封鎖突破船とは? わかりやすく解説

封鎖突破船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/13 09:05 UTC 版)

アメリカの封鎖突破船
(1899年の素描)

封鎖突破船 (ふうさとっぱせん、英語: blockade runner, ドイツ語: Blockadebrecher)とは、戦時に敵国によって封鎖された国家または地域に対し、戦争遂行に必要な資源・需品・武器などを封鎖を破って輸送する船を意味する。封鎖ランナーとも呼ばれる。

南北戦争

1861年から1865年にかけて戦われた南北戦争では北軍が南部連邦の海上封鎖を実施した。このため南部諸州は軍需、民需を問わず物資の欠乏に悩んでいた。このため南部海軍ではイギリスリバプールに代表部を置き、銃・砲・弾薬・軍装品等の買い付けや封鎖突破船の建造や購入を行っていた。イギリスの投資家もまたこの事業に目をつけ、封鎖突破船を建造した。その目的に沿って建造された船は機関の出力が大きく、視認されにくいように帆柱や煙突は低く、空気抵抗を減らすために後傾して作られていた。

それらの貨物は当時イギリス領であったバハマ諸島ナッソーバミューダ諸島まで合法的に、したがって北軍に妨げられることなく運ばれた。封鎖突破船は暗夜を選んでこれらの港を出航し、北軍の封鎖艦隊の隙をついて南部連邦の港に入港した。港に近づく前に見つかって追跡を受けた場合、砲台で守られた海岸に乗り上げることができれば、船を失っても積み荷の代価で十分な利益になったという。復路も十分快速な船であれば、綿花を積み込み同様に好条件を待ち、北軍の追跡船を振り切ってナッソーへ入港できたが、この帰りの航海の利益は行きの利益とは比べものにならないほど少なかった。

出港の際には黒煙で封鎖艦隊の注意を引かぬようにコークスを焚くことも行われた。北部海軍に拿捕される船も少なくなく、これらもナッソーに回航・係留されて競売にかけられた。封鎖突破船は北軍に拿捕されても、イギリス人乗組員は拘束されずに解放された。

第二次世界大戦

第二次世界大戦においてドイツ海軍は、1942年から1944年にかけて、大西洋インド洋の一部地域における連合国海上封鎖を突破して、同盟国である日本がそのほぼ全域を支配していたアジアおよびインド洋水域から、酸素魚雷や無気泡発射管、空母の設計図や水上飛行艇などの日本の最新の軍事技術情報や、ゴムスズモリブデン等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。往路には日本の必要とする工作機械等の軍需品を日本にもたらした。

日本海軍はドイツ船舶を「柳船」という秘匿名称で呼び、昭南ペナンなどの基地を提供しただけでなく、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。しかし、日本域内での留置き、撃沈や事故などにより、大戦終結後までにドイツの港まで帰れたのは17隻のうちの2隻に過ぎなかった。他にもイタリア海軍も潜水艦を派遣した。

文献

  • Heinz Schäffer、横川文雄訳『Uボート977』朝日ソノラマ、1984年。 
    • 訳者がドイツ大使館派遣員として見聞したアジア水域におけるドイツ海軍の動きが同訳書の付録「南海のドイツ海軍」に収められている。
  • 石川美邦『横浜ドイツ軍艦燃ゆ』木馬書館、1995年。 
    • 1942年11月30日、横浜港で起きたドイツの封鎖突破船と仮装巡洋艦の爆発事件の全貌。102人死亡。
  • 新井恵美子『箱根山のドイツ兵』近代文藝社、1995年。 
  • Erwin Wickert、佐藤眞知子訳『戦時下ドイツ大使館』中央公論社、1998年。 

関連項目

外部リンク


封鎖突破船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:17 UTC 版)

北軍による海上封鎖」の記事における「封鎖突破船」の解説

封鎖突破船は大きな比率北軍艦船の網をくぐり抜けたが、海上封鎖完成してくると、海軍哨戒線を破るに最も適した船のタイプは、小さく軽量で、喫水の浅いものだった封鎖突破には適していたが、南部が最も必要とする重い武器金属などの資材大量に運ぶには適していなかった。南部援助成功させるためには繰り返し航海する必要があったが、捕獲沈没危険性増した通常の船舶あまりに鈍くて目に付きやすく海軍からは逃れられなかった。それゆえに封鎖突破船は主にイギリス新造され、船高低く喫水浅く高速作られた。無煙炭燃焼させる蒸気機関によって推進される外輪船ならば速度17ノット (31 km/h)が期待できた。南部には十分な量の水夫船長集めるだけの人的資源それだけの船を作る造船能力がなかったため、多くの封鎖突破船はイギリス建造されイギリス人士官乗組員乗り込んでいた。イギリス個人投資家は封鎖突破船に恐らく5千万ポンド(2億5千万米ドル2006年価値25ドル)を遣った船員給与高かったイギリス海軍予備役士官場合、一航海給与ボーナス合わせて数千ドル(金で)を稼ぎ通常の水夫でも数百ドルを稼ぐことができた。彼らは闇夜に、500ないし700マイル800ないし1,100 km離れたイギリス領バミューダ諸島バハマ諸島あるいはキューバハバナとの行き来挑戦した。船には綿花テレビン油およびタバコのような輸出品ライフル銃薬品ブランディ下着およびコーヒーのような輸入品数百トン凝縮され付加価値貨物として運んだ貨物1トンあたり300ドルから1,000ドル輸送となった1月に2回往復すれば、恐らく25ドル収入人件費経費合わせて8ドル)が得られた。 1864年11月ウィルミントン卸売業者バミューダ代理人に、多くクロロフォルムを送るのを停止してその代わりに「コニャック香り」という香料が「極めて高く売れるので、それを送るように依頼した連合国愛国者達南軍兵士達ボロ着て飢えながら戦っているのに封鎖破り達が贅沢品暴利得ている事を軽蔑していたが、その反面その勇気独創性は国の生き残りのために必要だった奥地にいる多く女性輸入され10ドルの安ピカ物や50ドル帽子を、「にっくきヤンキー」が南部外部世界から孤立させることに失敗した愛国的証として誇らしげみせびらかした。リッチモンド政府最終的に輸送料を規制し輸入品半数武器弾薬であることを求めた。さらにその歳費で封鎖突破船を何隻か購入して運営し戦争必需品積まれていることを確実にした。1864年までに北バージニア軍兵士達輸入された肉を食べていた。封鎖破り両軍にとって適度に安全なのだった。まず封鎖突破する事は国際法上違法はないため罪を問われる心配はなく、捕獲され船舶乗っていた外国籍船員釈放され南軍の者は捕虜収容所送られた。封鎖突破船は基本的に武装しておらず(大砲重量封鎖突破困難にするため)、海軍艦船に危険は無かった封鎖破り貿易儲けになる(かつ短期間一例として、ナッソーバミューダから運行されバンシーがある。この船はノースカロライナ州ウィルミントンへの7回目航海捕獲されアメリカ海軍押収され封鎖船として使われた。しかし、その捕獲時にイギリス所有者にとっては7倍の利益生んでおり、所有者直ぐにバンシー2号建造し就航させ、間もなくその会社の封鎖突破船隊に加わった

※この「封鎖突破船」の解説は、「北軍による海上封鎖」の解説の一部です。
「封鎖突破船」を含む「北軍による海上封鎖」の記事については、「北軍による海上封鎖」の概要を参照ください。

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