政治的偏向と歴史叙述

私はかつて古代史研究者石母田正、中世史研究者東島誠、政治思想史研究者丸山真男の三氏の言葉を引いたことがある。

国家についてのなんらかの哲学的規定からではなく、経験科学的、歴史的分析から国家の属性や諸機能を総括しようとする立場に立つということは、この問題に無概念・無前提に接近するということではない。そのようなことが可能だと思いこみ、それが通用しているのは、歴史家たちの住むせまい世界の特殊性のためである。(『日本の古代国家』岩波書店、1971年)

実証史家といえども西欧近代知の枠組みのなかで思考しているのであり、「概念」や「前提」なしに経験科学的な分析が可能であるわけではない。(中略)
研究者が設定し、すなわち縛られているところの概念や前提を、自覚的に省察し、認識の限界を知る、ということなしに書かれた歴史叙述が、もはや通用する時代ではあるまい。その意味でさきの石母田の指摘は、近代知の限界を見据えた、あまりにも重い〈諦念〉の表明として受け止められるべきであると思う。(『公共圏の歴史的創造』東京大学出版会、2000年)

無限に多様な個別的「事実」からどれを選択するかは結局その「事実」に対して歴史家がどれ程重要性を付すかという事できまつてくる、重要か重要でないかの規準はまた歴史家が史料に臨むに先立って抱いている歴史観の全体からきまつてくるのだ。これがむずかしくいうと歴史叙述の主体的契機という問題だ。その意味で史料からの純粋の帰納では決して歴史は書けない。もしそういう意味で客観的実証的な記述と自称する歴史書があったら、大いに警戒が必要だよ。注意して読めば君達でも必ず行間に隠されたその著者の一般的なものの見方或はもつと大きく言えば世界観というものを見抜けるはずだ。著者自身それを自覚していない場合には、大抵その時代の支配的な道徳意識とか、その社会の伝統的因襲的な価値観念に無批判に依りかかつていることが多い。(「歴史と伝記」1950年初出『戦中と戦後の間』みすず書房、1976年所収)

叙述の主体的契機、すなわち自分の縛られているところの概念や前提を自覚的に省察し、認識の限界を知ることなしに書かれた言説には意味がない、と自戒しなければならない。