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【作品解説】ルネ・マグリット「人の子」

人の子 / The Son of Man

緑のリンゴで隠された男


《人の子》1964年
《人の子》1964年

ルネ・マグリットの『人の子』は、その象徴的で不可解なイメージから、多くの人々を魅了してきました。緑のリンゴで顔を隠した男性、曇り空と海を背景にした構図は、見る者に問いを投げかけます。この作品は、隠されたものへの好奇心や見えるものと見えないものの間にある葛藤を描き出し、現代アートやポップカルチャーにも広がる大きな影響を与えています。

概要


作者 ルネ・マグリット
制作年 1964年
メディウム 油彩、キャンバス
サイズ 116 cm × 89 cm
コレクション プライベートコレクション

1964年にルネ・マグリットが制作した油彩画『人の子』は、シュルレアリスムを代表する作品のひとつです。マグリット自身は、この絵をセルフ・ポートレイト(自画像)として位置づけています。

 

マグリットは優れたデッサン力を持ち、芸術作品を制作する一方で、広告イラストの分野でも活躍していました。彼の作風は、正確で写実的な描写が特徴であり、そのリアルさが作品に含まれる不思議で非現実的な要素と対照的です。

 

『人の子』は、マグリットが人生の終わりにあたる晩年、亡くなる3年前に描いた作品です。この絵は非常に人気が高く、1998年には500万ドル以上で個人収集家に売却されました。

 

絵の中では、曇り空と海を背景にした低い壁の前に、オーバーコートと山高帽を身につけた男性が立っています。しかし、この男性の顔は緑色のリンゴによって大部分が隠されています。ただし、リンゴの端からチラリと目が覗いており、鑑賞者に不思議な印象を与えます。また、左腕が後ろに曲がっているようにも見え、さらに謎めいた雰囲気を醸し出しています。

 

マグリット自身は、この作品について次のように語っています。

「顔が見えることはわかっていますが、リンゴがそれを覆っているため、完全には見ることができません。私たちが何かを見るとき、同時に別のものが隠されてしまうのです。私たちはいつも、見えないものや隠されたものに関心を抱きます。この興味は強い感情となり、見えるものと見えないものの間に葛藤を生み出します。」

 

このコメントは、マグリットが『人の子』を通じて「見ること」の本質について問いかけていることを示しています。目の前の現実がどれほど信じられるものなのか、私たちに再考させる作品です。このテーマは、彼の代表作『イメージの裏切り』とともにしばしば取り上げられ、現実と視覚の違い、そして私たちがどれだけ「見ている」ことに対して疑問を抱くべきかという問題に対する深い洞察を提供します。

 

鑑賞ポイント

この絵を見るときは、次のポイントに注目してみてください。

  • 隠されたものと見えるものの葛藤
  • 不安感を生む不自然な要素
  • 「見る」という行為への問いかけ

繰り返し現れるリンゴ


マグリットは、作品の中で繰り返し登場するテーマやモチーフを数多く用いました。その中でも特に有名なのが緑色のリンゴです。この作品では、リンゴが男性の顔を隠すことで、普通の肖像画を全く異なるものへと変貌させ、見る人に強い印象を与えます。同時に、顔が隠されているため、鑑賞者に不安やフラストレーションを引き起こす効果もあります。

 

このリンゴは、エデンの園に登場する象徴的な果実を思わせ、罪、誘惑、人間の有限性を示していると解釈されています。さらに、このやや宗教的な解釈は、作品のタイトル『The Son of Man』とも結びつきます。「人の子」という言葉は「アダムの息子」を意味し、ここでも原罪のテーマを示唆していると考えられます。

なぜ左目だけ見えているのか


青リンゴの背後から覗く目は、もしかすると画家にとって深い哀悼の象徴かもしれません。ルネ・マグリットがまだ十代だった1912年、彼の母親は川に飛び込み、自ら命を絶ちました。その後、発見された母親の遺体は、ナイトガウンが顔の一部を覆い隠し、左目だけが見えていたと言われています。この衝撃的な経験は、若いマグリットに深い影響を与えたことでしょう。

 

彼の代表作《人の子》に登場する男性も、左目だけがリンゴの背後から覗いています。このディテールは、母親の記憶や当時の体験が象徴的な形で反映されたものだと考えられるかもしれません。

山高帽にスーツの男はマグリット自身


このリンゴの背後に立つ男性は、ルネ・マグリットの作品によく登場する人物像の典型です。黒いスーツに赤いネクタイを締め、山高帽をかぶったこの姿は、マグリット自身の普段の装いによく似ており、偶然ではないと考えられます。

 

多くの批評家は《人の子》をマグリット晩年の自画像と見ています。しかし、マグリット自身は自己愛的なテーマをしばしば嘲笑し、距離を置いていました。だからこそ、この男性の顔を無垢で親しみやすいリンゴの後ろに隠し、見る者に解釈を委ねたのかもしれません。

ルネ・マグリットと彼の絵画『人の子』。ビル・ブラント撮影、1964年。© ビル・ブラント
ルネ・マグリットと彼の絵画『人の子』。ビル・ブラント撮影、1964年。© ビル・ブラント

類似作品


マグリットの『人の子』とよく似た作品として、『世界大戦』と『山高帽の男』が挙げられます。

 

『世界大戦』では、『人の子』と同じく海を背景にした壁の前に人物が立っていますが、こちらは女性が描かれています。女性は手に傘を持ち、顔は緑のリンゴではなくすみれの花で隠されています。性別や隠された要素の違いがあるものの、共通する構図や謎めいた雰囲気から『人の子』と呼応する作品といえるでしょう。

 

また、『山高帽の男』は、タイトル通り山高帽をかぶった男性が描かれていますが、顔はリンゴではなく鳥によって覆われています。この作品でも、現実の風景と非現実的な要素が融合したマグリット特有の謎めいた世界観が表現されています。

 

《世界大戦》
《世界大戦》
《山高帽の男》
《山高帽の男》

ポップカルチャーと「人の子」


ルネ・マグリットの『人の子』は、ポップカルチャーのさまざまな場面で引用やオマージュの対象となり、その象徴的なイメージが広く親しまれています。

 

映画『ホーリー・マウンテン』

アレハンドロ・ホドロフスキー監督の奇作『ホーリー・マウンテン』では、登場する富豪の一人の家に『人の子』が飾られています。作品のシュールな世界観と『人の子』の不思議な魅力が見事に調和しています。

 

アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』

第1話には、『人の子』から着想を得たとみられる演出が登場。アニメの幻想的な雰囲気とマグリットの象徴的な表現が重なり、印象的なシーンが生まれています。

 

・映画『トーマス・クラウン・アフェアー』

この映画では、マグリットの絵が劇中に登場するだけでなく、全体のビジュアルにもマグリットの影響が色濃く表れています。『人の子』のようなミステリアスな空気感が映画のテーマともリンクしています。

 

・ノーマン・ロックウェルの『ミスター・アップル』

アメリカの画家ノーマン・ロックウェルも、マグリットの『人の子』に影響を受けた作品『ミスター・アップル』を制作。リンゴを顔に重ねる構図は、『人の子』への明確なオマージュといえます。

 

こうした多岐にわたる表現から、『人の子』が持つ象徴性の強さと、そのイメージの普遍性が浮き彫りになります。ポップカルチャーを通じて、この名画の魅力はさらに広がりを見せています。

『魔法少女まどか☆マギカ』第一話の魔女との戦闘シーン。
『魔法少女まどか☆マギカ』第一話の魔女との戦闘シーン。
映画『トーマス・クラウン・アフェアー』
映画『トーマス・クラウン・アフェアー』
『ホーリー・マウンテン』富豪芸術家の家(左下)。
『ホーリー・マウンテン』富豪芸術家の家(左下)。
ノーマン・ロックウェル『ミスター・アップル』
ノーマン・ロックウェル『ミスター・アップル』