デハ3500形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 10:21 UTC 版)
「東急3000系電車 (初代)」の記事における「デハ3500形」の解説
元は東横電鉄のモハ1000形である。1939年より川崎車輛にて22両が製造された。東急成立後にデハ3500形へと改称されている。 詳細は「東急デハ3450形電車#デハ3500形」を参照
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デハ3500形
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「東急デハ3450形電車」の記事における「デハ3500形」の解説
元は東京横浜電鉄のモハ1000形である。1939年より川崎車輛にて22両が製造された。大東急成立後、デハ3500形へと改称されている。 大正末期に出現し、昭和に入るや急激に成長を遂げた鋼製車体の製造技術が、十数年を経て一応の円熟期を迎えた頃の電車である。それだけに一部にリベットが残るものの、従来車より窓が大きくなり全体的には非常に均整の取れたスタイルとなっていた。 製造当初、将来路線を標準軌に改軌して横浜から京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)へ乗り入れることを想定していたことから、台車は標準軌用への改造が可能な長軸台車が使用されている。また、日本の電車としてはいち早く、加速を滑らかにする効果のある多段制御器(日立MMC形電動カム軸式)を搭載したことも画期的であった。 戦後は片隅両運転台から全室片運転台とされ、さらには中間にサハを挟むために偶数車の方向転換が行われた。また、前面の貫通化は後述のデハ3508を除き行われていない。このため、デハ3450形のように車両によって向きがまちまちであったり、貫通・非貫通の差異などの著しいバリエーションはなく、更新後に前面中央窓が1段ないし2段であったり、客用ドア窓の大小がある程度で形態的な個体差は少ない。 その中にあってデハ3508は、戦時中に発生した火災からクハとして応急復旧され(クハ3657)、1950年に後世の8090系などのステンレス車や東急バスを彷彿させる銀地に赤帯の試験塗装編成(銀バス塗装、銀電などと呼ばれた)へ組み込まれ、1959年には唯一の前面貫通・ノーシルノーヘッダー車体への更新改修が行なわれるという大きな転変をたどった。また、デハ3513も元住吉工場での改修中に全焼し、1951年東急横浜製作所で復旧している。復旧後は3500形中で全室片運転台車のトップを切り、リベットレス車体となったほか、蛍光灯照明導入でひときわ目を引いたが、末期はベンチレータ配置に微妙な差異があるほかは他車と大きな違いはなかった。 窓のアルミサッシ化などの車体改装を経て、サハ3250形・3360形・3370形を中間に挟んだMTM3両固定編成化に伴うサハへの電源集中化(電動発電機 (MG) 撤去)が行われた。末期にはさらに屋根張上げ化、前照灯・尾灯のユニット化(腰部両側へ)、行先表示板の電照方向幕(黒地白抜き)化などの改造が行なわれ、原型から著しく隔たった外観となった。前照灯を失った前面上部には、当初方向幕を取り付ける計画もあったが結局実現せず、屋根の深さが目立ってしまういささか異様な形態から、「海坊主」などというあだ名がついた。1980年代初頭までは全て目蒲線所属であり、末期に2 - 3編成が池上線に転出したものの、1989年の運用離脱まで目蒲線の主力として使用された。 本形式については、1989年の廃車後、他社への転出は生じなかった。デハ3501はしばらく長津田検車区に留置された後除籍、私立サレジオ学院に譲渡され、売店として使用されたが、のちに解体されて現存しない。なお、本形式の標準軌に改軌可能な長軸台車に着目した高松琴平電気鉄道から譲渡の打診があったものの、使用を目論んでいた長尾・志度線の重量制限を超過していることから実現には至らなかった。
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