(写真:フォトAC)
記事
小学校段階で「英語格差」、「英語嫌い」が増え教員も指導困難に陥った根本原因英語教育学の専門家が戦慄した調査結果の数々
(2025.02.05 東洋経済education×ICT)
現行の学習指導要領がスタートしてから、英語嫌いの小中学生が増えていると言われている。昨年末より、2030年度からの小中高校の教育課程をめぐる本格的な議論が始まったところだが、「今後の英語教育のあり方を定めるためには、今の英語教育の深刻な現実を直視し、原因解明と打開策を早急に検討する必要がある」と、英語教育学を専門とする和歌山大学名誉教授の江利川春雄氏は指摘する。次期学習指導要領では、どのような改訂が必要なのだろうか。
「小学校英語の教科化」で何が起きているのか?
2020年度から実施された小学校学習指導要領の目玉は、小学5・6年生の外国語(実質は英語)を週2コマの正式教科にしたことだった。これによって、それまでの「聴く・話す」に「読む・書く」も加わり、成績もつけるようになった。
結果はどうなったか。文部科学省の「全国学力・学習状況調査」によれば、「英語の勉強(学習)は好きですか」との質問に否定的な回答をした小学6年生の割合は、教科化後の2021年度は31.5%だった。これは教科化前の2013年度の23.7%と比べ、約8ポイントも増えた。英語嫌いの児童が増えてしまったのだ。
(以下、略)
評
【学力格差は広がっても閉じることはない】
普通の公立中学校の3年生の最後、いよいよ高校入試という段階で生徒たちの学力差はどれくらいついているのだろう。5教科で上は470点以上、下は――いろいろな学校があって場合にもよるが、120点くらいは取れたとしよう。その差は300点。問題の95%近くが取れる子もいれば、四分の一も取れない子もいて、残酷なほどに差が開いているのが実際である。しかし思い出してほしい。わずか9年前の小学校に入学したその日は、誰ひとり方程式も解けなければ英語も分からない、世の中に化学式や古文・漢文といったものがあることすら知らない無邪気な子どもだったはずだ。無知というレベルでほぼ全員が平等だった。それなのに教育したばかりにこんなに格差が開いてしまったのだ。
これは学習というものを考えたときに常に心に置いておかなくてはならないことだが、
教育はすればするほど差が開いてしまい、閉じることはない
のだ。もちろん低位の者の成績も伸びないわけではないが、成績上位者は低位者の数倍の速度で成績を伸ばしてしまうから絶対に追いつけない。低位者の学習速度を上位者以上に上げることはできないから、もしどうしても学力差を縮めたいというなら、上位者を止めておくしかない。しかしそれはできる相談ではない。
結局、「上位者との差は開くかもしれないが、低位者だって多少の学力はつくからいじゃないか」と慰めるしかないが、単にそれだけでは済まない場合も多い。低位者は継続的に分からない授業を強いられており、「多少の学力」では相殺できないほどの傷を負っていることも少なくない。「それでもがんばれ」とは言い難いときもある。
【昭和の中学生には“やり直し”の機会があった】
「英語の勉強(学習)は好きですか」との質問に否定的な回答をした小学6年生の割合が、小学校英語の教科化前の2013年度は23.7%だったのが、教科化後の2021年度は31.5%だった、約8ポイントも増えたと引用した記事は言うが、小学校の総合的な学習の時間に外国語活動が入ってきたのはさらに10年も前の2003年ごろのことである。それ以前の小学生に訊けば英語の勉強が嫌いだという子は、ほとんどいなかったはずだ(学校で勉強していないから)。
その小学生が進級して初めて受ける中学校1年生の英語の授業について、私にはとても瑞々しい思い出がある。そこにはすばらしい「やり直し気分」があって、子どもたちの意欲がほとばしるようだったからである。小学校でさっぱり勉強が分からなくなった子でも、英語だけはゼロからのやり直しが効く。しかも英語はアメリカやイギリスでは普通の子が自由に操っているもので、もしかしたら自分も今からがんばればこの教科だけは活躍できるかも知れない――。
多くの子どもにとって結局は幻想なのだが、現在の、生徒の三分の一近くがウンザリした気持ちで中1を迎えるよりはよほどマシなはずだ。しかも英語はほぼすべての大学入試において1・5倍の得点比率をもつ唯一の教科である。生徒の三分の一が中1の段階で、大学の入試戦線の第5列以下に落とされているのだからまことに気の毒である。
【普通の人間には英語の勉強が不必要な時代が来る】
AIの席巻する今日、普通の日本人は中1程度の基礎的な英語を習得すればこと足りるようになっている。土産物店の従業員だってレストランのウェイターだってシェフだって、外国人客が来たら自動翻訳機を取り出せばいいだけのこと。職場で従業員として話すのに難しい英語はいらない。
「いらっしゃいませ」「こちらのお席へどうぞ」「ご注文は何になさいます?」「しばらくお待ちください」「お会計は現金ですかカードですか」
・・・そのあたりから始めて翻訳機の言葉を一緒に聞いていれば、ものの一カ月もしないうちに店内で交わす会話の8割以上は翻訳機を使わずとも口に出せるようになるだろう。それ以上に込み入った話になったらまた翻訳機を取り出せばいい。そうやって英語力を高めていき、最後は互いに不如意な英語を使うのではなく、彼我の国語を使って翻訳機に語り掛ければいい。その方がよほど確実な会話ができるだろう。
商店や飲食店など外国人と直接対面する場では、こうして一般庶民の英語力が昭和・平成の昔より遥に確実に高まるはずだ。ことさら学校でレベルの高い勉強を長々とやる必要はない。英語教育の必要性は、その面から見れば確実に減ることが分かる。
では一体何のための小学校英語か。
それは割愛した記事の最後の部分に出て来るので見てみよう。
同年(2013年:引用者注)、自民党教育再生実行本部は提言の中で「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」を打ち出した。日本経団連も2018年の提言「Society 5.0」で「日本的平等主義から脱却し、各領域で抜きん出た才能を有するトップ人材やエリートの育成」を求めた。政財界は、英語が使える「グローバル人材」というエリート育成を学校教育に要求しているのである。
つまり政治や取引、学術研究の場で外国人と丁々発止のやり取りのできるエリートを生み出すために、幾千万の凡夫が苦しめられるわけである。
【英米の子どもとは英語環境が違う(当たり前だけど)】
英語についてよく言われる、
「英米ではだれでも英語が喋れるようになっている、だからすべての子に機会が与えられている」
という話はまやかしである。
英米の子どもは生まれた時から英語以外の言語から遮断されており、まだ乳児のころから英語のシャワーを浴び続けている。しかも周囲から語り掛けられるのは年齢に応じた英語だけなのだ。小学生になっても中学生のなっても、テレビを見てもネットを見ても本を読んでも英語ばかり。そうした環境の中で彼らは英語を学んでいる。
日本のように多くても1日1時間の授業で、その時間を離れると日本語の大洪水。海外の見どころのある書籍はすぐに翻訳され、テレビもネットもDVDもすべて吹き替えか翻訳付き。一緒に遊んだり生活したりする中に英語しかできない人間はほとんどいない――そんな環境で英語が習得できるのは、やはり一部の頭の良い子たちだけである。
今後も「英語格差」は広がり「英語嫌い」は増え、しかし学習機関が伸びたことで、英語エリートの英語力は本当に伸びているのかもしれない。
「一将、功成りて、万骨、枯る」
凡夫は社会の石垣になれということだ。