健康社会学者の河合薫氏が、サッカー日本代表を史上初のワールドカップ(W杯)本選出場へと導いたことで知られる岡田武史氏(今治.夢スポーツ代表取締役会長、サッカー日本代表元監督)をゲストに迎えた対談「絶望を夢に変える昭和おじさんの条件」の第2回をお届けします。記事の最終ページでは対談動画をご覧いただけます。

※本記事は、対談の模様を編集してまとめたものです(構成・安倍俊廣)。

河合薫氏(以下、河合):岡田さんは講演をたくさんされていて、経営者からも人気が高く、何人もの経営者が「岡田さんは頭が良い」とおっしゃるのを聞きました。私の感覚では、経営者が頭が良いと褒める時は「俺たちはかなわないな」というか、「あっぱれ」みたいなニュアンスがある気がします。

岡田武史氏(以下、岡田):それはうれしいですね。今は経営もやっていますから。

河合:(Jリーグに加盟している)FC今治のオーナーですよね。

日本の企業経営はすごく難しい

岡田:肩書はオーナーですけど、今は会社の株式を51%(以上)持っているわけではないので、本来の意味でのオーナーではありません。最初は本当のオーナーでしたが、スタジアムを建てるために増資をして筆頭株主ではなくなりました。ただ今もみんながオーナーと呼ぶので、「じゃあ、オーナーでいいよ」と。

河合:岡田さんが経営者になったと聞いた時は、ちょっとびっくりしましたが、よく考えたら監督も経営者も同じかなと。ともにリーダーとしての哲学や、どういう組織にするのかという明確な思いが必要ですし、全てのメンバーを輝かせてこそ、唯一無二の“宝石箱”のような組織が出来上がる。やるべきことはすごく似ています。

岡田:僕がマネジメントしているのはプロのサッカーチームですから、欧米企業と同じように出口のプレッシャーがあります。

河合:出口のプレッシャー、ですか。

岡田:いくら「いいぞ、そのまま頑張れ」と言われていても、結果が出ないとクビになる。人が成長するのは困難を乗り越えたり、プレッシャーがあったりする時です。例えば筋力を付けようと思ったら、重いものを持たないといけない。

 欧米の企業には、結果を出せなかったらクビになるというプレッシャーがものすごくありますが、日本の企業にはそうしたプレッシャーが少ないように感じるし、プレッシャーを与え過ぎるとパワハラと言われてしまう。だから日本の企業経営は難しい。褒めるだけではやはりダメで、社員に自力を付けさせて、はい上がってくるようなマネジメントをしないといけない。ではどうするかといったら、もう対話しかないわけです。

岡田武史氏
今治.夢スポーツ代表取締役会長、サッカー日本代表元監督
1956年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、古河電気工業に入社しサッカー日本代表に選出される。引退後は、クラブチームコーチを務め、97年に日本代表監督となり史上初のW杯本選出場を実現。その後、Jリーグのコンサドーレ札幌や横浜F・マリノスでの監督を経て、2007年から再び日本代表監督を務め、10年のW杯南アフリカ大会でチームをベスト16に導く。中国サッカー・スーパーリーグ、杭州緑城の監督を経て、14年11月に四国リーグ(現在J3所属)FC今治のオーナーに就任。日本サッカー界の「育成改革」、そして「地方創生」に情熱を注いでいる。

岡田:これが大変で手間も掛かるのですが、対話を繰り返していくことでしか自分事化はできない。(自律型組織の)「ティール」とか(フラット型組織の)「ホラクラシー」など色々な組織形態が話題になっていますが、要はみんながやるべきことを自分事化できると、ものすごく力を発揮するということです。

 

未来を見据えた育成をする必要がある

河合:岡田さんが監督をされていた時、選手に求めたのは主体性だそうですが、それは自分事化と同じですよね。そうした監督時代の経験が、経営者としても役立っているのですか。

岡田:そうですね。監督と経営者は共通項がたくさんあります。 それとともに24年4月に、FC今治高等学校を開校しますが、サッカーの学校ではありません。実学など中心の新しい教育をする学校です。

 僕は40年くらい地球環境の問題について色々とやってきたのですが、今の地球は閾値(いきち)を超えてしまったという感覚があります。かつての古き良き環境には戻れないし、ロールモデルもない社会が来ると考えるようになりました。AI(人工知能)やICT(情報通信技術)などが発達し、シンギュラリティー(特異点)ももうすぐ来る。今まであった仕事がなくなる一方、何がフェイクで何が本当かも分からなくなる。私たちがこれまで生きてきた社会が劇的に変わろうとしています。

 そうした状況だからこそ、社会に出る準備として、教育が極めて重要になっています。僕自身、自分が学校教育に関わるとは思っていなかったのですが、ひょんなきっかけで声を掛けられた。

 そして「新しい社会に適応した人間をつくるのにつながる、新しい教育ができるなら」と言ったら「可能だ」と。それでこんな教育をすべきとビジョンを語っていたら、共感してくれた教育関係者含め色々な人が集まってきました。それで引くに引けなくなって、ついに学校を開校することになったのです。

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