楊秋
建安年間(一九六~二二〇)初め、たびたび孔桂を使者として曹操のもとに送った。曹操は孔桂を騎都尉に推挙している《明帝紀》。 同十六年三月、司隷校尉鍾繇が漢中を征討せんと軍勢を催したとき、身の危険を感じた楊秋は、馬超・韓遂・李堪・成宜らとともに挙兵して潼関に布陣した。しかし曹操軍は蒲阪津から迂回して渭水を渡り、南岸に陣を布いた。馬超・韓遂らは曹操軍に敗れ、楊秋は安定に逃走した《武帝紀》。十月、長安から出撃した曹操軍が安定を包囲し、これに夏侯淵・張郃が合流すると楊秋は降服した《武帝紀・夏侯淵・張郃伝》。これまでの爵位を保証され、引きつづき安定に駐留して領民を鎮撫する《武帝紀》。 冠軍将軍に昇進し、延康元年(二二〇)、征羌護軍郭淮のもと、左将軍張郃とともに山賊の鄭甘や叛逆した盧水胡を討伐、すべて平定した。関中はこのとき初めて平穏になったのである《郭淮伝》。同年、楊秋は冠軍将軍・好畤郷侯として、漢朝からの禅譲を受けて帝位に登るよう、諸将・群臣とともに曹丕を説得している《文帝紀集解》 黄初年間(二二〇~二二七)、楊秋は討寇将軍・特進・臨涇侯に昇進し、のちに寿命を全うした《武帝紀》。 【参照】夏侯淵 / 郭淮 / 韓遂 / 孔桂 / 鍾繇 / 成宜 / 曹操 / 曹丕 / 張郃 / 鄭甘 / 馬超 / 李堪 / 安定郡 / 渭水 / 関中 / 漢中郡 / 好畤郷 / 長安県 / 潼関 / 蒲阪津 / 臨涇県 / 盧水 / 冠軍将軍 / 騎都尉 / 郷侯 / 侯 / 左将軍 / 司隷校尉 / 征羌護軍 / 討寇将軍 / 特進 / 盧水胡 |
楊秋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/04 14:56 UTC 版)
楊 秋(よう しゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将。
事跡
馬超・韓遂が曹操に敵対したとき、共に蜂起した軍閥の一人として名前が見える。建安年間の初め頃から、何度か部下の孔桂を曹操の下へ派遣した形跡がある。
211年10月、夏侯淵・張郃に降伏し、以前と同じ爵位を与えられた。
その後、反乱の鎮圧などで功績を挙げ、討寇将軍・特進へ昇進し、臨涇侯に封じられた。曹丕が献帝より禅譲を受け魏の時代になり、郭淮が曹真の長史として征羌護軍を兼ねると、楊秋は張郃と共にその監督下に入ったという。
延康元年(220年)、曹丕の家臣団が曹丕に対し、後漢からの禅譲を受けるよう勧めた『魏公卿上尊号奏』に、楊秋は冠軍将軍・好畤侯として曹洪・曹真・曹休・夏侯尚ら曹丕の親族や張郃・徐晃・張遼といった功臣たちより上位の八番目に名を連ねている[1]。
小説『三国志演義』では、韓遂の「手下八部」の武将の一人として登場する。馬超と韓遂が仲違いした際には、韓遂の降参の使者として曹操の下に参じ、列侯に採り立てられている。なお、演義で登場する「手下八部」(他の7名は侯選・張横・程銀・成宜・李堪・馬玩・梁興)は、正史にその名が登場する涼州の独立した軍閥の者達である。
- ^ 渡邉義浩 「魏公卿上尊号奏」にみる漢魏革命の正統性 2022-02-04閲覧
楊秋(よう しゅう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)
涼州軍閥の一人。他の軍閥勢力とともに馬超の乱に加担するが、夏侯淵の攻勢を前に降伏する。
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