先日来、待機児童の問題が各方面で議論を呼んでいる折も折、4月に開園予定だった私立の認可保育園の計画が、住民の反対で開園中止になったケースが新聞に取り上げられた(こちら)。

 保育園の開園断念が話題になる少し前に、先月の30日から放送されていた日清食品「カップヌードル リッチ」の新CM「OBAKA’s UNIVERSITY」シリーズの第一弾が、視聴者からの苦情を受けて放送中止に追い込まれたというニュースがあった(こちら)。

 問題となったのは、出演者の一人、矢口真里(33)が、「二兎を追うものは一兎をも得ず」などと、自らの不倫騒動をネタにした部分だったようで、日清食品の担当者は、視聴者から「不倫や虚偽を擁護している」との声が数多く寄せられたと説明している。

 今回は、この二つのニュースを考えてみたい。

 発端から考えれば、二つの事件は、別の出来事だ。が、「苦情」を寄せる人々と、それに対応する組織なり人間の間で起こったやりとりという点では、共通している。

 で、二つ並べて比較検討した方が、双方の事件を別々に考えるよりは、得るところが大きいのではなかろうかと考えた次第だ。無論、うまくいかない可能性はある。その時はその時だ。うまく処理できなかった場合、二つの別々の話題の間に広がる違和感が、二つの問題のそれぞれの特徴を際立たせる結果を招くはずで、それはそれで一興だろう。

 子供の声が「騒音」であるのかどうかについての議論は、いまにはじまったものではない。

 生活音や近隣騒音をめぐるトラブルは、20世紀の半ば過ぎから連綿と繰り返されてきた地域社会における定番の揉め事だった。

 もっとも、最近は騒音の話題が出ると
「昔の日本人はみんな我慢したものだ」
 と言い張る人たちが大量に現れて、議論を紛糾させることになっている。

 この人たちの言い分には、一面の真理が含まれている。
 かつて、私たちの国には、町中に子供が溢れかえっていた時代があり、その、高度成長期と呼ばれていた当時の日本は、現代に比べて、住宅の壁が薄く、プライバシー感覚が希薄だった時代で、それゆえ、その当時のわが国の社会では、多少の生活騒音や、まして子供の歓声などは、ほとんど問題にされなかったということだ。

 昭和の騒音問題は、よりハードでストレートだった。

 具体的には、スクラップ工場のプレス機が生み出す不規則な破壊音や、鉄工所のグラインダーから発せられる高周波を含む金属性ノイズの物理的な音圧が話題の中心だったわけで、犬が鳴くとか鳥がさえずるとか子供が歌うといったタイプの音を気にする人間は、むしろ「大丈夫ですか?」と、精神の健康を訝られたものなのである。

 私が生まれ育ったあたりは、町工場と住宅が混在する地域だった。川を一本隔てた川口市に行けば、混在どころか、工場街の中に住宅が散在する景色が展開されていた。

 その川口市の、いまでは閑静な住宅街になっている一角には、ほんの数年前まで、
「このあたりは、もともと工場街で、住宅が建つようになったのは最近のことです。後からこの地域にやってきた人たちには、多少の工場騒音は受忍していただかなければなりません」
 という意味の貼り紙が掲示してあった。私は、自転車で通りかかる度に、その断固たる調子の貼り紙の文言に感服したものだった。

 ともあれ、そういう地域では、20年ほど前までは、文字通りに耳を聾するデシベル値を備えた音以外は、「騒音」とはみなされていなかった。

 小さな木工所を経営していた私の実家も、それなりの騒音源だった。
 が、苦情が来た記憶は無い。
 作業所のだるまストーブから出る煙が、洗濯物にかかるという苦情が寄せられるようになったのは、近所にマンションが建設された1970年代以降の話だ。

 それからしばらく、私の父親は、1990年代のはじめ頃まで、同じ場所で仕事をしていたが、晩年は、あまり機械を回さなくなっていた。

 おそらく、いまのこの時代に、現在実家のある場所で、当時と同じ機械を動かして木工所を運営することは不可能だと思う。
 近隣の人々の騒音への感覚や耐性もすっかり違ってしまっているだろうし、それ以前に、地域社会のつきあい方自体が、昭和の時代とは大きき様変わりしている。

 いずれにせよ、21世紀の現代を生きているわれわれが抱いている静けさや清潔さへの要求水準を、いきなりであれ徐々にであれ、40年前の昭和の感覚に戻すことは不可能だ。

 暗い夜や遅い列車や石油の匂いのする食パンに戻れないのと同じように、私たちは、昭和の場末の街路に蔓延していた喧騒や猥雑さの中に戻ることはできない。そういう場所でくつろぐことができた私たちは、はるか昔に、死んでしまったのだ。

 とすれば、高度成長期までは、街の風物詩のひとつとして許容されていた子供の歓声や野犬の遠吠えが、「騒音」として取り沙汰されるのも、仕方のないなりゆきと考えなければならない。

 問題は、あるレベルを超えた幼児の声が、それを日常的に聞かされなければならない人々にとって「騒音」なのだとして、では、その「騒音」を穏便に処理するために、自治体なり国なりが、どのような対策を講じれば良いのかということだ。

 騒音源である保育所と、騒音の被害を訴える地域住民の、いずれか一方を悪者に仕立てあげて片付けるような立論は、おそらく、問題の解決には貢献しない。

 この種の問題は、個々のケースごとに特殊事情をかかえている。問題を解決するためには、現地に行って、それぞれの騒音の実態と地域の人々の関係を仔細かつ丁寧に検討しなければならない。

 この際、有害なのは、当事者同士の個別のやりとりとは無縁な、ネット上で議論の行方を眺めている人たちの思惑が問題の方向に影響を与えてしまうことだ。

 市川市のケースにも、既に様々な意見が押し寄せているようだ。
 それらの「声」が、単に「声」として鳴り響くだけで、じきに風の中に消えて行くのであれば良いのだが、インターネットが普及して以来、この種の、傍観者の声は、簡単には消えない設定になっている。

 で、簡単に消えずに、結果として圧力を獲得することになった「声」は、どうかすると、行政を動かし、決定をくつがえしてしまう。

 五輪のエンブレムが白紙に戻ったのも、不特定多数の「声」の力だった。

 たとえば、さる海辺の町で観光客誘致のためのポスターが制作され、何かの拍子にそのポスターがネット上に晒されると、どこからともなくそのデザインがけしからんという声が上がる。でもって、その声が一定の圧力を獲得し、反響が反響を呼ぶ。と、こうなってしまうと、ポスターの真ん中でポーズを取っている萌アニメの女の子の運命は既に危うい。せっかく作ったポスターは関係者の陳謝の声とともに撤回され、イラスト入りのパンフレット数千部はその場で廃棄処分されることになる。

 私が、今回、保育園の開園断念の話題に、あえてCM放送中止の話題をぶつけてみようと考えたのは、この二つの苦情をめぐる事件が似ているからというよりは、よく似ているように見える二つの話題の背景に、まったく別の相貌が見えた気がしたからだ。

 保育園の騒音問題は、騒音を聞かされることになる近隣住民にとっても、保育園の開園を阻止されることになる待機児童ならびにその家族にとっても、切実な問題だ。

 保育園の立地による騒音や、交通の阻害や、土地価格の低下を懸念する住民の感情は、当事者としての切実な被害感情である一方で、エゴでもある。

 他方、とにかく保育園を開園して子供を受けいれてほしいと願う親の気持ちも、エゴと言えばエゴではある。

 ここで、エゴだからいけないとか、エゴは捨てろとか、そういうことを言ってはダメだ。
 相互に排除し合う関係にある複数の利害なりエゴなり感情なりについて、なんとか折り合いをつけられる地点を見つけるべく、双方が努力をしないといけない。

 別の言い方をすれば、当事者同士が、話し合い、利害を調整し合い、妥協点を探り合っている限り、解決への道は必ず見いだせるはずだということでもある。

 ところが、当事者でない人間が、イデオロギーや、政治的思惑や、固有の美意識を持ち込んで他人の問題にかかわるようになると、問題は奇妙な形に歪められることになる。

 その典型が、カップヌードルのケースだと思う。
 あのCMには、被害者も加害者もいない。
 当事者間で争っているような問題はひとつも発生していない。

 強いてあげるなら、かつて自分の配偶者に婚外交渉を実行された立場である矢口真里さんの元夫が、唯一の被害者といえば被害者に相当するわけだが、その彼の被害は、何年も前に離婚という形で落着している。矢口自身も、既に離婚し、それ以外にも様々な社会的制裁を受けている。

 つまり、日清食品のCMに寄せられた「苦情」は、保育園に寄せられた「苦情」とは、まったく性質を異にしているということだ。

 保育園に寄せられる苦情は、市川のケースでもほかの町中の保育園のケースでも、現実に物理的なノイズとしての幼児の歓声を毎日聞かされている人間の、実際の被害に即した苦情だ。

 ところが、日清食品に「不快感」を訴えた人々の苦情は、テレビ視聴者が抱く通りすがりのものに過ぎない。

 自分たちが団結して発信したネット発の苦情圧力の力で芸能界から排除したタレントが、またぞろ活動を再開することが不快だと彼らは感じたのかもしれないが、そんな自分勝手で残酷な不快感にどこに一体正当性があるというのだろうか。

 21世紀にはいってからこっち、この種の問題(つまり「炎上案件」ということ)は、当事者の意見や立場とは無関係に、野次馬や外部の圧力団体の思惑に動かされがちになっている点で、マトモな解決が難しくなっている。

 というよりも、多くのケースにおいて、問題に対処しなければならない立場の人間が、圧倒的なノイズとして押し寄せる苦情メールに辟易して、事なかれ主義の結論を選ぶ結末が常態化している。

 そろそろ、ネット炎上対策を専門とする法律事務所なり企業なりがビジネスを始めるべき時期だと思うのだが、それも簡単ではないのだろう。多勢に無勢というのか、バーチャルな火事場では、より偏執的でより声のデカい、しかもその場に居ない人間が勝利をおさめることになっている。当事者に勝ち目は無い。

 もうひとつ、このタイプの「複数の集団の利害が対立している問題」が俎上に上げられる度に思うのは、双方を悪者にして何かを言ったつもりになる傍観者が、結局のところ“漁夫の利”を得ることになる、わが国における議論の不毛さについてだ。

 どういうことなのかというと、ほかならぬ自分の利害に立脚してものを言っている当事者よりも、傍観者の立場からきれいごとを並べにかかる人間の理屈の方が、説得力を持って響いてしまいがちだということで、このことは、私たちが、欲得ずくの本音よりも、「お互い様」だの「譲り合い」だの「寄り添う」だの「おもてなし」だのといった、空疎な建前を掲げて思考停止することの方を好む、惰弱な国民だということでもある。

 権利を主張する「個人」よりも、全体に埋没する「人」であれ、というわけだ。

 この種のもめごとが報道される度に、
「権利を主張する人間は醜い」
「個人主義が日本を悪くしている」
 という方向に議論を誘導する空気が自然発生するのもその表れで、毎度毎度うんざりさせられる。

 これは、自民党の憲法草案(こちら)が、「公共の福祉」という文言を「公益及び公の秩序」に置き換えようとしていることにも通底しているお話で、要するに、ある世代から上の日本人の多くは、どうやら「権利」という言葉や考え方を根本的に嫌っているということなのだ。(第三章 国民の権利及び義務 第十二条、第十三条、第二十九条の2)

 自民党は、「基本的人権が制限されるのは、ほかの基本的人権との間で、利害の衝突が発生しているケースに限られる」という思想を含む、「公共の福祉」という概念を、「個人の人権は、公益や公の秩序を損なわない範囲でのみ認められる」→「公の秩序ならびに公益は、個人の人権に優先する」という思想を体現した「公益ならびに公の秩序」という言い方に改変しようとしているわけで、これは、実に油断のならぬポイントだ。

 で、個人的には、9条の改正より、むしろこっちの方が致命的だと考える次第なのだが、ここで自民党の憲法草案をもう一度読んでみると、「個人として尊重される」という言葉が、「人として尊重される」に置き換えられているではないか。(第三章 第十三条)

 個人的には、この点が一番無念だ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

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