有島武郎の心中
⇒「あなた失ったら…恐ろしい」 心中相手から有島武郎への手紙公開(MSN産経ニュース)
「白樺派」の作家有島武郎と心中した編集者の波多野秋子が、有島あてに書いた未公開の手紙2通や、死の間際に夫あてに書いたとみられる遺書などが見つかり、入手した北海道立文学館(札幌市)が7月1日から一般公開する。(後略)
有島武郎はそれこそ教科書に載っていたことから知って(『生まれ出づる悩み』*1)何冊か読んだことはあります。出会う時期にもよったのでしょうが、あまり漁って読むような興味は生まれませんでした。ただ彼が情死したということは知識としてはありました。
お相手の女性、秋子から有島へ宛てられた手紙、そして夫君宛の遺書が見つかったそうです。
画像では旦那さん宛の"遺書"が紹介されていました。
⇒波多野秋子が夫にあてた遺書
読みにくかったですが、取りあえず文字おこしをしてみました。
春房さま
とうとうかなしいおわかれをする時がまゐり
ました。 ○○おはなし申上げた通りで、
秋子の心はよくわかって下さることとぞんじ
ます。 私もあなたの お心がよくわかって
をります。十二年の○ 愛しぬいてくだすつた
ことをうれしくもつたいなくぞんじます。
わがままのありつたけをした
揚句に あなたを殺すやうなことになり
ました。それを思ふと堪りません。
あなたをたつた独りぼつちにしてゆく
のが可哀相で可哀相で たまりません
秋子
六月九日 午前一時半
(○字は読めなかった文字です)
この画像のキャプションでは、「六月九日午前一時半」との記述から有島武郎との心中直前に書かれたことが分かる、とあります。Wikipedia:有島武郎でも確かに
そして6月9日、二人は軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死心中を遂げた。7月7日に発見されるが、梅雨の時期に一ヶ月以上遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認できたほどだという。遺体が発見されたとき、二人の遺体は蛆虫の巣と化しており、天井から床まで滝のように蛆虫が湧き、別荘の屋外まで溢れかえっていたとされる。
とあります。一ヶ月も発見されず放置された両者の遺体は凄惨なものだったのでしょう。
ただWikiの記述で有島が秋子の夫に「脅迫を受けて苦しんでいた」とあるのですが、この遺書から見られる秋子の夫への気遣いのようなものが「脅迫」という表現に似つかわしくないような気も少ししまして、ちょっとだけ調べてみました。
⇒臼井吉見の安曇野を歩く 147・有島武郎の情死
こちらでは秋子と夫について
秋子は、良妻賢母教育で知られる実践女学校から青山女学校に移ったころ、英語塾を経営していた波多野春房と出会った。父の愛に飢えていた彼女は、15歳年上の男に甘えた。波多野は妻と離縁して秋子と結婚、溺愛(できあい)する。学校を続けさせ、卒業後は硬派の女性誌『婦人公論』の記者として働くことを許した。
と書いています。十五歳差と言えばちょうど有島と秋子とも同じです。
武郎は5年8月に愛妻を失い、3人の子どもを独りで育てていた。武郎には当初、秋子に対する逡巡(しゅんじゅん)があるのだが、秋子に押し切られた。
秋子は世間知らずの少女のまま波多野に囲われ、籠(かご)の中の小鳥のように飼われていた。記者となり、視野が広がったところで武郎という文士にめぐり会い、心身を預けてゆく。
見てきたように…というあれで、本当に秋子が積極的に有島にすがったのか、また彼女が籠の鳥でそこから抜け出そうとして有島に向かったのかそれはわからないことではないかと思います。見つかった有島宛の手紙というのを見て何かわかるでしょうか。
ここでは夫、波多野春房が行った脅迫というものを
2人の深い関係に気づいた波多野は、秋子を責め上げ、秋子から一部始終を聞き出した。波多野は武郎のもとに押しかけ、「ただではやれない。1万円よこせ」と迫る。姦通罪に訴えれば文士はいっそう有名になるだけだ、と考えた波多野は、大金を要求したのだ。武郎は監獄なら行くが、愛する女を換金するつもりはないと突っぱねた。決裂!
というように描写していますがこれもまた詳細で劇的に過ぎるようで、話半分に思えました。また、
武郎はこの決意を固めたうえで、波多野秋子と肉体関係を結んだ。大正12(1923)年6月4日、場所は千葉船橋の旅館。そしてこの5日後の9日午前2時過ぎ、2人は軽井沢の別荘で縊死(いし)心中を遂げてしまう。武郎45歳、秋子30歳。
これが経緯として事実ならば、それこそ彼らは情念ではなく他の、あるいは同床異夢の別の理由で心中を遂げたのではないかと思えてしまいます。
⇒Hugo Strikes Back! 波多野秋子と有島武郎
こちらでは、秋子と同僚だった半澤成二の『大正の雑誌記者』という本を引用して出会いの経緯などを紹介していますが、ここに書かれた秋子像は何か自分の「女」を意識した、そういう人に見えるような気がします。
当時、有島武郎は個人雑誌「泉」を経営して、一切の執筆原稿は他誌には発表しないと宣言して間もないころだ。
「波多野さん、ひとつ有島武郎の小説をもらってきてくれませんか。」
と、嶋中さんは笑いながらいった。無理といえばこんな無理はない。
…
「波多野さん、どうです?」
ときいた。
「きっともらってきますわ」
秋子は嫣然として、麹町三番町の有島邸にむかった。このときが、有島氏と秋子が、男として女として知りあった初めであった。
…
いつか秋子は私にだけ、有島武郎を「たけおが、たけおが」と親しげに呼んで、有島邸のいろいろな内部の事情まで話してくれた。
「私がたけおと呼ぶのを他の人にはいわないで下さいね」
当時、有島武郎氏は、妻に死なれて、名短編「小さき者へ」を発表してしばらくのころであった。秋子は「泉」の校正の手伝いをしたり、二人の遺児の服装のほころびを縫ってやるために針と糸とを持参することを忘れなかった。
…
彼女は、
「たけおにあなたのことをよく話してあるから、お金に困ったら出かけてゆくといいわよ」
などともいった。
前のサイトでは有島が「実は僕等(ぼくら)は死ぬ目的を以(もっ)て、この恋愛には入ったのだ。死にたい2人だったのだ」と語ったとし、友人の武者小路実篤の「(妻に先立たれた後の有島は)生きているのがうるさくいやになって来たように思える」という言葉を引いています。
後ろのサイトの引用でも「秋子は私には、前から「死にたい、死にたい」とよくいっていた…」とありますし、やはりこの二人の心中は通常の意味での情死ではなかったのかなという印象を受けます。
⇒歴史が眠る多磨霊園 有島武郎
こちらのサイトでは里見とんの自伝的小説『安城家の兄弟』の記述や、人物伝のような「日本史人物 女たちの物語」などの本の描写から経緯をまとめられています。
ここでの、
武郎は「美貌の婦人記者が僕を誘惑にくるんだよ。滑稽じゃないか」と漏らしていた
あたりからすれば、有島が最初はその気にもならず、秋子が積極的であったという話はありそうにも思えます。
ここにはやや詳しく「脅迫」のことが記されています。(ただこれも物語的脚色は受けたものでしょう)
二人の関係は、やがて秋子の夫であり実業家の波多野春房の知るところとなる。そもそも、華族出身の妻を離籍して秋子を迎え入れた後、彼女を青山学院に通わせたのも、職業婦人としての自立を助けたのも、すべてはこの十五歳上の夫の力だった。ことの顛末を知った春房は、6月6日武郎は秋子と共に波多野の事務所に呼び出され、武郎に金銭での取り引きを持ちかける。その内容は、「それほどお前の気に入った秋子なら、慰斗をつけて進上しないものでもないが、併し俺は商人だ。商売人といふ者は、品物を無償で提供しやアしない、秋子は、既に十一年も妻として扶養して来たのだし、それ以前の三四年も俺の手元に引き取って教育してゐたのだから、それ相当の代金を要求するつもりだ。俺ぁこんな恥曝しをしては、もう会社にも勤めてゐられない。これ、この通り辞表も書いで来てゐるんだ」と言い、「家庭内に言うに忍びざる事件起り」という文言がある和洋二通の辞表を出して見せた。
…
「…俺は、吝嗇ン坊(しわんぼう)のお前を、一生金で苦しめてやるつもりなんだから。それは今から覚悟しておけ!」と脅迫した。当時、夫ある身の女の不貞は姦通(かんつう)の罪に問われ、男女双方に大きな制裁を与えた。春房が訴えれば二人は監獄行きであり、これが世間の明るみにでれば、クリスチャンとして貞節と潔癖を重んじてきた武郎の作家生命が、侮蔑と嘲笑にまみれることは見えていた。しかし、武郎は、春房の報復のような恐喝に対して、「自分が命がけで愛している女を、僕は金に換算する屈辱を忍び得ない」と金銭で愛を汚すことを拒否した。要求を突っぱねられた春房は、警察に突き出すという脅迫をするが、武郎は「よろしい、行こう」と動じず、この予定外の態度に春房がたじろぎ、「どうしてもお前が支払いを拒むんなら、一人一人お前の兄弟たちを呼びつけて、お前の業晒しをしても、きっと金は取ってみせるからさう思え!」と罵り、食堂へ降りて行ったという。この一部始終を、その日に入院中であった足助素一を訪ねて打ち明けている。足助はお金を払い相手の気持ちを落ち着かせた方がいいと考え、翌日6月8日午前、病院を抜け出し有島邸に訪れ武郎と秋子に対して金の解決を進めるも、武郎は愛する女を金で換算することは出来ないの一点張りで平行線であった。更に情死をすることの決意も語り、それを足助は説得するも、何の成果を得られず、引き上げるしかなかった。
これは足助素一氏の証言と取ってよいものでしょうか?ややお話が有島びいきになっている感がありますし、有島と秋子が出会ってまだ七ヶ月、先のサイトの記述を信じれば初めて関係を持って二日目のことです。またこの「脅迫」の三日後に心中というのは、やはりいささか話が性急すぎるように見えます。
そして何より、ここに描写されたような人物(春房)に秋子がああいう遺書を残すものでしょうか?
確かに売り言葉に買い言葉で、脅迫じみた文句がそこに出たのかもしれません。コキュとなってしまった苛立ち、怒りがそこにあったと考えるのも自然です。でもこのやり取りの証言は有島から関係者に漏らされたルートしかないのでは、と考えます。ここに有島の内心が付随するのも傍証です。これはやはり一方的な見方なんだと思われます。
「脅迫」というよりそれは、有島(と秋子)に何らかのきっかけを与えた、激発させた言い争いであったとしなければ、どうにもあの「遺書」の記述が解せないなあと感じられたのでした。
当時の報道は、心中という醜聞に触れて、波多野秋子を知る人々は誰もがその美貌に言及している。美しい魔性の女が、人妻であるにも関わらず、亡き妻への愛を貫く偉大な作家を籠絡(ろうらく)した・・・。大半がそのような視点に立っている。不貞の許さぬ時代であり、職業婦人の風当たりが強い時代にあって、その風を真っ向から受け、武郎の死の責任を秋子が受けてつるし上げられた。後に加藤シヅエらが、秋子の自分宛の遺書を記者会見で公表し、秋子の気持ちを代弁し擁護するなど、事実が少しずつ明らかになってきたが、世に認識されるまえには時間がかかった。
ここで書かれているような風当たりがあったなら、やはり秋子も不憫だったと思わざるを得ません。
でも本当はどうだったのでしょう。逝きたいと思う者同士がたまたま出会って衝動的に事が起きたのでしょうか? あるいは45歳と30歳の純愛が急に燃え上がったということなのでしょうか?
真相はもはやわからないでしょうけれど。
秋子の有島に宛てた手紙も、いつか機会があれば拝見したいものです。
それにしても、どうにも二人は死ぬ必要はなかったんじゃないかと、そう思われて仕方がありませんでした。
*1:たとえば松岡正剛の千夜千冊『小さき者へ』有島武郎、にもちょっと記述がありますね