傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

「いろいろ」を生やす

 年始はあんまり人気ないんですよ。だから年明けの日程が最速ですね。
 そう言われた。簡単な手術を受けることになり、その予約を取ったときのことである。
 簡単でも手術は手術なので、前後に生活の制限が発生する。年末年始は帰省や旅行で遠方に行ったり、つきあいの席があったりするので、それが制限される日程は人気がないのだそうである。命に別状がなく緊急性の低い病気の、(医師いわく)よくおこなわれる手術だから、受けるほうも生活への支障が少ない日程を選びたがるのだろう。
 これは病気かも、と思ったとき、わたしは症状のあらわれかたを時系列にまとめ、関連する治療歴と治療に関する希望をA4コピー紙1枚にまとめて病院へ行く。専門医にかかる前にかかりつけで病気の種類のアタリがつくこともあるので、そういうときは標準医療での選択肢も調べておき、複数の選択肢があれば意思決定を済ませておく。
 このたびは「手術適応ならできるだけ早くやりたい」と例のA4に書いておいた。それであっというまにスケジュール調整に入り、年始は手術の人気がないのだと、そう聞いたのである。

 わたしは年末年始をやらない。お歳暮も、大掃除も、おせちも、晴れ着も、帰省も、親戚の集まりも、わたしの知ったことではない。特番も観ない。年末年始に随所で提示される「正しい家族」像みたいなやつが超嫌いで、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのである。なお、餅は好きだから日本にいる年には食べる。和菓子屋がつきたてのを売ってくれるので。
 そういう人は、どうやらけっこういる。わたしのように全部ぶっちぎって何もせず家にいる、あるいは外国に行く、という人間も少しはいる。「いちおう実家に行きはするけど、楽しくはない」みたいな人はもっといる。そりゃそうだよなと思う。まさかあれが全人類の幸福であるわけがない。父と母と子の役割ががっちり決まってて幸福の形式がいっこしかない、あの世界。
 それはわたしの幸福じゃないのよ、と思う。わたしはわたしの幸福をやるので、あなたはあなたの幸福をやってください。そう思う。

 だから手術前後の食事制限も旅行NGもどんとこいである。忘年会や新年会のお誘いも、「ごめーん、十二月前半か一月末以降でいいかしら」と言えばみんな調整してくれる。職場のつきあいはゼロである。年末年始があんまり関係ない職場なのだ。
 わたしの年末年始の恒例行事は「年末年始バー」だけである。
 バーといってもお酒は要らない。インターネットでやる行事(?)だからだ。匿名で投稿できる質問箱サービスを使って、質問でなく「年末年始こんな感じであれなんですよ」みたいな話を投稿してもらう。そしてそれに返信をする。とくに役に立つお返事ではない。「ははあなるほどねえ」「それはあれですねえ」みたいなやつである。わたしは役に立つものより役に立たないもののほうがずっと好きだ。
 このやりとり、かなり楽しい。世の中にはいろいろな人がいるんだなと思う。そう思うと、わたしは愉快になる。一律はおもしろくない。一律にはまらない人間をないもののように扱うやつらが嫌い。「いろいろ」が雑木林みたくにょきにょき生えてるのが良い。そういう嗜好を持って生まれた。
 年末年始に関する「いろいろ」が生えてくる苗床が、年末年始バーとしての質問箱である。
 わたしは生まれてはじめて手術を受けるので、話してもいいよという人がいたら手術話を送ってもらうのもいいかもわからない。わたしが受けるのは日帰りの簡単な手術で、何ならとっても楽しみなのだが(長年うっすら苦しんできた慢性疾患が激化して手術することになったので、治ったら見える世界が変わると思う。あと、シンプルに体験したことのないことが好き)、世の中にはいろいろな手術があり、年末年始を病院で過ごす人だっているだろう。
 「年始の手術は人気がないんですよ」と笑った医師も、たいへん効率的な事前検査をしてくれた技師も、痛くない採血をしてくれた看護師も、年始早々に、もしかすると三が日から、働くのかもしれない。
 典型的な年末年始のイメージは嫌いだ。でもいろんな人のいろんな年末年始は好きだ。空気の澄んだお正月の、人の少ない東京も好きだ。華やぎの気配を残した清潔な場所に自分ひとりが取り残されて、もう誰も戻ってこないと知りながら歩いているような、あの感じが好きだ。いろいろな場所の、わたしの知らない年末年始の話が好きだ。どうぞ、みなさん、良いお年やあまり良くないお年の話を、わたしに聞かせてくださいね。