大日本帝国が夢みた“大東亜共栄圏”とは一体何だったのか? 太平洋戦争と東アジア情勢から見る功罪
「歴史人」こぼれ話・第39回
第一次世界大戦後、日本は長らく恐慌の時代を迎え、国内では五・一五事件や二・二六事件をはじめとするテロやクーデターの嵐が吹き荒れた。やがて国際社会に背を向けて国際連盟を脱退した日本が目指したのは、大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)の実現だった。果たして、それは一体どのような構想だったのだろうか。
■「東亜新秩序」の建設
大東亜共栄圏とは、日中戦争、太平洋戦争を背景に、第二次近衛内閣から東条内閣へと受け継がれた日本の対アジア基本的政策構想である。対外的には、欧米各国との植民地争奪戦争であり、結果的に、日本は多くの人命と海外植民地を失った。
始まりは、1931年9月の満洲事変(まんしゅうじへん)だった。当初は「日満一体」を唱え、中国北部を植民地とし、ソ連(現ロシア)からの防衛永久基地の建設を目指すものに過ぎなかった。しかし、日中戦争へと拡大するにつれ、対外的なアピールとして中国侵略を「東亜新秩序」の建設と声明した。
この時には日本・満洲・中国に限定された構想に過ぎなかったが、1941年6月の独ソ開戦により、ソ連からの脅威がなくなってきた。さらに、このころからの日本の軍事力増大に圧力を感じ始めた東南アジアやインドなどの欧米宗主国が、日本への軍需物資輸出を停止し始めた。
これに対応して、鉄鉱石、石油、ゴムなど軍需物資生産地となる東南アジア各地を植民地化し、欧米に対抗しようという、大東亜共栄圏構想が生まれた。この構想は、欧米の植民地支配に代わって日本を中心とした東亜の諸民族による共存共栄を樹立することを掲げ、日本のアジア支配を正当化しようとしたものである。
「大東亜共栄圏」は、太平洋戦争開戦直前の1940年7月、外務大臣松岡洋右(まつおかようすけ)が最初に使った言葉だといわれるが、日本を盟主に東アジアに共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという発想は古くからあった。日清、日露戦争直後から、主として日本軍部、とくに日本海軍が強く主張していた。いかに大艦巨砲(たいかんきょほう)で編成された艦隊でも、石油なしではただの鋼鉄の浮船にすぎなかったからである。
■大東亜会議と大東亜共同宣言
1941年12月、日本はハワイの真珠湾、フランス領インドシナ(現ベトナム)、英領香港、シンガポールなどを奇襲、太平洋・東アジア戦争が開戦した。日本軍は連戦連勝し、東南アジア諸地域を欧米列強の植民地支配から「独立」させた。この時独立した「大東亜共栄圏」の各国首脳が1943年、東京に集まって大東亜会議を開催し、「大東亜共同宣言」が採択された。この会議に参加した各国首脳は、満州の張景恵(ちょうけいけい)、中華民国の汪兆銘(おうちょうめい)、インドのチャンドラ・ボース、ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ、タイのワラワン親王、フィリピンのホセ・ラウレルなどであり、日本の東条英機(とうじょうひでき)首相が主宰した。
会議後、参加各国の首脳名で、欧米列強の植民地支配下にあったアジア諸国を解放し、日本を盟主とした共存共栄のアジア経済圏をつくろうという大東亜共同宣言が全世界に打電された。この宣言の根本方針は「満州、中国、東南アジア、インドにおいて、大日本帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立する」ことにあった。
アジア諸国が一致団結して欧米勢力をアジアから追い出し、日本・満洲・中国・フィリピン・タイ・ビルマ・インドを中心とし、フランス領インドシナ(現ベトナム、ラオス、カンボジア)、イギリス領マラヤ、北ボルネオ(現マレーシア連邦)、オランダ領東インド(現インドネシア)、オーストラリアによる政治・経済的な共存共栄を図ろうという、当時全世界の人口で3分の2、領土で3分の1を版図とする壮大な政策だった
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