中山忠親
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『天子摂関御影』中山忠親 (忠親公) | |
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
生誕 | 天承元年(1131年) |
死没 | 建久6年3月12日(1195年4月23日) |
改名 | 忠親→静和(法名) |
別名 | 中山内大臣、堀河内大臣 |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 崇徳天皇→近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家花山院家庶流中山家 |
父母 | 父:藤原忠宗、母:藤原家保の娘 |
兄弟 | 藤原忠光、藤原忠雅、忠親、覚成、覚深、三条公行室 |
妻 | 藤原光房の娘、平時忠の娘 |
子 | 親覚、兼宗、忠季、兼季、忠明、雅明、忠輔、覚敒、親慶、覚紹、三条公房室、順徳院女房、宜秋門院御匣 |
中山 忠親(なかやま ただちか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家師実流(花山院家)・藤原忠宗の三男。官位は正二位・内大臣。中山内大臣・堀河内大臣と号した。中山家の始祖。
経歴
[編集]保延6年(1140年)、従五位下となる。蔵人、近衛少将・中将、蔵人頭を歴任。長寛2年(1164年)に参議、仁安2年(1167年)に従三位権中納言、さらに右衛門督・検非違使別当となる。兄・藤原忠雅と同様に平氏一門と親しく、平徳子の中宮権大夫・建礼門院別当として仕えた。後白河法皇の院庁別当にも名を連ね、有職故実に明るく「年来礼儀作法の道を営む、当時頗るその褒(ほまれ)あり」[1]と評された。治承三年の政変では、解官された甥・花山院兼雅に代わって春宮大夫となる。
寿永2年(1183年)正月に正二位・権大納言となるが、同年7月に平氏一門が都落ちした後は昇進が停滞する。文治元年(1185年)12月、源頼朝から有職の公卿であることを評価されて、議奏公卿に推挙された。建久2年(1191年)に内大臣に就任。建久5年(1194年)に出家して静和と号した。翌年3月に薨御。享年65。
晩年には洛東の中山(現在の左京区黒谷町から岡崎周辺)に別宅を構えたことから中山内府(内大臣)の名があり、後の家名ともなった。
官歴
[編集]※日付=旧暦
- 保延6年(1140年)正月6日:従五位下(叡子内親王給)
- 久安5年(1149年)4月9日:左衛門佐
- 久安6年(1150年)5月24日:蔵人
- 久安7年(1151年)
- 仁平2年(1152年)9月9日:正五位下
- 仁平4年(1154年)正月23日:播磨権介
- 久寿2年(1155年)
- 7月23日:蔵人を辞任(近衛天皇崩御)
- 8月25日:蔵人に還任
- 久寿3年(1156年)4月6日:右少将
- 保元2年(1157年)正月24日:尾張権介
- 保元3年(1158年)5月21日:左近衛中将
- 保元4年(1159年)正月6日:従四位上
- 平治2年(1160年)
- 応保2年(1162年)2月19日:中宮権亮(中宮・藤原育子)
- 応保3年(1163年)正月24日:因幡権守兼任
- 長寛2年(1164年)正月21日:参議に補任。左中将・中宮権亮・因幡権守如元
- 仁安2年(1167年)
- 仁安3年(1168年)3月11日:正三位
- 安元2年(1176年)正月3日:従二位(建春門院御給)
- 安元3年(1177年)正月24日:右衛門督。検非違使別当兼帯
- 治承2年(1178年)7月26日:中宮権大夫(中宮・平徳子)
- 治承3年(1179年)
- 治承4年(1180年)
- 養和元年(1181年)11月25日:建礼門院別当
- 寿永元年(1182年)10月3日:中納言
- 寿永2年(1183年)正月22日:権大納言
- 文治5年(1189年)7月10日:大納言
- 建久2年(1191年)3月28日:内大臣
- 建久5年(1194年)
- 7月26日:内大臣を辞任
- 12月15日:出家
系譜
[編集]脚注
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