないでください」と書いた貼り紙が目立ってきた、あるところで、貼り紙の「ペーパー」の部分をマジックで黒塗りしてあったのを見て思わず苦笑い。公衆トイレ

  • 好きな食べ物

    食糧難時代を体験したためか、食べ物に好き嫌いが無い爺、91歳まで生きた要因のひとつかも、「好きな食べものは」と問われると、迷わず「赤飯、桜餅、甘納豆」と答えてきた。生前の義弟(家内の弟)が、我が家に来るときは何時も赤飯を持ってきたもの、また、爺の誕生日には知人のS氏から赤飯が届く、家内は赤飯が苦手とあって殆ど爺が一人で食べる。今年もご近所のAさんから自家製の桜餅をいただいた、ご先祖様と愛犬が眠る供養塔の写真前にお供えして、仏様が食べ終わるまで待ち遠しかったが、市販の桜餅とは風味が全く違う。下宿生活だつた独身時代のこと、職場のM先輩が酒を飲んで朝帰りした時は、爺と一緒に過ごしたことにしてアリバイ作り、手土産は何時も甘納豆、奥様からのお礼も甘納豆だった。好きな食べ物

  • 愉快な飲んべたち

    酒は百薬の長と言って適量の酒はどんな良薬よりも効果があるが、飲み方次第で毒にもなる代物。色々な酒癖の人と出会ったが、ちょっと愉快な3人の飲んべを紹介する。昭和34年頃、同じ職員アパーの2階に住む田村氏、酒を飲んで帰宅の際は、決まって3階の我が家のドアをノックする、施錠していない時は、玄関に入り込んできたことも。昭和46年の職場の友の山口氏、帰宅前に居酒屋で晩酌する飲んべ、話し相手に何回か誘われた。爺が何を飲もうが、食べようが無頓着、無理強いもしない、面白くもない話をしながら喜びに浸る。2度、職場を共にした婿養子のK氏、外で飲んだ時は奥様がマイカーで迎えに来る、「こんなに遅い時間に女性の方から送っていただきありがとうございます」と丁重にお礼の挨拶をする。愉快な飲んべたち

  • 91歳になった

    先輩はもとより、同期の仲間の殆どが石のシャッポを被って彼の地でお休みなさっている中で、この世に取り残された吾輩は3月8日には無事に91歳の誕生日を迎えた。見た目で姿勢がいいとか、声に張りがあるとか、元気だねとか、色々言われるが、爺には内緒で心身ともに老化が進んでおり、日頃の言動から年を取ったことを痛感するこの頃である。掃除も厳しくなって、手抜きしながらも一部屋ごとに一休み、思い物を持っては手首を痛め、寝違えてあちこちの痛みで、何時も体のどこからか湿布の匂いかする無理できない体になった。厚労省の調査資料によると、91歳の平均余命は3年とあるが、いくつまで生き延びられるのかは運命に従うしかない。時々年上の元気で明るく話好きな高齢者と語り合いたい気持ちになる。91歳になった

  • 好きだった上司

    58歳まで半世紀の公務員生活から第二の人生は造園業界の事務局へ、異質な環境の中で戸惑う爺に全面的な信頼を寄せてくれた責任者の片岡氏(故人)を懐かしく、時々思い出している。陸軍士官学校出身で身長180センチ近い大男、終戦時の位は佐官クラス、戦時下であれば近寄りがたい存在、戦後は会社を設立、市議商工関係の役職など地域の名士として活躍された御仁である。過去の市議、商工関係、軍人時代の話題は自らは殆どしなかったが、南京虐殺事件と沖縄戦に関して一部を反論しながら自身の認識を語ってくれたことが印象深く、納得できる内容だった。造園業の社団法人代表として、当時80代半ばだったが、元気はつらつ、若い会員にも何時も同じ目線で話しかけ耳を傾けてくれる姿は好々爺といったところ。心が温まる存在だった。好きだった上司

  • 老夫婦の朝

    90歳の老夫婦ともなると、全ての動作が鈍くなったが、三日か四日に一度スーパーへ買い物に出かける。昔ながらの食材を買い求め、3度の食事は全て子供の頃から食べ慣れた和食である。朝の2時半前後には目を覚まし、朝茶を飲みながら家内は読書や編み物、今はアームウォーマーを編み続けている、爺はブログづくりや現在46人のブログ仲間の作品を読んだりしてる。5時には夫婦共同で朝食の準備、前日の夕食後12時間、起床後3時間後の朝食は待ち遠しく、空腹感で3度の食事で一番美味しく食べている、今の時期まだ周りの家々の明かりはない。食事が終わると、ご先祖様にローソクと線香を灯して手を合わせる。洗顔、手抜きしながらの掃除、洗濯などすませば、寝るまで自由時間になる、こんな生活が何時まで続くやら。老夫婦の朝

  • 通勤仲間

    昭和49年から2年間、50歳代の阿部氏、30歳代の岩佐氏、40歳代の爺の3人が交代でマイカー通勤していた時のことをふと思い出した。周りから羨ましがられるほど気の合った仲間だった。阿部氏は、温厚で真面目一筋、笑う時は声を出すことはなく両肩が上下に動くだけ、岩佐氏は、対照的に賑やかな性格で、面白い話題を一人喋り、40分ほどの車内で退屈することは無かった。ある日、阿部氏の運転日だった、楽しい話題に夢中になってスピードを出し過ぎたのか、サイレンを鳴らした白バイのお兄ちゃんから停車を命じられ、反則切符をもらったことがあった。阿部氏は58歳で退職後は建設業界へ転出後間もなく病で還暦前に亡くなり、岩佐氏は若い頃からの酒の飲み過ぎで体調を壊し、定年前に亡くなる。相変わらず良く喋る岩佐氏の夢を見た。通勤仲間

  • 月極駐車場

    我が家に隣接する東側は15台が駐車できる月極駐車場である。現在の利用台数は13台、県内車は3台で他は県外車で占められている。利用者は近くのアパートなどに住む人たちであろう。爺が現在の地に転居した33年前は、スイカと大根畑だったが、耕作者の高齢化で駐車場になってから20年以上になる。舗装されていないので月3500円だと聞いている。当初は県外出身の学生が殆どで、4月の年度替わりには利用者が入れ替わる。我が家の窓越しに学生たちに声をかけると、挨拶は出会いの始まりと言うが、翌日からは挨拶が返って来た。中には、親しくなって我が家でお茶飲みしたり、たまには食事をしたりした学生もいて、結婚式に案内されたこともあった。今時の学生たちは気質が変ったのか、声をかけても繋がらない。月極駐車場

  • 近頃の思い

    薪を背負って歩きながら熱心に本を読んでいた二宮金次郎、鞄を担いで歩きながら熱心にスマホと向き合っている若者、熱心さに変わりないが、横断歩道では左右の確認して命を大切に。相変わらず編み物好きな老妻、今の時期はアームウーマーを楽しみながら編み続ける日々、成果品は、全て知人やスーパーで親しくなった女性店員に、喜んでもらって楽しんでいる。某寺院の住職が「今日を大切に」と題した講話、80歳まで生きたとして、27年は睡眠時間、10年は食事の時間、5年はトイレの時間を除くと、仕事や趣味などに使える時間は38年しかないと。共働きの時から調理時間が短く、皿数が少なく、栄養バランスが取りやすく、果物が合うなど合理的でメリットの多い朝のパン食をご飯にしてから半年ほどになるが、パン食より美味しい。近頃の思い

  • 3人のひ孫

    1番目のひ孫の女の子紗奈ちゃん、3月には3歳になり4月から保育園に入園する。保育園からの入園許可証を両手で掲げた写真がきたが、本人は何も分かっていないかも。誕生から今日までの成長する様子はラインを通して見ているがコロナ騒ぎで会っていない。知恵付きは早いが、まだおむつが取れないようで、目下訓練中だとか。2番目のひ孫の女の子莉音ちゃん、今月22日には一歳になる。スマホで莉音ちゃんのアルバムを見るのが朝一番の楽しみ、数歩ほど歩き始めたところ、会える日が待ち遠しい。3番目のひ孫、紗奈ちゃんの弟が2月3日早朝に無事誕生の知らせがあり、逞しい顔の男の子の写真が夕方には早速に送信されてきた。これで楽しみが3倍になった。3人のひ孫

  • 老いを痛感

    男性の平均寿命81歳を超えてから10年、人生の終電車に乗って終着駅に向かっていると言ってもいい年齢である。二人の息子が支援要請手続きをするのも無理からぬことだと思う。90歳の壁を越えてからの1年を振り返ると、爺には内緒で目に見えないところで老化現象が起きている。ひざ痛、首痛、胃もたれで受診したが、全て加齢による老化と診断された。ゆっくり歩いて10分ほどで行ける100円ショップと本屋まで途中で一度腰を伸ばして一休み、通学する大学生たちは、みんな爺を追い越していく姿を見ながら老いを痛感する。掃除機での掃除も厳しくなって、手抜きしながらも一部屋ごとに一休み、思い物持っては手首の痛め、寝違えてあちこちの痛みで、何時も体のどこかに湿布が、無理のできない体になってしまった。老いを痛感

  • 時代劇

    子供の頃に見た時代劇で記憶にあるのは、チャンバラ場面を震えながら見ていた嵐寛寿郎が演ずる「鞍馬天狗」、好きな時代劇を問われたら、市川歌右衛門が演ずる痛快時代劇「旗本退屈男」か。時代劇に登場する代表的なものに庶民長屋がある、長屋の管理人の大家さん、家賃の取り立て以外に、今でいう行政書士や民生委員の役目を勤めながら長屋の住民から親のように慕われた存在だ。悪代官、悪徳商人、大店のどら息子、怠け者の大工や植木職人、傘張り浪人など日銭を稼ぎながらの貧乏人達が登場するが、令和の御代でも名称は違っても似たようなのは存在する。居間、食堂、寝室を兼ねた一部屋の庶民長屋、今で言うワンルームマンションだが、長屋全体が大家さんを中心に堅い絆で結ばれている情景は、福祉の原点を見ているようで、ほのぼの気分に。時代劇

  • 年賀状じまい

    年賀状じまい等で年々少なくなって今年は80枚程になった。当選番号が発表され、毎年2,3枚が当たる利用することもない切手シートでも、初めて当選ゼロとは少々寂しい。高校2年生だった昭和24年12月1日に初めて発売された年賀状も、メールやSNSで、年賀状を書く手間、節約のため、高齢者層の終活などで、年々減少の一途、何れ無くなるような気がする。年賀状について本音の意見を聞いたら、47.4%が「そのうちやめたい」、22.7%は「すぐにでもやめたい」、「まだ続けても良い」は24.0%で、7割がやめたいと思っているそうである。爺は今のところ、自ら年賀じまいのご挨拶をするほど気力は落ちていないので、現役時代から添え書きのある知人、友人、後輩からの年賀状だけは、楽しみながら書き続けていきたい。年賀状じまい

  • 要支援認定申請

    今年の誕生日が来れば91歳になる老夫婦、日常の簡単な家事は共同でやりながら、介護のお世話にならずに何とか自立した日々を過ごしているが、大きな家事は無理になった。壁掛け時計の電池交換、蛍光灯の取り換え、高所の作業などは便利屋さんに、庭木の剪定を庭師さんに頼んでいるが、寝具類の洗濯や入れ替え、大掃除、室内のバリアフリー化を思料している。実態を見た、関東にいる長男(64歳)と次男(59)歳の判断ですすめた要支援認定申請に基づいて、去る1月15日に2人の息子の立ち合いの中で調査員による調査を受けたところ。調査項目が75項目ですと言われ、日常生活の実態、認知機能、歩き方、寝返り、手足の動き等々で約一時間ほどを要した。要支援対象の是非についての認定まで約一か月ほどかかるらしい。要支援認定申請

  • 救急車

    アメリカやドイツなど救急車の出動が有料の国では、1回の出動ごとにおよそ数万円から10万円程度の費用を請求されるそうで、日本は無料で病院へ運んでくれるのでありがたく感謝あるのみである。誰も乗りたくもない救急車に4回もお世話になったが、乗用車と違って乗り心地は極めて悪い。タイヤが路面からの衝撃を和らげるためのサスペンションと言う部品が固いためだと知る。救急車は患者さんを乗せて、急いで搬送するので一般的な車に比べて激しい運転をすることが多くなり、乗り心地の良いふんわりとしたサスペンションでは車体が不安定になってしまい、危険になってしまう。また、救急車は中で救急隊員が作業をするので車自体が高く重心が高いので、コーナーを曲がった時にひっくり返らないように、固い足回りにしているといった理由だとか。救急車

  • 御 用

    一般的には、新年が明けて仕事を行う1月4日を仕事始めと言うが、それに対して役所などの官公庁では、今では耳にしないが、新年が明けて初めて公務をする日を御用始めと呼んでいた。民間企業でも、1960年代ごろまでは御用始めという言葉が使われ、テレビやラジオのニュースなどでも使われていたらしいが、固い印象があるため、現在はあまり使われていない。時代劇などでよく見る「御用だ!御用だ」と役人が叫ぶシーンは罪人を捕まえる公務(御用)を行っているという意味で、罪人に対して「おとなしくしなさいという意味だとか。幕末に活躍した新撰組の有名なセリフで「御用改めである」という言葉を現代の言葉に置き換えると「我々の公務である取り調べを行います」という意味になるんだそうで。御用

  • 大きな揺れ

    元日に発生した能登半島地震に正月気分も吹っ飛んでしまい、こんなに大きな揺れは90年の人生の中で初めて体験した。横揺れで倒れそうになった食器棚を夢中で抑え事なきを得た。昭和39年6月16日に発生した新潟地震を思い出した。爺は前日の15日に帝王切開で次男を出産した家内のベットの傍にいた時だった、身動き出来ない中で揺れの止むのを待った。地震の直後からファンヒーターもガスコンロも使えなくなった。近所の奥さんがメーター機の安全装置が作動したのだとの助言で、ガス会社ホームページの動画のとおり操作して復帰させた。翌2日午前は、子供、孫、親せき、知人からのお見舞いの電話対応に追われた。年始の決まった挨拶は程々に、地震の話題に終始する長電話になってしまった。大きな揺れ

  • 新年になった

    「爺の世間ばなし」を訪れてくれる読者の皆さん,明けましておめでとうございます。お陰様で初投稿してから17年になりました。今年も是非お立ち寄りくださいますようお願いします。「1年の計は元旦にあり」、老夫婦にとっての計は、今年も転倒→骨折→寝たきりにならないことだけ、入浴時や外出時には必ず「転ばないように」と夫婦の間で声を掛け合っている。楽しかったお正月と言えば、幼い頃の孫たちと一緒に過ごした時と、小学生の頃に近所の子供たちと、炬燵を囲んでトランプ、花がるた、百人一首で遊んだことが懐かしく思い出す。幼稚園の頃から一人で我が家に来ていた孫娘のUちゃんが二人目の子を身ごもっており2月の出産を待っている。今度は男の子だとか、爺にとっては3人目のひこ孫の誕生、安産を祈っている。新年になった

  • 今年も僅か

    夫婦ともに卒寿を迎えた今年もあと僅か、ひ孫の誕生で喜んだり、救急車の世話になったり、建設的でない口争いをしながらも大きな災いもなく新年を迎えられるようである。今年最後の「爺の世間ばなし」も、2007年5月2日に初めて投稿してから今日で1111回になった。つたないブログだが愛読してくれる読者の存在が励みになって続いている。高齢で年賀じまいをする仲間が多い中で、爺は今年も20日には投函、元旦の配達に間に合わせた。職場の後輩21人に昔の顔を懐かしく思い出しながら添え書くのが一番楽しい。神棚と仏様の埃を落とし鎮守様の新しいお札を納めたところ、仏様は毎朝お線香とローソクをともして手を合わせるが、神様には31日一年のお礼を申し上げ、翌1日には一年の健康を願う。今年も僅か

  • 我が家の環境

    平成元年4月に現在の地に転居して35年目になる。周りは野菜やスイカ畑に囲まれ、キジが悠々と歩き回り、ハトが集団で飛び回り、スズメが砂浴びしている喉かな情景だつた。今ではほとんどの畑が学生マンションや駐車場と化してしまった。残った我が家の前の畑も持ち主の高齢化で昨年二軒の住宅に変わり、裏手の畑には三階建てのアパートが建設中である。我が家の東側に隣接する15区画の駐車場も、近隣にマンションが新築されてから満車近くになった。以前は地方出身の大学生たちが、駐車場で談笑する賑やかな場だったが今はない。毎年、春になると見慣れない学生と出会い、声を掛け合う楽しい雰囲気があった。一度声をかけると、翌日には挨拶が返ってきたものだが、現代っ子は声掛けしても何の反応もない。我が家の環境

  • 年の暮れ

    我が家の年の暮れの定例行事は、お歳暮、年賀状、餅つき、元気な証拠として続けているお歳暮を今年も贈ることが出来てホッとしているところ、掃除は神棚、寝間、台所、居間だけ。明るい話題は2月22日、ひこ孫の莉音ちゃんが生まれたこと、写真や動画を毎日スマホで見るのが何よりの楽しみ、今は髪も増えて女の子らしく、伝え歩きするようになり、順調に成長している。暗い話題は、借金もしていないのに、3日の朝のこと、首に違和感があり9時頃には痛みに我慢できなく、5年前の心筋梗塞時以来4度目の乗り心地の悪い救急車のお世話になった。3月に爺が、8月に家内が、90歳の壁を越え、諸動作が鈍くなり、無理できないので、家事は全て共同作業。残り少なくなった一生を大切に新年を迎えたい。年の暮れ

  • 首が痛くて

    12月3日(日)朝のこと、首から肩にかけて寝違いたような痛みを感じたが、時々あることで気にもしなかったが、9時頃になったら強い痛みが首全体に広がり我慢できなくなった。緊急ボタンを押して警備保障会社に通報、混んでいたらしく救急車が来るまで時間か掛かった。救命士からの質問に症状を一通り説明後、病院が決まるまでに車内での待機時間は長く感じた。近くの病院はダメで、遠い新潟脳外科病院に運ばれた。脳と頚部のMRI、心電図、を終わってからは痛みに耐えながら待機、午後1時半ごろ主治医から「急性項部強直」と診断され、内科的には異常無く帰宅。4日は痛み止めの座薬で痛みは少し和らいだが、5日市内の整形外科で頚部のX線撮影、ブロック注射、電機治療を、痛みが止まるまで一週間ほどかかると言われたとおり、9日には湿布不要になる。首が痛くて

  • 歩いたもんだ

    ある調査によると現代の子供たちは昔の子供たちに比べると一日の歩数が激減して、30年前の子供たちは一日の歩数が27000歩だったが現代は13000歩になっとある。戦時下だつた国民学校初等科時代は体力向上のため行軍と言う名の下で遠足が頻繁に行われていた。4年生の時だった隣村まで1時間近く歩いてからの登山は虚弱体質だった爺には堪えた。田舎育ちの爺、小学生で低学年の頃のこと、疲れも知らずによく歩いたもんだと思い出すのが、夏休みに上級生に連れられて荒川の河口でのハゼ釣りに、片道一時間以上は歩いたと思う。また同じころ、両親と新潟市へ遊びに行った時も、新潟駅から万代橋を渡り、大和デパート、小林百貨店、白山公園、昭和橋経由で新潟駅まで歩いたとは驚き、新潟を知る人なら分かるかと。歩いたもんだ

  • 大相撲雑感

    新潟市出身の時津風部屋の豊山が3役の壁に向かって足踏みしながら引退、佐渡市出身の元十両朝乃若も幕下で足踏み状態、郷土の関取二人とも姿を消してから、テレビ観戦は少なくなった。元大関の高安、御嶽海、正代3力士たち再挑戦する意欲を感じないのが気になるし寂しい、不祥事で幕下から再起した元大関朝乃山も幕内優勝して賜杯を手にした頃の強さは見られない。期待している将来が楽しみな力士として、二所ノ関部屋の22歳の大の里である。192cm177kgと恵まれた体格の大の里は全日本選手権連覇を果たすなど、将来の横綱候補と呼び声も高い。幕内最年少の21歳186センチ182キロの熱海富士がさえている。元大関魁皇の審判長は「力を付けた」と,また元横綱白鵬も「細かい相撲が取れるようになった」と、楽しみな力士である。大相撲雑感

  • ナンプレ

    脳に適度な刺激が加われば、脳内の血流が良くなり脳が活性化されることで認知機能の低下を防ぐことができるので、結果的に認知症の予防効果が期待できると言われているが。精神科医の和田秀樹氏によると、ナンプレは同じような問題を解いても脳が慣れてしまい、問題を解く能力は上がるが、特定の脳の部位は鍛えられ、認知機能までは上がらないと言ってる。イギリスで最も権威がある新聞の一つであるデイリーメイル紙には、ナンプレには主に三つの効果があることが分かったと、脳の健康を保つこと、イヤマームを治すこと、記憶力を改善すると。効果のほどは色々と言われてるが、暇つぶしにナンプレを楽しんでから1年近くになる。現在の正解率は初級が100%、初中級が52%、中級が50%、今の実力は初級と中級の中間位か。ナンプレ

  • 読売巨人

    プロ野球の公式戦日程が終了した、セリーグは阪神、パリーグはオリックスと関西勢同士の日本シリーズは老いても巨人ファンの爺には関心が薄く、翌朝にパソコンで結果を見ただけ。昔から巨人には常勝という使命があり、常に優れた成績を維持することが求められ、2位も6位も一緒なのである。監督コーチ陣は、采配が疑問だ、休養だ、交代だと騒がれるのも宿命である。選手の獲得競争中、現代っ子は職場環境を重視するようになり、原監督の好き嫌い人事や使い捨て起用、阿部新監督のパワハラ気質が懸念され、球児の憧れだった巨人では無くなったようだ。オリックスから近藤大亮投手が巨人に移籍が決まった。背番号は江川卓氏が背負った「30」、小さい頃から巨人ファンで阿部監督の下敷きを使っていたとか、期待したい。読売巨人

  • 身近の技術者

    フルセルフレジ、セミセルフレジのスーパーが増えてきたが、爺はフルサービスのレジを利用している。マイバックに瞬時に手際よく商品を詰めてくれるレジ係の腕前は技術者である。4日は、何時もの庭師さんと助手の二人が来てくれた。イチジク,梅、松、月桂樹,ネズミモチの剪定を2時間ほどで終わった。終わった後の樹形の美しいこと、その道のプロだと実感する。11日は床屋さんへ、ベテランの中年女性A子さんにお任せ、四方山話をしながら終了まで80分、手探りで髭を探す柔らかい手は心地よい眠りの世界に連れて行ってくれる。パソコンに出会って22年になる、今はパソコン相談所の会員になってトラブルや疑問があると電話や往診して指導してくれるKさんに尋ねると知らないことは無い心強い技術者がいる。身近の技術者

  • 加齢による症状

    爺に内緒で老化が着々と進んでいるようで生活動作が鈍くなってきた。筋力が低下し柔軟性がなくなり、神経の伝達速度が遅くなったことから、素早く動けなくなったのだとか。朝晩の着替えで、特にズボンを履く時に、立ったまま最初に左足はスムーズに履けるが、次に右足を履く時は柱や壁に寄りかかり、ふらつきながらも転ばないよう慎重に履いている。スーパでの精算はクレジットカードだが、病院、コンビニ、書店、ホームセンター、タクシー、バスなどで精算する際の財布から現金の出し入れが手間取り歯がゆい思いをしている。もの忘れ、就寝時にトイレの回数が増えた、耳が聞こえづらくなった、夕方に目が見えにくくなった、階段を上りに息切れする等、誰にでも起こる加齢による症状が揃ってしまった。加齢による症状

  • 年賀状

    今年も年賀はがきの発売が始まり発売初年度の昭和24年12月1日から75年になる。年賀はがきのアイデアは、京都在住のアマチュア画家で林正治さんと言う方が考案したものだと知った。爺の年賀状住所録には69人、家内は24人の氏名が記載されてる。彼の地に行かれた先輩の皆さんや年賀終いされた皆さんなどで、現役時代の半数近くになってしまった。発売初年度時は高校2年生だった。初年度から年賀状の交換しているのは、唯一同級生のN君だけである。彼とは学生時代、社会人を通して親しい間柄でなかったのに不思議な友である。退職してから32年も経っているのに、まだ現役時代の職場の21人の後輩からコメント付きの年賀状がくる。懐かしく、楽しみで、元気づけられている。みんな爺ちゃん婆ちゃんに。年賀状

  • 短気だった父

    地震雷火事親父の諺どおり、爺が子供の頃の父は短気な人で怖い存在だったが、国鉄を定年で退職してから74歳で一生が終わるまでの父は別人のように優しい人に変わった。爺が兄のように慕っていた5歳年上の従兄の仁さんが言っていた、「お前の両親は夫婦喧嘩が絶えなかった」と、爺も小学生の頃は父が大嫌いで、父が夜勤の日は嬉しかったもの。察するに爺が3歳前後の頃か、爺は母親に手を引かれて玄関の土間に立っている、何やら叫んでいる父、父をたしなめているお婆ちゃん(父の母)の情景を覚えている。今に思えばSLの機関助手、機関士として、狭い運転室の中で、夏は高温、冬は厳寒、激しい振動の中での長い乗務時間は重労働であり、特に夜勤明けは疲れていたのだろう。短気だった父

  • 年を取った

    90歳の壁を越えてから8か月、一生が間もなく終わる年なんだと思うようになった。こんなに長生きするとは思ってもみなかったが、楽しいことも嫌な思いいもしながら生きてしまった。90歳3か月になる老妻とともに、2時半前後には起床、5時半朝食、11時昼食、4時半夕食、入浴をすませば、6時には寝床でテレビを見ながら睡眠の日々は、世間様とずれている。定期の外出は3日に一度のスーパでの食料補給と月に一回かかりつけ医から薬の補給だけ、3度の食事だけは欠かすことなく、美味しく食べ続けていることが、長生きの要因になっているのかも。夫婦ともに風邪一つ引かず、健康状態は良しとするが、寄る年波には勝てず、生活動作が鈍くなり、掃除、洗濯、炊事などすべての家事は共同作業で何とかこなしながら自立している。年を取った

  • クライマックスシリーズ

    毎年のようにクライマックスシリーズが始まるとネット上でファンから不要論が飛び交うが、ある調査によると半数近くのファンは継続してほしいと考えている人が多いとか。C・Sは、レギュラーシーズンの優勝チームが早々に決まっても、2位、3位争いへの興味・関心が維持され消化試合が激減し、またチケット、グッズ等の売り上げにもつながっていると言う。2010年のペナントで3位だった千葉ロッテがC・Sで勝ち上がって、日本シリーズで中日を破り「史上最大の下剋上」と呼ばれ、日本一に輝いたことから不要論が起きたようだ。巨人OBの江川氏が1年間必死で戦ったペナントを簡単にひっくり返されないようにするため、1位チームには2勝、2位チームには1勝のアドバンテージを与えるべきと提案している。クライマックスシリーズ

  • 寝床で転ぶ

    10月8日~9日、長男夫婦と上越市の鵜の浜温泉へ軽自動車で久しぶりの旅で疲れたのか、夜半に小用のため寝床から起き上がる際によろけて、傍にあった座椅子に当たり左耳を負傷した。座椅子に当たった左のみみたぼの一センチほどのキリ傷から出血で、長男夫婦から応急措置をしてもらったが、血液サラサラ服用をしているので、血が止まるまで時間がかかった。翌朝には傷の痛みも和らぎ、出血は収まったものの、頭を動かしたり、車中で段差のある道路を通過する時に軽い頭痛があったが、疲れのためだろうと気にもせずに過ごした。11日夕方になっても頭痛は収まらず、左の首から背中にかけての痛みも出たので、翌12日病院で脳のCT検査、頭痛は出血によるもの、首と背中の痛みは筋肉痛と診断された。寝床で転ぶ

  • バスの車内で

    我が家から日頃利用しているバス停まで徒歩2分、新潟大学への通学道路であることから、土曜日曜以外はバスの運行本数も他の路線に比べると多いので便利に利用している。通学時間帯以外は何時も客は数人程度であるが、通学時間帯では大学生で満員になり、吊革につかまって乗車することがある。座っている学生たちはスマホに夢中、席を譲る気配はなかった。膝に違和感があり杖をついて乗った時は席を譲ってくれたのに、多分、軽快な服装と息子からもらった若者向きの帽子、マスクを付けて、動きも普通なので爺を若く見積もったのかも。爺が利用するバスは、大学生と買い物、通院のための高齢者が殆ど、乗り降りははカードをタッチするだけ、爺のように現金で支払う客は少なく、昔のバスとは随分と変ってしまった。バスの車内で

  • 笑いも色々

    免疫学の権威で新潟大学の安保教授(故人)が、笑いは体の免疫力を高め、血液の流れを活発にするので、笑わない人にはコチョコチョしてでも笑わせなさいと言うほど笑いを勧めていた。動物の中で笑うのは人間だけだが、笑い方は人それぞれで、エネルギーが消耗するほど大声で大笑いする人もいるし、小笑いと言うか頬をゆるませるだけの人もおられる。安保先生は人の顔には笑顔を作るための表情筋が36本あるが、年をとるにつれて表情が乏しくなるので、日ごろから唇の端を意識して上げて、口元をニッコリとする練習を薦めていた。カラスの鳴かない日があっても、テレビで手をたたきながら笑ってる番組を見ない日はない、出演者の性格にもよるが、大げさに笑って見せることで番組の雰囲気を盛り上げているのであろう。笑いも色々

  • タクシー業界

    全国のタクシー運転手の平均年齢が令和3年の調査によると60,3歳と高齢化していると言う。確かに日頃スーパーと通院でタクシーを利用しているが若い運転手に出会ったことは無い。運転免許返納してから1年以上になるので、タクシー運転手とも顔馴染みになり、話好き運転手に出会うと短時間の乗車だが、会話が飛び交い、タクシー業界の現状を知ることもある。祝日の9月23日、何時ものように買い物のためタクシーを頼んだが、行きは30分待ち、帰りは1時間待ちとなった。お彼岸でお墓参りで混んでいるのだろうと思っていたが。運転手に尋ねたら、タクシー利用者の殆どは高齢者の通院に利用するのが実態なので、病院の休診日である日曜祝日は、会社は経営上から運転手を半分にするそうで、以後は日曜祝日は買い物は控えてる。タクシー業界

  • 今年の夏は

    暑中見舞い、残暑見舞い、極暑見舞いをメールし合った今年の夏も、「暑さ寒さも彼岸まで」の慣用句のとおり、凌ぎ易くなって、昨夜から夜間のエアコンも途中で停止うするようになった。「辛いこともいずれ時期が来れば去っていく」という意味の諺としても用いられている、低体温のためか、寒さに弱いが、暑さに弱音を吐くことのない爺も、今年は辛かった。確かに年を取ってからは、普段は朝茶と食後の白湯を飲む以外の水分を取ることは殆ど無いが、今年だけは当局からの指示通りエアコン、扇風機の使用、こまめに水分補給を続けた。植えてから20年ほどになる我が家のイチジクも今年は夏バテしてしまった。毎年老夫婦だけでは食べきれないほど収穫で、ご近所の親しい方々にお裾分けしていたのも、今年はお詫びを。今年の夏は

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