三浦雄一郎さんが世界最高峰のエベレスト登頂に成功した。
ただただ驚愕敬服している。
80歳の人間がエベレストに登るということのとてつもなさは、たとえば、サッカーで言えば、ペレ(72歳)がブラジル代表に招集されてゴールを決めたぐらいな話に匹敵する。野球になぞらえて言うなら、王貞治氏(73歳)が突如現役に復帰して、巨人軍の四番として打席に立って、なんと本塁打をかっ飛ばしましたという感じだろうか。いずれにしても、筆舌に尽くすことのかなわない、人類史に残る快挙だと思う。
もっとも、登山は、野球やサッカーに比べれば、年齢によって競技力が減退することの少ない営為ではある。それゆえ、この分野では、40代の登山家が20代の若者を圧倒することもそんなに珍しくない。おそらく、瞬発的な筋力や心肺能力よりも、経験値と忍耐力がより大きな意味を持つ世界だからなのであろう。
とはいえ、80歳でのエベレスト登頂は、それでもやはり、想像を絶する偉業だ。
30代の男盛りであっても、あの山を登り切ることのできる人間は本当に限られている。日本中を探して歩いてもたぶん十指に満たないはずだ。ということは、山岳競技に世界選手権があったら、三浦雄一郎選手は、齢八十にして日本代表に選出されることになる。そう考えてみると、今回の三浦雄一郎氏の登頂は、かえすがえすも、真に奇跡的な壮挙なのである。
今回は、山について書こうと思う。
山を愛する皆さんや、登山の専門家には、あらかじめ謝っておく。私の山岳経験は、ずっと昔の、ごく狭い範囲の往復運動に限られている。のみならず、私の登山観は、おそらく、かなり偏っている。
それでも、多少とも山に登った経験のある人間は、三浦雄一郎氏の快挙に触発されて、ついつい、山について、生意気を言いたくなってしまう。山には、そういう力がある。なんというのか、これまで、先人が「山は……」「山とは……」と、ハマらない定義を繰り返してきた作業の後追いをしたくなるのだ。
「山は」
という主語の後ろに連なる言葉は、多くの場合意味を為さない。
「人生は」
の後段と同じで、「その思いあまりて言葉足らず」という仕儀に陥る。
それでも、人は、山についてあれこれ断定的なことを言いたくなる。
それだけ、謎が深いということだ。
エベレストを最初に征服したのは、公式には、1953年に初登頂を果たしたエドモンド・ヒラリー卿(と、シェルパのテンジン氏)ということになっている。
しかしながら、そのはるか以前の1920年代に、エベレストの頂上に立った人物がいるという説を唱えている人々がいる。
真偽はわからない。というのも、登頂を果たした(はずの)ジョージ・マロリー卿は、山頂付近で遭難して、帰らぬ人になってしまったからだ。
ともかく、マロリー氏は、二十世紀のはじめに、未踏峰であったエベレストに何度か挑み、最終的に、その山頂で消息を絶つに至った人物だった。
そのマロリー卿が、ある時
「どうして山に登るのですか」
と尋ねられた。
この問いに対する言葉が、歴史に残っていて、いまでも時々引用される。
「そこに山があるからだ」
と、彼は答えた。
この回答もまた、現在では、実際にこの通りであったのかどうか、疑われている。
この時代によくあった、記者の創作ではないか、というのだ。
たしかに、創作だった可能性はある。
でもまあ、似た意味のことを、マロリー卿はどこかで言ったのだと思う。つまり、
「山に登る人間にその理由を尋ねるのは愚かなことだよ」
という内容を含んだ言葉を、彼は記者に向かって言ったはずなのだ。
そんな中で、
「そこに山があるからだ」
という言い方が、レトリックとして素敵だったので、記事に採用されたのである。
「どうして結婚したのですか?」
という問いかけに対して
「そこに女がいたからだ」
と答えることは、素敵な修辞法とは言えない。
「どうして原稿を書くのですか?」
「そこに原稿料があるからだ」
これはさらにひどい。ミもフタも無い。
しかしながら、
「そこに山があるからだ」
は、やはり、依然として、魅力的な回答だ。
なんとなれば、山に登ることは、山に登る以外の目的を持っていないという意味で、そのほかの、人間が取り組むあらゆる作業に比べて、最も純粋な意味で、無意味だからだ。
登山は、目的と手段が一致している。
そこに、この稀有な娯楽の真骨頂がある。
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