枡改めの実施
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/06 16:44 UTC 版)
枡改めに際して、枡座の手代達が全国に派遣された。この時、町奉行から幕府の伝馬役人に命じて街道筋の問屋年寄たちによる人馬の調達をさせて、江戸枡座の手代達は両町奉行連署の許可状を携行して、出先で自由に人馬の徴発が出来る権利が与えられた。 手代たちは、現地に着くとまず適当な場所を選定して枡改所とし、周辺の町年寄や惣代たちに枡の検定を行なうことを通知する。町年寄たちは町村内の枡と名のつくもの全てを集め、それぞれに所有者の住所氏名を記した貼紙をつけ、それに枡の種類や個数をまとめた届書を添えて、枡改所に持参する。商売によっては枡が無いと困る者がいるので、その者には2度に分けて行うことも認められた。枡座から発行されたものは、変造・変形などが無ければ検定済の焼印を押した。少々の破損はその場で修理して、1挺につき銀1分5厘の修理代を取り、大修理を要するものは所有者と相談して修理代を決めた。しかし枡座発行以外のものは没収して役所に引渡すことになった。 しかし、大名領においては協力的な藩ばかりではなく、協力に消極的な藩・藩の枡製作所の訴えにより枡改めに抵抗した藩・改めを完全に拒否した藩などがあった。 松本藩では、提出された枡が少ないことを枡座が抗議しても、それに対して特に何も手を打たなかった(『中世量制史の研究』)。 越後高田藩では、高田城下に枡座を設けて藩枡を自製していた町年寄達が、藩主に自分達の枡の正当性を訴え、藩はこれをそのまま幕府に伝達した。幕府は触書通り樽屋の枡を用いるべきと回答したが高田藩は応じなかった。これに対して枡座は高田城下に乗込んで枡改めを強行しようとしたが、高田の枡座は藩が幕府と交渉中だから江戸からの指令があるまで退去するよう命じ、樽屋の手代は成果を上げることなく帰還することになった。この後、枡座は安永9年(1780年)に高田に新京枡取次店を開設することを申入れるが拒否され、高田藩領の飛地小千谷に枡取次店を設けようとした時も拒否された。 天領である甲府においても枡の統一は実現できず、代官所は甲府の枡座・枡屋伝之丞を樽屋の手代とし、樽屋の極印を預けて甲州枡を発行させることになり、甲州枡は実質的に公定のものとなったのである(甲州枡参照)。 京枡座も、姫路藩が藩指定の者が新京枡と同一寸法の枡を製作し、大年寄が焼印をしたものを公定枡としているという理由で枡改めを行えなかった。ただし、その代りに姫路藩で藩独自の枡改めを行なったようである。 御三家の1つ紀州藩には水島家という藩指定の枡製作者がいて、明治に至るまで枡座製の枡は使用せず、枡改めの手代を入国させることも無かった。 枡改めに対する種々の抵抗に対し、枡座の手代には罰則を与えたり枡改めを強行したりする権限を与えられていなかったため、地元の役所に届け出る程度のことしかできなかった。
※この「枡改めの実施」の解説は、「枡座」の解説の一部です。
「枡改めの実施」を含む「枡座」の記事については、「枡座」の概要を参照ください。
- 枡改めの実施のページへのリンク