前に「型なし証明論」について紹介したので、勢いでもう一つ線形論理を使った哲学の論文を読んで紹介しまっせ。
cut-elimination.hatenablog.com
Paolo Pistone "Rule-Following and the Limits of Formalization: Wittgenstein’s Considerations Through the Lens of Logic"という論文(私が読んだのはもしかしたらプレプリントかもしれない)。
link.springer.com
著者はイタリア出身でいまはフランスにいるらしい。テクニカルな研究をしているが哲学にも精通している模様。
記事のタイトルに「超越論的シンタクス」を掲げたが、本論文では星座などの超越論的シンタクスの概念は登場しない。GoI(相互作用の幾何学)までである。しかし発想は超越論的シンタクス的である。また文中ちらほら「超越論的シンタクス」という語も出てきている。
本論文のテーマは、ウィトゲンシュタインやルイス・キャロルの著作に登場する規則のパラドクスである(クリプキのやつとは違う、と思う)。例えば、
と
から
を導いてよい、というモーダス・ポーネンスの規則を考えよう。なぜ、いかにしてこの規則に従うのかと考えると、
という公理もしくは定理があり、それと
と
という前提から
が導かれるのだ、としたくなる。しかしこの推論にもモーダス・ポーネンスが使われていて、議論は無限後退してしまう。じゃあなぜ我々は規則に従えるのか? とパラドクスになる。
この問題に、前回紹介した文献と同じように、やはり計算、それも相互作用としての計算で挑むのである。規則に従うことが成功するのは、規則を表す論理式の証明と前提=入力とが相互作用し、その相互作用的計算が停止するときと解釈される。
相互作用を定義するにはどうするか。このあたりは前回の文献と同じような議論になる。ただしこの論文はモチベーションがわかりやすい。本論文で明確に説明されているのは、論理式や証明から相互作用を定義するのではなく、相互作用が上手くいくようなものを論理式=型や証明と定義するということである。
ちょっとテクニカルな細部もメモしておく。停止を表す集合
を任意に取る。相互作用演算
も定義しておく。
が型であるのは、
となる
が存在するときである。すなわち、相互作用して停止する相手=テストを使って特徴づけられるものが型である。定義のなかで論理や規則についてなにも前提していないのがポイントである。この定義はテストのテストがもとの集合に含まれるというメリットもある(これは相意味論の「ファクト」の概念と一致している。何故かはわからないが)。このメリットは規則のパラドクスの解決に有用となる。
パラドクスは規則を以下のように説明することで解決する。まず次のように考える。
- 入力はどんなとき規則に従えるのか? 規則の型の証明と入力の型の証明とが相互作用して停止するとき。規則がテストされる。
しかし入力をテストとして信用していいのだろうか?
- ではどういう入力をテストとして信じればいいか? 規則の型の証明と相互作用して停止するようなもの。
議論は無限に循環しているが、後退はしていない。どちらかというと均衡のようなものになっている。また、先述の「テストのテストがもとの集合に含まれる」という性質から、この循環は閉じていることが言える。
ただし著者は、別に複雑性という問題が残るとしている。計算を正当化するためにそれ以上に複雑な議論がいるのではないか。例えばチャーチ数の指数演算の計算には指数スケールの簡約ステップが必要で、これでは問題を還元できていない。
この問題を回避するため、GoIを紹介している(本論文は行列を使ったGoI解釈の具体例が豊富でありがたい。しかしGoIの概念的説明ははしょってあるので、↓のEngさんの博論の5章を参照すべし)。まず線形論理はカット除去=相互作用の複雑さをコントロールできる(構造規則が制限されるので)。さらにGoIは、計算量の上界を、意図した時間・空間スケールに抑えることができる。超越論的シンタクスの今後も複雑性の議論が期待されるらしい。私は計算複雑性の議論は学びたてなので、今後GoIや超越論的シンタクスのそう言った側面も調べたい。Seiller先生がやっているはず。
cut-elimination.hatenablog.com
この論文の議論が正しいかどうか、規則のパラドクスについてもうちょと調べないと解決かどうかわからない。同じような提案はすでにあるかもしれない。
疑問として、計算の実行にも計算規則が必要でやはり無限後退するかも、という点がある。これは計算という概念に関する問題だと思う。