いいじゃんそれで

10年の闇(病み)、旅、考えたこと。人生の物語

2024年ふりかえり・旅編~5月ベトナムにて死す③ みんなにありがとう~

病魔は知らぬ間に忍び寄ってきていた。

①でも書いた通りすでに空港にて伏線は張られていた。

早朝便を待つために、無謀にも冷たい床の上に寝、強がりつつ耐えるも、じわりと芯に染みる寒さだった。
もしかしたら、通常の体調の私であれば大きなダメージを受けずに済んだかもしれない。だが空港泊以前に、おそらく”それ”は始まっていたのだ…。

・実は出発延期していた

ベトナムへの出発1週間前のこと。
仕事をそのあたりで切り上げた私に、謎の風邪が襲った。
38度を超える発熱に、咳とかも出ていたような気がする。

おそらく原因は、会社の社長の家で夕食をご馳走になったこと。
社長には4人の元気すぎる息子たちがいて、彼らがゲホゲホやっていたのだ。だがとんでもなく元気そうだったので、私もたいして気にせず、彼らにチキンを口に突っ込まれたりしつつ、楽しい夕食をごちそうになった。

その1日2日後、私も発症した。
今回の滞在はホテルではなく、半ば下宿のような形になるため、相手方に迷惑が掛からないよう治療に専念したものの、出発前日まで症状は続き、泣く泣く飛行機はキャンセルした。

だがこの機を逃すまいと、下手したら2往復できるんじゃないかと思うほどのビックリ直前価格で、1週間後の飛行機を再予約、そして旅に出たわけだ…。
急いては事を仕損じる、先人は偉大な言葉を残している。その通り!!!

・ついに体調悪化ス。

到着した次の日から、ありがたいことに総理大臣並みのスケジュールで、いろいろな人に会い、いろいろなところに行き、一緒に遊んだり、夕食をごちそうになっていた。

近所の子供たちと村を探検したり、鬼ごっこをしたり、誰のものだか分からない木から採ったマンゴーを一緒に食べたり。
(このあたりの所有権のあいまいさ、緩さがとんでもなく好きだ)

前回も書いた通り、同い年の友達二人に彼らの畑を見せてもらったり、家にお邪魔したり、夕食をごちそうになって、現地で有名なビールを飲みつつ、カラオケをしたり。

彼らの友達の結婚式になぜか出席することになったり、そこできれいな装束に身を包んだ、可愛い女子高生のみなさんとにやにやで写真を撮ったり。
(前回③は結婚式編にするといったが、なんだか面倒くさくなってきたので、またいずれ詳しく書く、かも。ごめんちゃい)

嬉しそうなわたし

結婚式

 

その後はお父さんに連れられ、彼の娘の嫁ぎ先に行って、ビールを飲みまくったり。

今度はご両親一緒に、謎の親戚パーティーに参加させてもらったり。
(いまだに趣旨が分からない。まあ楽しいからいいよな)

ものすごい参加人数

村の高校生と会って、腕相撲したり。

負けた。きっと風邪気味だったからだ

常に誰かと居、あっという間に過ぎた1週間だった。
はじめて一人になった何もないフリーの日は、なんと到着6日目のことだった。みなさま、本当に充実した日々をありがとうございました。

しかし4日目5日目あたりから、徐々に私の体調に陰りが見え始める。

最初は咳だった。だがそれも、有害物質垂れ流し排気ガスのせいだと思っていた。
村では、というかベトナムでは、日本では一発アウトであろう環境負荷ガン無視のトラックやバスが、大量の排気ガスをまき散らし爆走している。
日本で言うところの農作業などに使う軽トラは、指の2,3本簡単にすっ飛ぶような、内部構造むき出しの構造で、やはりというかなんというか、排ガスも日本の軽トラとは比較にならないくらい”濃い”。
そのような排気ガスのせいで、咳が出るのだ、と思い込んでいた。
今思えば、若干の体のだるさも感じていた。ただそれも旅の疲れだろうと思ってしまっていた。

・発熱、そして急激に悪化

5日目あたりから、一応解熱剤を服用しつつ日中活動していたが、
ある朝目を覚ますと、とんでもないだるさと、咳も強烈なものに悪化していた。
鼻水もとめどなく、信じられない量出た。脳が溶け出してきているのではと錯覚するほどの。
おそらく熱は40度近くあったと思う。

確実に普通の風邪ではなかったが、私にできるのは寝ることしかない。
日中の蒸し暑さの中、窓ひとつの小部屋で寝ることは本当に苦しかった。体の内も外も暑く、逃れる場所がなかった。もちろん冷房などはない。汗だくにありながら、うつらうつらと夢と現を行き来した。あまり記憶はない。そしてとにかく鼻をかみまくった。

外も中も私も暑かった


熱のためか食欲もなく、食前に解熱剤を飲んで熱を下げた後に、食事を取っていた。胃が痛くならなかったことが救いだった。

村の子どもたちは毎日のように見舞いに来てくれた。
遊びたかっただけかもしれないが、それでもうれしかった。

おふざけ好きな2人組

せっかく来てくれたのに起き上がれない


下宿先のお母さんは、毎日フォーを買ってきてくれたり、昼食を作ってくれたりした。しまいには、お医者さんまで呼んでくれて(村には医者がいない。バイクにて往診)、診察まで受けさせてくれた。
お医者さんはなぜか私の支払いを拒んだが、ガソリン代とか薬代とかなんとか理由をつけて、一番大きな紙幣を押し付けた。今思えば、お母さんが支払ってくれていたのかもしれない。本当に頭が上がらない。ほんとうにありがとうございました。
帰国後、お母さん向けに、日本の化粧品や、サプリメント、酔い止め薬(村近辺は道路状況が悪く、お母さんは酔いやすいという泣きっ面に蜂状態)などを詰めて送った。9月に再訪したとき、村の子供向けのつもりだったショルダーバッグを、お母さんが嬉しそうに身に着けていたのは笑ったが、気に入ってくれてこっちまでうれしくなった。
(ちなみにお父さんにはアサヒビールを1ケース。日本で一番うまいビールだと思っている)

さて私の謎の風邪は1週間経っても一向に良くならず、
お医者さんが処方してくれた抗生物質も、一時はすごぶる効き、熱も下がったがそれが切れると、また40度近くまで逆戻り。
インフルエンザだろうと1週間も経てば、薬がなかろうが少しは熱も下がったり症状は軽快するだろう。だが私の風邪は発症時も1週間後も変わらず、私の身体を苦しめていた。

お母さんは変わらずいつも笑顔で明るかったが、なんだか顔に疲れが見えるような気がして、それも私が夜半咳をして、それで起こしてしまっているのかなどと考えてしまって、もうこれ以上迷惑をかけたくなかった。
改めてこのように客観的に振り返って書くと、とんでもない疫病神のように思われる。

・帰国、死の淵

私は帰国することにした。
村から最寄りの空港まで向かうのが。またとんでもなく辛かった。
炎天下、バイクの後ろにしがみつき、道路状況の悪い道を1時間近く走った。解熱剤を飲んではいたが、身体はだるく、座っているだけでも苦しかった。送ってくれたラップ、本当にありがとう。

お医者さんにもらった薬を毎食ごとに飲みつつ、日本から持参した解熱剤を6時間ごとに飲みつつ、何とか飛行機に乗り、気づけば深夜1時、父の運転するの車の中だった。両親ともに羽田空港まで迎えに来てくれていた。本当にありがとう。

翌日、かかりつけの内科にかかると、
「肺炎」
であることが確定した。
肺炎に至るまでの病原菌は不明だった。

お医者曰く、「あなたもし若くなかったら、危なかったよ」とのこと。
意識せず、死の淵を覗いてしまっていた。
死にかけてたんだー、とぼーっとする頭で考えた。とても実感はわかなかった。

・みなさん本当にありがとうございました。

実は私は旅行中にしょっちゅう風邪をひく。
はじめての海外旅行でも40度ちかい熱を出したし、2024年9月の旅では1カ月半で2回腹を壊し、3回発熱した。
(心は旅を求めているが、身体はそうではないようだ。悲しい)

それほど重くなく、3日ほどで良くなるものだったら、「旅行中の病気は最悪だが、人の優しさも感じられる。不幸中の幸いだ」とそれほど気兼ねなく言えるが、今回は迷惑の度合いが大きすぎて、申し訳なさしかない。

特に下宿先のお母さん。お母さんがいなければ、確実に私は文字通り死んでいた。本当にありがとうございました。カムウン。
お父さんも私の滞在を許していただいて、本当にありがとうございました。
そのほか、支えてくれたすべての人にありがとうございます。
小説などの謝辞のページの存在理由が今分かった。ここで言っても仕方ないが、言わずにはいられないのだ。

今も目を閉じれば、お母さんのあの笑顔と笑い声が聞こえる。
改めて、何かきれいな洋服でも送ってあげようかな、と思う。