封鎖突破船
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(1899年の素描)
封鎖突破船 (ふうさとっぱせん、英語: blockade runner, ドイツ語: Blockadebrecher)とは、戦時に敵国によって封鎖された国家または地域に対し、戦争遂行に必要な資源・需品・武器などを封鎖を破って輸送する船を意味する。封鎖ランナーとも呼ばれる。
南北戦争
1861年から1865年にかけて戦われた南北戦争では北軍が南部連邦の海上封鎖を実施した。このため南部諸州は軍需、民需を問わず物資の欠乏に悩んでいた。このため南部海軍ではイギリスのリバプールに代表部を置き、銃・砲・弾薬・軍装品等の買い付けや封鎖突破船の建造や購入を行っていた。イギリスの投資家もまたこの事業に目をつけ、封鎖突破船を建造した。その目的に沿って建造された船は機関の出力が大きく、視認されにくいように帆柱や煙突は低く、空気抵抗を減らすために後傾して作られていた。
それらの貨物は当時イギリス領であったバハマ諸島のナッソーやバミューダ諸島まで合法的に、したがって北軍に妨げられることなく運ばれた。封鎖突破船は暗夜を選んでこれらの港を出航し、北軍の封鎖艦隊の隙をついて南部連邦の港に入港した。港に近づく前に見つかって追跡を受けた場合、砲台で守られた海岸に乗り上げることができれば、船を失っても積み荷の代価で十分な利益になったという。復路も十分快速な船であれば、綿花を積み込み同様に好条件を待ち、北軍の追跡船を振り切ってナッソーへ入港できたが、この帰りの航海の利益は行きの利益とは比べものにならないほど少なかった。
出港の際には黒煙で封鎖艦隊の注意を引かぬようにコークスを焚くことも行われた。北部海軍に拿捕される船も少なくなく、これらもナッソーに回航・係留されて競売にかけられた。封鎖突破船は北軍に拿捕されても、イギリス人乗組員は拘束されずに解放された。
第二次世界大戦
第二次世界大戦においてドイツ海軍は、1942年から1944年にかけて、大西洋とインド洋の一部地域における連合国の海上封鎖を突破して、同盟国である日本がそのほぼ全域を支配していたアジアおよびインド洋水域から、酸素魚雷や無気泡発射管、空母の設計図や水上飛行艇などの日本の最新の軍事技術情報や、ゴム、スズ、モリブデン等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。往路には日本の必要とする工作機械等の軍需品を日本にもたらした。
日本海軍はドイツ船舶を「柳船」という秘匿名称で呼び、昭南やペナンなどの基地を提供しただけでなく、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。しかし、日本域内での留置き、撃沈や事故などにより、大戦終結後までにドイツの港まで帰れたのは17隻のうちの2隻に過ぎなかった。他にもイタリア海軍も潜水艦を派遣した。
文献
- Heinz Schäffer、横川文雄訳『Uボート977』朝日ソノラマ、1984年。
- 訳者がドイツ大使館派遣員として見聞したアジア水域におけるドイツ海軍の動きが同訳書の付録「南海のドイツ海軍」に収められている。
- 石川美邦『横浜ドイツ軍艦燃ゆ』木馬書館、1995年。
- 新井恵美子『箱根山のドイツ兵』近代文藝社、1995年。
- Erwin Wickert、佐藤眞知子訳『戦時下ドイツ大使館』中央公論社、1998年。
関連項目
外部リンク
- When Liverpool Was Dixie (リバプールの南部海軍駐英代表の活躍: 英文)
封鎖突破船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 02:17 UTC 版)
封鎖突破船は大きな比率で北軍艦船の網をくぐり抜けたが、海上封鎖が完成してくると、海軍の哨戒線を破るに最も適した船のタイプは、小さく軽量で、喫水の浅いものだった。封鎖突破には適していたが、南部が最も必要とする重い武器、金属などの資材を大量に運ぶには適していなかった。南部の援助を成功させるためには繰り返し航海する必要があったが、捕獲や沈没の危険性も増した。 通常の船舶はあまりに鈍くて目に付きやすく海軍からは逃れられなかった。それゆえに封鎖突破船は主にイギリスで新造され、船高が低く、喫水が浅く、高速に作られた。無煙炭を燃焼させる蒸気機関によって推進される外輪船ならば速度17ノット (31 km/h)が期待できた。南部には十分な量の水夫と船長を集めるだけの人的資源とそれだけの船を作る造船能力がなかったため、多くの封鎖突破船はイギリスで建造され、イギリス人の士官と乗組員が乗り込んでいた。イギリスの個人投資家は封鎖突破船に恐らく5千万ポンド(2億5千万米ドル、2006年価値で25億ドル)を遣った。船員の給与も高かった。イギリス海軍の予備役士官の場合、一航海で給与ボーナス合わせて数千ドル(金で)を稼ぎ、通常の水夫でも数百ドルを稼ぐことができた。彼らは闇夜に、500ないし700マイル(800ないし1,100 km)離れたイギリス領バミューダ諸島、バハマ諸島あるいはキューバのハバナとの行き来に挑戦した。船には綿花、テレビン油およびタバコのような輸出品、ライフル銃、薬品、ブランディ、下着およびコーヒーのような輸入品を数百トンの凝縮され高付加価値の貨物として運んだ。貨物1トンあたり300ドルから1,000ドルが輸送料となった。1月に2回往復すれば、恐らく25万ドルの収入(人件費と経費合わせて8万ドル)が得られた。 1864年11月、ウィルミントンの卸売業者はバミューダの代理人に、多くのクロロフォルムを送るのを停止して、その代わりに「コニャックの香り」という香料が「極めて高く」売れるので、それを送るように依頼した。連合国の愛国者達は南軍の兵士達がボロを着て飢えながら戦っているのに封鎖破り達が贅沢品で暴利を得ている事を軽蔑していたが、その反面その勇気や独創性は国の生き残りのために必要だった。奥地にいる多くの女性は輸入された10ドルの安ピカ物や50ドルの帽子を、「にっくきヤンキー」が南部を外部世界から孤立させることに失敗した愛国的証として誇らしげにみせびらかした。リッチモンド政府は最終的に輸送料を規制し、輸入品の半数は武器弾薬であることを求めた。さらにその歳費で封鎖突破船を何隻か購入して運営し、戦争の必需品が積まれていることを確実にした。1864年までに北バージニア軍の兵士達は輸入された肉を食べていた。封鎖破りは両軍にとって適度に安全なものだった。まず封鎖を突破する事は国際法上違法ではないため罪を問われる心配はなく、捕獲された船舶に乗っていた外国籍の船員は釈放され、南軍の者は捕虜収容所に送られた。封鎖突破船は基本的に武装しておらず(大砲の重量は封鎖突破を困難にするため)、海軍の艦船に危険は無かった。 封鎖破り貿易の儲けになる(かつ短期間)一例として、ナッソーやバミューダから運行されたバンシーがある。この船はノースカロライナ州ウィルミントンへの7回目の航海で捕獲され、アメリカ海軍に押収されて封鎖船として使われた。しかし、その捕獲時に、イギリスの所有者にとっては7倍の利益を生んでおり、所有者は直ぐにバンシー2号を建造して就航させ、間もなくその会社の封鎖突破船隊に加わった。
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