東京など7つの都府県に緊急事態宣言が出された。
このたびの緊急事態に関しては、気になることがあまりにも多すぎる。言及しておきたい論点をすべてチェックしにかかると、間違いなく支離滅裂な原稿になる。
なので、当稿では、当面、最も大切に思えるポイントだけを、なるべく簡潔に書くよう心がけたいと思っている。
緊急事態宣言が出されたのは、4月7日の夕刻だった。
それが、翌日の8日には、はやくもほころびはじめている。
「どこが緊急なんだ?」
と思わざるを得ない。
共同通信が伝えているところによれば、西村康稔経済再生担当大臣は、4月8日、7都府県知事とのテレビ会談の席で、休業要請を2週間程度見送るよう打診したことになっている。
ん?
休業要請を見送ってほしい、だと?
どうしてだ?
なぜ、そんな話になるんだ?
大臣はいかなる根拠から2週間の猶予が必要であると判断したのだろうか。
意味がわからない。
そもそも、緊急事態宣言を出したのはお国だ。
休業要請は、その、政府による「緊急事態宣言」のメインの内容というのか、宣言の柱に当たる施策であるはずだ。
それを、どうして一日もたたないうちに、いきなり撤回しにかかっているのだろうか。
思うに、お国が都府県による各業界への休業要請を阻止したがっている理由は、小池百合子都知事をはじめとする複数の知事が、住民に向けて「休業要請と損失補償がセットである」旨をアナウンスしたからだ。
つまり、政府としては、7都府県の住民に対して休業中の損失補償をせねばならなくなる事態を避けたかった。そう考えないと説明がつかない。
とすると、この先少なくとも2週間ほどは「補償を伴わない休業要請」がやんわりと展開されることになる。と、これまでに各自治体が発令してきた「自粛要請」なる摩訶不思議なお願いが、引き続き連呼され続けることになる。ということはつまり、何にも変わらないわけだ。
ちなみに解説しておくと、「自粛要請」というこの政策用語は、日本語として明らかに破綻している。その意味で、政治家はもとより、行政にかかわる官僚が国民に対して使って良い言葉ではない。
というのも「自粛」は、そもそも自粛をする当人の判断でおこなわれるべき行動で、本人以外の人間の判断が介在したら、それは「自粛」ではないからだ。であるからして、当然、「自粛」は、他人(もちろん政府であっても)が自分以外の人間(つまり国民)に対して「要請」できるものではない。
「自粛」が「要請」できるのであれば、「自殺」も「要求」できることになる。とすると、「依願退職」すら「命令」可能で、このほか、喜怒哀楽や真善美を含めてすべての感情や判断や評価は、他人のコントロール下に入ることになる。と、料理を提供する側が舌鼓乱打要請を提出したり、演奏家が感動要求を持ち出したり、コラムニストが目からウロコ剥落申請を示唆するみたいなことが頻発する世の中がやってくる。こんな無茶な日本語を政府が使っていること自体、あり得ない不見識なのである。
さて、政府が、「補償とセット」として扱われる「休業要請」を、「自粛要請」という言語詐術の次元に後退させなければならなかった理由は、おそらく「政府」の立場が必ずしも一枚岩ではないからだ。
一言で「政府」と言っても、その内実は、さまざまな立場や部署や役割に分かれている。なるべく広範な「補償」を配布したいと考える部門の人々もいれば、無駄な支出を抑制することが役目であるような人々もいる。であるから、「政府」の総体としては、「休業によって経済的に困窮する国民の生活を補償」しつつ、その一方で「巨額の支出でお国の経済が傾く」ことは極力回避せねばならないわけで、彼らは、常にいくつかの相反する思惑に引き裂かれているわけなのである。
まあ、ここまでのところはわかる。
補償を実現したいのはヤマヤマだが財源を考えると二の足を踏む、と、お役人の発想では、どうしてもそういったあたりを行ったり来たりすることになっている。
だからこそ、政治家の決断で、時には、思い切った緊急の政策を打ち出さなければいけない。それが政治決断と呼ばれているものであるはずだ。
個人的には、赤字国債を発行するとか現金を余計に印刷するとかして財源を確保しつつ、とにかくこの急場をしのぐのが第一の選択なのではなかろうかと思っている。
現金を大量にばら撒けば、当然、それなりの副作用もあるのだろうが、それをしなかった場合の経済の落ち込みを考えれば、広く国民に当座の現金を給付する政策は、景気浮揚策としても好ましい効果を発揮するはずだ。
ところが、西村新型コロナウイルス対策担当大臣は、休業補償をすんなりと約束しようとしない。
「2週間待ってくれ」
と、この期に及んで極めてヌルい緊急事態対応を打ち出している。
なぜなのか。
こんなことが起こってしまっている原因の一半は、おそらく、西村新型コロナ対策担当大臣が、経済再生担当大臣でもあれば、全世代型社会保障改革担当大臣でもあるという、不可思議な事情に関連している。
ん?
これは、いったいどういうことなのだろうか。
片方の手で新型コロナウイルス対策のための思い切った施策を打ち出さなければならない担当大臣が、もう一方の手で、経済再生のことをあれこれ考えて慎重な財源管理を考慮せねばならないのだとしたら、これは、世間でよく言われている「利益相反」ということになるのではないのか?
そうでなくても、大臣はダブルバインドの中で、にっちもさっちも行かなくなるはずだ。
たとえばの話、プロ野球の球団で、打撃コーチがボールボーイを兼任していたりしたら、そんなファールゾーンに転がっているボールを拾って歩いているみたいなコーチの助言に、いったい誰が本気で耳を傾けるというのだ?
西村大臣の苦衷は理解できる。
新型コロナ対策担当大臣としては、財源を度外視してでもなんとかして思い切った救済策を打ち出したいはずだ。
一方、経済再生担当大臣としては、目先の対策のために野放図な支出をする計画には絶対に反対せねばならない。
とすると、彼自身、どうして良いのやら判断がつかなくなる。それがマトモな反応というものだ。
責任は、西村大臣にはない。
このバカげた状況の責任は、経済再生担当大臣に新型コロナ対策担当大臣を兼任させるような、たわけた人事を敢行した政権中枢に求めなければならない。
あるいは、経済再生担当大臣として活躍している大臣に、このたびの新型コロナ対策の采配を委ねた時点で、首相は、本気でこの事態に対処する気持ちを持っていなかったということなのかもしれない。
単に手が空いてそうな大臣にケツを持って行ったのか、それとも、あえて全力でウイルス対策に取り組むことのできない立場の大臣を担当に持ってくることで、カネをケチろうと考えたのか、どっちにしてもあまりにも不誠実な判断だったと申し上げなければならない。
さて、自治体から各業界に向けての休業要請が2週間先延ばしにされたことで、何が起こるのかを考えてみよう。
いや、考えるまでもないことだ。お国や自治体から休業補償を約束されていない状況下で、休業を余儀なくされた人々は必ずや腹を立てる。これは、人間として当然の反応でもあれば、生物としての必然でもある。
で、腹を立てた結果どういう行動に出るのか。
私だったら、自暴自棄になるか、そうでない場合、無気力に陥るだろう。
どっちにしても、ろくなことにはならない。
おとなしいと言われている私以外の平均的な日本人とて、永遠におとなしいわけではない。
休業補償が行き届かない状況下で収入減を強いられた多くの日本人は、おそらく、なんとかして働こうとするはずだ。休業要請を強いられていようが外出自粛を促されていようがおかまいなく、だ。
緊急事態宣言は、追い詰められた人々の耳には届かない。
なんとなれば、今日明日の食い扶持に困る事態に追い込まれた人間にとって、現段階では8割が軽症で済むと言われているウイルス感染なんかより、貯金が底をつくことのほうがずっと恐ろしい身に迫る恐怖だからだ。
私にも経験のあることだが、貧乏は人間のメンタルを削る。このことは何度強調しても足りない。最低限の貯金を持っていない人間は、最低限の良心を持ちこたえることができなくなる。さらに、ある程度以上の借金を抱えた人間は、カネのことしか考えられなくなる。つまり、貧困に陥った人間は、事実上思考力を失う。
もちろん、気力も失うし希望も持たなくなる。
カネがほしいということ以外はほとんどひとつも考えられなくなる。
そういう人間がどういう行動に出るのかは明らかだ。当たり前の話だが、彼らはカネを求めて街をさまよい歩く。
ウイルス?
そんなものはまるで問題じゃない。
病気で死ぬことをほのめかされても、まるで恐ろしいとは思えない。オレは現実にいま死ぬことよりもキツい貧乏に苦しんでいる。それに比べればウイルス感染なんてファンタジーでしかない。オレは少しも恐ろしくない。正直なところを述べるに、他人に感染させることもこわいとは思えない。どちらかと言えばざまあみろと考える。ほめられた考え方でないことはわかっている。でも、いまのオレには別の考え方はできない。オレをマトモな人間に戻したいのなら、とにかくカネをつかませてくれ。カネさえあれば、マトモな良心を取り戻せるかもしれない。話はその後だ。
と、政府が給付策を誤れば、こういう人たちが数十万人単位で街に溢れ出ることになる。
テレビ画面の中に出てくるきれいに着飾ったキャスターのみなさんたちは、先日来、ことあるごとに
「私たちひとりひとりが自覚を持って」
といった感じの素敵なご発言を繰り返している。
安倍総理ご自身も、先日のテレビ演説の中で
「自分は感染者かもしれないという意識を持って行動していただきたい」
という旨の言葉を発信していた。
私は、それらの言葉を片耳で聞きながら、はるか半世紀ほど昔、中学校の生徒だった時代に
「ひとりひとりが◯◯中学を代表する生徒としての意識を持って……」
という担任教諭の説教を
「うるせえばか」
と思いながら聞き流していた時の気持ちを、ありありと思い出していた。
「ひとりひとりが◯◯の意識を持って」
というのは、指導的な立場に立つことになった日本人が必ず持ち出しにかかる話型で、これを言っている人間は、多くのケースにおいて、人間の集団を教導している自分の権力の作用に酩酊している。
彼らは、自分の言葉に耳を傾けている有象無象を、羊の群れ程度にしか考えていない。だからこそ
「ひとりひとりが」
などという人を人とも思わない調子ぶっこいた忠告を撒き散らすことができるのだ。
さてしかしところがどっこい、演説を聞かされている側の人間たちが、永遠に羊の群れを演じてくれるのかというと必ずしもそうは行かない。何割かは狼に変貌する。実態がどうかはともかく、狼の気持ちで話を聞いている人間が必ず現れる。少なくとも中学時代の私はそういう生徒だった。
何が言いたいのかを具体的に説明しておく。
つまり、休業補償も約束されずに、現金給付には煩雑な条件をつけられている中で、
「ひとりひとりの自覚」
だの
「自分が感染者かもしれないという意識」
だのという、おためごかしの説教を浴びせられる状況がこの先何カ月も続くのであれば、いかにおとなしい日本人といえども、いずれは暴発するということだ。
政権中枢に座を占めている人間たちは、日本人を、どこまでもおとなしくて品行方正な我慢強い国民であると思っていたいのだろう。
われら日本人が、戦後からこっちの80年ほどの期間を、突然の収入減を耐え忍び、外出禁止要請を受け入れ、貧困にも生活苦にも文句を言わずに、感染したらしたで四方八方に謝罪してまわり、感染しなかったらしなかったで一日中びくびくして左右のソーシャルディスタンスを30秒ごとに測定しているタイプのいとも統治しやすい国民であったのは、われわれが、右肩あがりの社会の中で暮らす希望を持った人々であったからだ。
未来に希望が持てない場所で、貧困を余儀なくされているのであれば、われわれとてそうそういつまでもおとなしくしてはいない。
政府の中の人たちは、現金給付の金額やタイミングを、単に景気対策の一環として考えているのかもしれない。
私はそう思っていない。
新型コロナ対策担当大臣ならびに内閣総理大臣閣下には、現金給付が、現状におけるほとんど唯一の治安対策である旨を、この場を借りてあらためてお伝えしておきたい。
一億人の人間が何カ月もおとなしく家の中に引きこもっていると思ったら大間違いだ。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
延々と続く無責任体制の空気はいつから始まった?
現状肯定の圧力に抗して5年間
「これはおかしい」と、声を上げ続けたコラムの集大成
「ア・ピース・オブ・警句」が書籍化です!
同じタイプの出来事が酔っぱらいのデジャブみたいに反復してきたこの5年の間に、自分が、五輪と政権に関しての細かいあれこれを、それこそ空気のようにほとんどすべて忘れている。
私たちはあまりにもよく似た事件の繰り返しに慣らされて、感覚を鈍磨させられてきた。
それが日本の私たちの、この5年間だった。
まとめて読んでみて、そのことがはじめてわかる。
別の言い方をすれば、私たちは、自分たちがいかに狂っていたのかを、その狂気の勤勉な記録者であったこの5年間のオダジマに教えてもらうという、得難い経験を本書から得ることになるわけだ。
ぜひ、読んで、ご自身の記憶の消えっぷりを確認してみてほしい。(まえがきより)
人気連載「ア・ピース・オブ・警句」の5年間の集大成、3月16日、満を持して刊行。
3月20日にはミシマ社さんから『小田嶋隆のコラムの切り口』も刊行されます。
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。