嘆きの壁とは? わかりやすく解説

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なげき‐の‐かべ【嘆きの壁】

読み方:なげきのかべ

Wailing Wallエルサレム旧市街西側城壁一部呼称ユダヤヘロデ時代改築され紀元70年ローマ軍によって破壊されエルサレム神殿唯一の遺構ユダヤ人聖地とされ、中世以来ユダヤ人はこの壁に額を押し当て聖なる都滅亡神殿荒廃嘆き、その回復復興祈ってきた。

嘆きの壁の画像
撮影Ministry of Tourism; Photo taken by Noam Chen https://goo.gl/VZolOH
嘆きの壁の画像
祈る人撮影・Montecruz Foto https://goo.gl/77GTsk

なげきのかべ 【嘆きの壁】

エルサレムにあるユダヤ教徒聖地旧市街の東にある石の周壁西壁一部で、古代イスラエル神殿遺構とされ、ユダヤ教徒はその喪失嘆いて再建を祈る。イスラム教徒も「天馬壁」呼んで聖地とみなす。

嘆きの壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 13:41 UTC 版)

嘆きの壁
הכותל המערבי (HaKotel HaMa'aravi)
嘆きの壁
エルサレム旧市街における位置
別名
  • [The] Wailing Wall
  • [The] Kotel
  • Al-Buraq Wall الْحَائِط ٱلْبُرَاق (Ḥā’iṭ al-Burāq)
所在地 エルサレム
座標 北緯31度46分36秒 東経35度14分04秒 / 北緯31.7767度 東経35.2345度 / 31.7767; 35.2345座標: 北緯31度46分36秒 東経35度14分04秒 / 北緯31.7767度 東経35.2345度 / 31.7767; 35.2345
種類 古代の石灰岩の壁
所属 神殿の丘
全長 488メートル (1,601 ft)
高さ 露出部分: 19メートル (62 ft)
歴史
建設者 ヘロデ大王
資材 石灰岩
完成 紀元前19年
追加情報
状態 Preserved
嘆きの壁
嘆きの壁

嘆きの壁(なげきのかべ、ヘブライ語: הכותל המערבי‎、アラビア語: حائط البراق‎)は、ヘロデ大王時代のエルサレム神殿の外壁のうち、現存する部分。神殿はユダヤ教で最も神聖な建物であった。

概要

訪れた人々が壁に触れて祈りをささげるため、人の背の高さの壁部分が黒ずんでいる

紀元前20年ヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張された神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分であり、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいる。この部分を含め、外壁はその基礎部分がほぼすべて残されている。

名称

古いユダヤの書物の中に「神殿の西壁」[1]との言及がある。しかしこの壁が「嘆きの壁」か、それとも神殿群の別の壁かは不明である。現在の「嘆きの壁」に関する最も古い記述は、11世紀の詩人アヒマアツ・ベン・パルティエル英語版によるものとされる。現在広く使われている英語の名称「Wailing Wall」は、1917年にイギリス人によってつけられたとされ[2]、これは19世紀のヨーロッパの旅行者が、この壁を「ユダヤ人が嘆く場所」[3]と呼んだことに由来する[4][5]

なお「嘆きの壁」の単語自体は、古くからのアラビア語 el-Mabka(「涙の場所」の意)の直訳である[6]。「嘆き」とは、神殿の破壊を嘆き悲しむために、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現している。

なお、イスラム教の預言者ムハンマドが、彼を乗せて天に昇った動物「ブラーク」をこの壁につないでおいたという伝説があり、1920年代に壁の所属を巡って、アラブ人とユダヤ人の間の緊張が高まった際、アラブ人はこの壁を al-Buraq と呼んだ[2]

詳細

嘆きの壁の全長は約490mに及ぶが、一般には神殿の丘の西側外壁のうち地上に見えている幅約57mの部分のみを指す。この部分は広場に面しており、壁の前が礼拝の場所になっている。これ以外に壁を外から見ることができるのは南側の約80mと、神殿の丘の「鉄の門」[7]の近くにある小さい西の壁[8]であり、それ以外の壁は居住用の建物に隠れている。 ユダヤ教徒が壁に手を触れ祈りをささげている。 神殿の丘にあたる場所は元は自然の高台であり、紀元前10世紀頃からすでにこの上に神殿(エルサレム神殿)が建てられていた。これが紀元前19年頃になってヘロデ大王によって大幅に拡張された。これが現在の神殿の丘であり、その西側の土留壁が現在の嘆きの壁である。

広場の前における壁の高さは約19m。地下に埋まっている部分も含めると32m。積み上げられた石は地上28段、地下17段の計45段[9]

祈りを捧げる人々(2013年)

地上7段目まではヘロデ大王の時代のものである。エルサレム地方で採れる石灰岩のエルサレム・ストーン英語版の中でもメレケ英語版という種類の石が使用されている。旧市街のムスリム地区にある採石場のゼデキアの洞窟英語版[10]か、旧市街の4km北にあるラマット・シュロモ町英語版[11]の採石場から切り出されたとみられる。1個あたり2tから8tの重さがあり、さらに重いものもある。中でもウィルソン・アーチ[12](壁のそばにあるトンネル状の祈祷所)の中から見える西の巨石[13]は幅13m、重さは約570tに及ぶ。どの石にも深さ1.5cmの溝が5–20cm間隔で平行に刻まれている。ヘロデ大王時代はこの上にさらに付柱で飾られた高さ10m、厚さ1mの壁があり、その内側に沿って並べられた2重列柱の外壁として機能していたが、7世紀初頭の東ローマ帝国によるエルサレム侵攻によって破壊された。

地上8-11段目の4段は、ウマイヤ朝によって7世紀に追加された[14]。638年にエルサレムを支配下に置いたウマイヤ朝は、さらに691年に神殿の丘に岩のドームを建設している。

地上12–25段目の14段はオスマン帝国時代の1866年にイギリスの実業家モーゼス・モンテフィオーレ卿によって追加された。礼拝に訪れた人々を雨や陽射しから守るのがその目的であった。

地上26–28段目の3段はエルサレムのムフティーによって1967年に追加された[15]

歴史

嘆きの壁の歴史は、紀元前20年頃ヘロデ大王が改築した神殿の西壁として始まる。

70年にユダヤ人による反乱(ユダヤ戦争)があり、ティトゥス率いるローマ軍により鎮圧される。この際、エルサレムは炎上し、神殿は破壊され西壁のみが残った(エルサレム攻囲戦)。

バル・コクバの乱により、ユダヤ教徒のエルサレム立ち入りは禁止されていたが、ミラノ勅令により4世紀以降、1年に1日の立ち入りが許可されるようになる(詳細不明)。

1967年の第三次中東戦争以降、ユダヤ教徒はエルサレムへの立ち入りが許されるようになる。

2015年11月、パリ同時多発テロ事件への抗議と哀悼としてトリコロールの3色にライトアップした[16]。柵で仕切られた男女別の伝統的な礼拝が通例とされていたが、2016年1月31日にイスラエル政府は、男女で礼拝可能となる礼拝区域の設置を新たに承認した。

脚注

  1. ^ 英: western wall of the Temple
  2. ^ a b Halkin, Hillel (2001年1月12日). ““Western Wall” or “Wailing Wall”?”. Jewish Virtual Library. 2009年12月22日閲覧。
  3. ^ 英: wailing place of the Jews、仏: Mur des Lamentations、独: Klagemauer
  4. ^ Barclay, James Turner (1858). “Modern Jerusalem”. City of the Great King. Challen. pp. g.493 
  5. ^ Warner, Charles Dudley (1878). “Jerusalem”. In the Levant. Houghton. pp. g.45 
  6. ^ Becher, Mordechai (2005). “The Land of Israel”. Gateway to Judaism. Mesorah Publications. pp. g.265. ISBN 1422600300 
  7. ^ 英: Iron Gate
  8. ^ 英: Little Western Wall
  9. ^ The Story of the Kotel:Facts and Figures”. The Western Wall Heritage Foundation. 2007年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月22日閲覧。
  10. ^ Friedman, Thomas L. (1985年12月1日). “Quarrying History in Jerusalem”. New York Times. 2009年12月22日閲覧。 “Herod the Great certainly used it as the main quarry for building blocks needed to renovate the Temple and its retaining walls, including what is known today as the Wailing Wall.”
  11. ^ Lefkovits, Etgar (2007年9月12日). “Archeologists find 2nd Temple quarry”. en:Jerusalem Post. 2009年12月22日閲覧。 “An ancient quarry where King Herod's workers chiseled huge high-quality limestones for the construction of the Second Temple, including the Western Wall, has been uncovered in Jerusalem, the Israel Antiquities Authority announced Sunday(...)Dozens of quarries have previously been uncovered in Jerusalem - including ones larger than the present find - but this is the first one that archeologists have found which they believe was used in the construction of the Temple Mount itself.”
  12. ^ 英: Wilson’s Arch
  13. ^ 英: Western Stone
  14. ^ Ben Dov, Meir; Naor, Mordechai;Aner, Ze'ev (1983). “II:Architecture and Archaeology”. The Western Wall. en:Israel: Ministry of Defence Publishing House. pp. g.41–62. ISBN 965-05-0055-3 
  15. ^ Horovitz, Ahron (2001). Jerusalem:Footsteps Through Time. en:Jerusalem: en:Feldheim 
  16. ^ After Paris massacre, the world turns blue, white and red for Franceattacks”. CNN. 2015年11月20日閲覧。

関連項目

外部リンク

ライブカメラ・動画・写真


嘆きの壁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 00:14 UTC 版)

嘆きの壁事件」の記事における「嘆きの壁」の解説

西暦70年ローマ帝国によってユダヤ教礼拝地であるエルサレム神殿破壊された。破壊を嘆くという意味で名づけられた嘆きの壁は、現在も残る神殿残骸である。西側外壁であるため西壁 (Western Wall)とも呼ばれ祈りの場所となっている。エルサレム神殿神殿の丘ハラム・アッシャリーフ)と呼ばれユダヤ教における聖地である。1967年第三次中東戦争で、神殿の立つエルサレム旧市街地占拠するまでの約1900年間、ユダヤ教徒自由に嘆きの壁に来て祈り捧げることはできなかった。 一方イスラム教徒672年アル=アクサー・モスクを、692年には岩のドーム神殿跡に建て、同地マッカマディーナに次ぐイスラーム教3番目の聖地とし、ここに現在まで続く嘆きの壁をめぐるユダヤ教徒イスラム教徒との紛争タネ出来た1928年9月男性女性祈祷者を分け習慣のあるユダヤ教徒達は、嘆きの壁で行うヨム・キプル祈り男女の境についたて(メヒッツァー)を置いた。これをイスラム教徒オスマン帝国時代定められた嘆きの壁区域における「建設禁止の項に反すると抗議した抗議を受けイギリス当局はこれを撤去するよう命じたが、ユダヤ人側もまた聖なる日を汚されたと憤慨したまた、エルサレム大ムフティーイスラム法権威者)であるアミーン・フサイニーパレスチナに住むアラブ人世界アラブ諸国中にユダヤ人達がアル=アクサー・モスク占拠しようとしている」というビラ配布し扇動活動行った

※この「嘆きの壁」の解説は、「嘆きの壁事件」の解説の一部です。
「嘆きの壁」を含む「嘆きの壁事件」の記事については、「嘆きの壁事件」の概要を参照ください。

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