サッカーにおける監督通訳の重要性 「誤訳」の恐ろしさ
サッカージャーナリスト 大住良之
日本中を「誤訳」が駆け巡ってしまった。多くの日本メディアがその言葉を引用して伝えたが、私もその一端を担いでしまったことを謝罪しなければならない。
ワールドカップ・アジア最終予選のオーストラリア戦(6月12日、ブリスベーン)を扱った前回のコラムで、私はオーストラリアのホルガー・オジェック監督のこんな言葉を引用した。記事の冒頭の部分である。
「内田は、ファウルはしていない。私はテレビで確認した」
しかし、これは間違いだった。オジェック監督はこんなことは言っていなかった。
■「ウチダ…ファウル…」
以下しばらく「言い訳」になるので、読み飛ばしてもらっていい。
あの試合の後、私は超特急で書かなければならない原稿があり、試合後、先に行われた日本代表のアルベルト・ザッケローニ監督の会見が終わると、記者会見場でいつもの最前列から2列目の端に席を移して、原稿にかかり始めた。
目の前の記者が自分の話を聞いていなかったら、監督もいい気はしないと思ったからである。オジェック監督が入ってくると、そのテーブル上にレコーダーを置き、会見を聞きながら原稿を書き続けていた。
オジェック監督の口から「ウチダ…ファウル…」という言葉が出るのを聞いたのは、原稿が終わりかけていたころだったと思う。はっとして顔を上げると、通訳の女性が前述のように日本語に訳して語った。
非常に印象的な言葉だったので、すぐにノートにメモした。そしてその通訳の言葉で会見は終わった。急いで原稿を書き上げて送稿すると、レコーダーを回収し、荷物を片付け、慌ただしく空港に向かった。
■機中でコラムを執筆
日本経済新聞電子版のコラムを書いたのは、ブリスベーンを飛び立った深夜便の機中だった。キャセイ・パシフィック航空はエコノミークラスでも全座席に電源がついていたし、前の座席が倒れてこないタイプのシートだったので、非常に助かった。
薄暗い機内で、ひざの上の公式記録とノートを見ながら、パソコンと格闘するように書いた。
日本が取られたPKのシーンについて、ザッケローニ監督とオジェック監督の言葉を並べて冒頭に置いたのは、オジェック監督の言葉(と信じ込んでいたもの)がとても印象的だったからだ。
なにしろ、試合相手に与えられたPKを「ファウルではない」と語ったのだ。あの試合があのPKだけで左右されたわけではないが、いずれにしても、ガムディ主審(サウジアラビア)が「自作自演」のように試合を曲げてしまったのは間違いないことだった。
当然ながら、私はこの時点でオジェック監督の言葉を確認すべきだった。レコーダーは機内持ち込みの荷物の中に入っていた。だが、20分ほどの時間を惜しんだわけではないが、そのときの私は聞き直す必要性さえ感じていなかった。
香港経由で羽田についたのが13日の午後。空港で原稿を送り、ようやく締め切りに間に合わせることができた。
■ミリガンへの判定についてのコメントだった
オジェック監督の記者会見を聞き直したのは、後になってのことだった。オジェック監督には浦和の監督時代に何回もインタビューしたことがあり、どんな人物か、ある程度のイメージがあった。そのイメージと、(通訳の口から)聞いた言葉に何となく違和感があった。
聞き直して驚いた(ここからは言い訳ではなく、前回書けなかった事実なので、ぜひ読んでほしい)。
オジェック監督は、PKにつながった後半24分の日本代表DF内田篤人(シャルケ)のプレーの話をしていたわけではなかった。
彼が言及したのは、後半10分、内田へのファウルで2枚目のイエローカードを出され、退場となったオーストラリアMFマーク・ミリガンのプレーについてだったのだ。
■「内田に触れてさえいない」
「ミリガンに出された2枚目のイエローカードについてどう思うか」というオーストラリア人記者からの質問だった。質問者にはマイクが渡されないため、非常に聞きづらい状況だったが、オジェック監督は以下のように答えた。
「はい、私はこれについては確かな考えをもっています。あれは絶対にファウルではありませんでした。あとでテレビのリプレーも見て、確認しています。内田が頭からボールに飛び込んできましたが、ミリガンには背後からくる内田が見えなかったので、プレーを続け、シュートしようとしました」
「彼は内田に触れてさえいないので、絶対にファウルではありません。レフェリーがどんなポジションにいたのか分かりませんが、私の場所からは危険なプレーのようには見えませんでした」
この言葉を通訳は「内田はファウルはしていません。私はテレビで確認しました」と訳したのだ。
なぜ、このようなことになってしまったのか。
■パニックのなかでの誤訳
この通訳は、当然のことながらホームであるオーストラリア・サッカー協会が手配し、試合の日だけやって来た(前日の記者会見は、別の人物が通訳に当たっていた)。
不安な感じはあった。会見の半ばで、オジェック監督が英語で話したのを受けて、英語で通訳を始めてしまい、隣に座っていたオジェック監督が笑って「それは英語だよ」と注意したシーンがあった。
そのときには、会見場内も穏やかな笑いに包まれた。だが、さて日本語にしようとしたとき、彼女の記憶はまったく飛んでいて、言葉が出なかった。
オジェック監督が何を話したか分からなくなってしまったのだ。慌てて聞き直し、簡単な訳をしたが、この時点でパニックになってしまったようだ。
そしてこの最後の質問自体を、彼女はよく聞き取れなかったのではないだろうか。質問の内容が分からず、それもあってオジェック監督の言葉に集中できなかったため、「ウチダ」「ファウル」という言葉から短絡的にあのような「誤訳」をしてしまったのではないだろうか。
■もしザッケローニ監督の通訳だったら…
サッカーの世界では、通訳の役割がますます重くなっている。とくに監督につく通訳の能力は、監督の仕事の成否を半ば握っているといっても過言ではない。
ドイツ人ではあっても、オジェック監督は流ちょうな英語を話すので、オーストラリアの選手やメディアとの間のコミュニケーションに問題はない。
6月12日の試合後の通訳は、日本メディア用のサービスだから、オジェック監督の仕事に影響を与えるわけではない。
だが、これがもしザッケローニ監督の通訳だったら、メディアとの関係どころか、日本代表チーム自体がばらばらになってしまっただろう。
幸いなことに、現在、ザッケローニ監督の通訳を務めている矢野大輔さんは監督がイタリアのトリノで指揮を執っていたとき、当時そのチームに在籍していたFW大黒将志(現在横浜M)の通訳をし、ザッケローニ監督から信頼を受けた人物だ。
単にサッカーというだけでなく「ザッケローニのサッカー」を熟知し、それをきちんとした日本語で表現する力と、何よりも誠実さがある。ここまでザッケローニ監督の仕事がうまくいってきた功績の一部は、彼のものといってよい。
■就任記者会見での混乱
実は、ザッケローニ監督の就任記者会見ではこんなことがあった。そのときは矢野さんではなく、日本サッカー協会とザッケローニ監督との間に入って契約の話を進めた人が通訳に当たった。彼は日本語もイタリア語も流ちょうに話し、サッカーに関する知識も豊富なのだが、通訳というのはそれだけでは務まらないらしい。
ザッケローニ監督の言葉、考えを分かりやすい日本語に置き換えることができず、会見は大混乱となった。今後、ザッケローニ監督はきちんとした仕事ができるのかと、私だけでなく、多くの記者が大きな懸念を抱いたのである。
しかし、ザッケローニ監督が実際に指導を始め、指揮を執るころには矢野さんが通訳として着任。それ以降は選手との間も、メディアとの間も非常にうまくいっている。
■ザック監督より前に5人の外国人監督
日本代表には、ザッケローニ監督より前に5人の外国人監督がいた。
オフト監督(オランダ、1992~93年)のときには協会もまだ財政が豊かではなく、協会職員の鈴木徳昭さんが通訳にあたり、英語でコミュニケーションがとられた。
ファルカン監督(ブラジル、94年)には、ポルトガル語通訳の向笠直さんが通訳を務めた。ファルカン監督は日本サッカー協会から「コミュニケーション不足」を指摘され、わずか1年で任を解かれたが、これは向笠さんの通訳が悪かったわけではなく、ファルカン監督の問題でもなく、どちらかといえば日本サッカー協会が「外国人監督」の扱い方に習熟していなかったことが最大の要因だった。
トルシエ監督やジーコ監督を支えた通訳
だが、98年にトルシエ監督(フランス、98~2002年)を招へいしたころには、通訳の重要性を理解し、十分な予算もとられた。
最初はパリ在住で日本サッカー協会の仕事をしている茂木哲也さんが務めたが、後にトルシエ監督のパーソナルアシスタントとなったフローラン・ダバディさんがチームとの間の通訳を務め、記者会見は「日本のフランス語通訳の第一人者」と言われる臼井久代さんが担当するようになった。
臼井さんは歴代の代表通訳のなかで唯一の女性だが、サッカーへの理解も早く、トルシエの魂を見事に日本のメディア、ファンに伝えた。トルシエ監督と一部メディアの間にあった緊張感は、臼井さんの責任ではなく、100パーセント、トルシエ監督が意図的に仕掛けたものだった。
ジーコ監督(ブラジル、02~06年)の通訳は鈴木国弘さんだった。ジーコが選手として鹿島アントラーズ(当初は住友金属)にやって来たときからの通訳で、ジーコ監督も絶大な信頼を置いていた。鹿島というクラブが軌道に乗ったのも、鈴木さんの力が大きい。
■オシム監督の通訳は国際政治学者
ジーコ監督の後を受けたオシム監督(ボスニア・ヘルツェゴビナ、06~07年)の通訳は、千田善さんだった。
オシム監督がジェフ市原・千葉の指揮をとっていたとき(03~06年)には間瀬秀一さんが通訳だった。コーチ修行中だった間瀬さんは通訳という仕事の専門家ではなかったが、オシムの情熱をよく理解し、「オシム語録」として日本のサッカー界に大きな影響を与えた。
千田さんは旧ユーゴスラビア関係の著書をいくつももつ国際政治学者・ジャーナリストだったが、敬愛するオシム監督の通訳を志願した。
オシム監督の考えを忠実に伝えることで、日本代表の成長に寄与し、メディア(=ファン)にオシム監督がやろうとしていることをしっかりと伝えてくれた。
■「通訳も戦力」
「通訳だって大事な戦力」と、千田さんは胸を張って語る。
コミュニケーションと相互理解、意思統一は、現代のサッカーチームに欠くことのできない要素といえる。さらにチームを預かる監督は、ファン(社会)の理解を得ることで、自分自身の仕事に専念することができる。
98年以降の日本代表の急成長の背景には、優秀な通訳たちの身を削るような仕事があったことを忘れることはできない。私たちメディアの仕事も、通訳が優秀かどうか、正確に伝えられているかどうかで、大きく左右される。
だが、それでも、今回のオジェック監督のコメントについては、誤訳をした女性のせいにはできない。オジェック監督は分かりにくい英語を話す人ではないし、私自身が彼という人間を知らないわけではないからだ。
今回の間違いは、記事を書く前に録音を確認しなかった私自身の責任以外の何ものでもない。心から謝罪したい。