特進
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特進(とくしん)とは、
特進(とくしん)とは、古代の中国で功臣に与えられた称号の一つ。唐では正二品の文官に対する散官とされた。
『宋書』百官志(上、巻39)には、「前漢世所置、前後二漢及魏、晋以為加官,従本官車服,無吏卒。晋恵帝元康中定位令在諸公下,驃騎将軍上。」とある。
前漢の宣帝の時代に許広漢が任じられたのが最初とされる。当初は、無官の列侯に対してのみ与えられた待遇で、官職に就いていないあるいは退いた者であっても、特進が与えられること(加官)によって朝廷の会議に参加することが許されていた。後漢に入ると高位の武官には儀同三司が与えられることで特進の上に立つことが出来るようになり、魏に入ると列侯の交替(漢の列侯の廃止と魏の功臣の列侯取立)とともに特進の待遇や位置づけが混乱したものの、晋代には礼制の再編によって列侯の上位に五等爵が導入されるとともに儀同三司とともに文官である光禄大夫の加官として位置づけられるようになった(ただし、儀同三司を特進よりも上に位置づける待遇も変わらず)。南北朝時代に入り、儀同三司や光禄大夫の地位から実際の役割が失われていくと、散官としての意味合いを持つようになり、唐に入ると実質文官最高の散官であった開府儀同三司に告ぐ散官として位置づけられた。
参考文献
- 藤井律之「特進の起源と変遷」『魏晋南朝の遷官制度』(京都大学学術出版会、2013年)第1章 (原論文:2001年)
特進
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その翌年の紀元前574年には士燮(范文子)が亡くなり、また、郤至(郤昭子)達三郤が誅殺されたりした為、智罃は短い間に下軍の佐から上軍の佐へと二階級も昇進した。 更に翌紀元前573年には、智罃の従甥で荀林父の孫にあたる次卿・中軍の佐の荀偃(中行偃、中行献子)が、正卿・中軍の将の欒書(欒武子)と共に厲公を弑した後、智罃は周へ出向き、襄公の曾孫の公孫周(後の悼公)を晋公として迎えた。この直後に欒書は引退し、荀偃も降格を申し出たため、智罃はその後釜として、次卿・中軍の佐へと再び二階級昇進した。僅か二年の間に、下軍の佐から一気に四階級も特進したことになる。 翌々年の紀元前571年、智罃は魯や斉や宋の軍と共に鄭を攻めるが、鄭ではちょうど成公が亡くなり、喪中にあったため、それを攻めることへの不実と君命との板挟みに陥ってしまう。だが、魯の仲孫蔑(孟献子)の進言を受け、それに従って鄭に近い晋の虎牢に城を築いて威圧することにより、直接戦闘することなく鄭を晋の傘下に収めるのに成功し、大いに面目を施した。
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