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本日は奇しくもあの「暴動が終わった」日から16年……。2007年、初代大統領ジョモの息子ウフル・ケニヤッタ大統領政権の下、ケニアで選挙開票直後に起こった焼き討ちと暴動。スラムでは部族概念に基づいた民衆同士の残酷な傷つけ合い、殺し合いが発生した。当時CNN報道写真大賞を受賞したフォトジャーナリスト、ボニファス・ムワンギは長らくその有様を取材してきた。腐敗しきった政権の行動に強い怒りを覚える彼は、国会議員として選挙に立候補することを決意する。しかし妻のンジェリは家族のことを考えてほしいと願っていて……。
イギリスが撒き、ケニアで育った部族主義の種と伸びゆく蔓。その大本に潜む暴力と悪意をカメラを通して追った緊迫のドキュメンタリーフィルム。
アフガニスタン紛争に兵士として参戦、PTSDと鬱病のため退役して、逃げるようにアマゾンの奥地へとやってきたイギリス生まれの青年ハリー。彼がペルーで出会ったのは、野生動物を自然に帰すため活動するサムと、彼女が保護したヤマネコのカーンだった。カーンを預かり愛情を注ぎながら野生での暮らし方を教えていくハリーだったが、密猟者の仕掛けた罠にかかったカーンは前脚に銃弾が当たり亡くなってしまう。ハリーは喪失感に苛まれ、サムはそれを心配していた。そんな折、サムの友人がヤマネコの子を保護し、ハリーはキアヌと名付けたその子を世話することになる。次第に野生へと順応していくキアヌと、家族との絆を確かめるハリー、そしてシアトルで博士号取得を目指すサム。やがてキアヌを野生に帰す時が来て……アマゾンの豊かな自然のなかで確かに動く人々と動物たちの成長を、セルフカメラを交えながら動態的に捉えた感動のドキュメンタリー・フィルム。
本作では、一貫した国連批判が繰り広げられている。1994 年、明らかな民族大虐殺に対して国連は有 効な手を打たず、ヨーロッパ人のみが引き上げて、キガリ郊外の技術学校に残ったルワンダ人たちは殺 害された。しかし、実際の虐殺生存者をキャストやスタッフに加え、現地で撮影されたこの映画には、そ れ以上の表象と告発が込められている。本稿では、この映画を通してルワンダ大虐殺に対する理解と国 際社会の問題とともに、登場人物たちの心理を巡る「壁」の表象について論じる。
1994 年当時のルワンダでは、映画で描かれたように、国連平和維持軍が滞在していたものの、虐殺に 介入することができず結果的にルワンダを「見捨てた」ことが知られている。この背景には、あくまで同 軍が「自衛」や「監視」に徹そうとし、また上層部も武器の使用許可やルワンダ人保護の指示を出さなか ったことが関係している。映画は、そのことを大尉の苦悩や神父と教師の苛立ちで表現しているが、より 巨大な背景原因、即ち国際社会の事情には殆ど触れていない。これは、国際社会が自らの都合でルワンダ への不介入を決めたことについて、何も知らされなかった“末端”の当事者(ルワンダ人)の立場から、相 手のいかなる言い訳をも拒否するという姿勢の表れなのだ。映画内に登場したレイチェルは、ジャーナ リストという仕事の矜持を保ちつつ、ボスニア滞在時代のことを引き合いに出し、結局はルワンダ人た ちを置き去りにする。ボスニア紛争は、ルワンダ大虐殺と同時期に発生したが、国連の対応はルワンダの 件ほどの批判は受けなかった。正義や道徳、倫理に従って動くべきだとはわかっているが、結局は他人事 であるという意識と自分の都合が優先するというレイチェルの行動は、そのまま国連の鏡写しである。
一方で、映画内では個人個人の行動も問われた。これを端的に表すのが、登場人物たちを遮る様々な障 壁である。ここでは端的に「壁」と呼ぶこととする。学校の周囲に設置されたフェンスは大まかに言えば フツ族民兵と避難民を区切るものだが、それが破れた時、そこでは惨劇が繰り広げられた。ジョーはフェ ンスの向こうのルワンダ人母子を救うこともできず、人壁の向こうのマリーとの約束を守ることもでき ない。クリストファーは、善意で貸したハードルがフツ民兵たちの道路封鎖に使用され、元議員が笑いな がら飛び越えているのを見て呆然とする。虐殺当時、人々を決定的に分け止めていた壁は簡単に超えら れ、一方でヨーロッパ人たちは超えるべきものを超えることができなかった。しかし終盤には、逃げ出し たマリーが夜の叢を駆け抜け、連なる丘を目指す姿が描かれる。大虐殺を生き抜こうと疾走するマリー の前に立ちはだかる未来の困難(壁)は、決して緩やかな道ではない。だが、それにまっすぐ立ち向かう マリーは、この映画のなかでまだ誰も成し遂げていなかった表象に果敢に挑むのである。
そして、私たちが顧みなければならない壁は今もある。このルワンダ大虐殺を、どのように理解する か、という問いだ。私たちは身近な出来事については「歴史に学ぶ」「二度と繰り返さない」と述べるこ とができるが、この映画はそれ以前の問題を提示していると考えられる。映画を振り返ると、学校内に逃 げ込んだ人々に対して大尉や神父が「避難民」という呼び方をする。「ツチ族」ではない。更に、映画の 最後のテロップでは学校のその後が文章で紹介される。そこには、「2,500 人のルワンダ人が殺された」 とあった。映画が単純に被害者たちを「ツチ族」と総称したがらないのはなぜだろうか。ここには、ルワ ンダ大虐殺を巡る複雑な民族関係が関連していると考えられる。かのジェノサイドはフツ族からツチ族 への一方的なものだったと考えられがちであり、現カガメ政権もそのシナリオを公式見解としている。 だが、ルワンダには他にピグミー系トゥワ族も存在し、またツチ族にフツ族が殺害されること(ダブル・ ジェノサイド)もあった。更に言えば、結婚などで全ての民族は複雑に混じり合い、ヨーロッパ人が植民 地時代に用いたフツ/ツチの民族判断の尺度では現実に応じてはいなかった。そして、家族や同胞を失 った悲しみの大きさは民族を問わない。従って、この映画は被害者をツチ族と総称しないことにしたの だと推察される。この映画を視聴した人間には、被害者を特定集団に限定しないことによって、単純理解 で飲み込みそうになるところを問い直す機会が与えられているのだ。それは民族境界やルワンダ政府の 主張かもしれないし、あるいはまた他の要素かもしれない。
本稿では、人々が乗り越えてしまった・乗り越えられなかった・乗り越えようとする壁について、国際 社会と当事者の視点を交えて論じた。また、この映画が通底して抱く「被害者像」のメッセージについて も述べた。本作は実話に基づくと言えど、フィクションである。ただ、人類が本作のルワンダ大虐殺を 「映画のなか」「過去のこと」と一時消費するための他人事として扱った時、それは壁を超えた前進では なく、ただ忘れ去るだけだということに他ならない。