菱刈隆とは? わかりやすく解説

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菱刈隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/30 14:47 UTC 版)

菱刈隆
生誕 1871年12月27日
日本 鹿児島県
死没 (1952-07-31) 1952年7月31日(80歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1894年 - 1935年
兵科 歩兵科
最終階級 陸軍大将
指揮 歩兵第4連隊長
由良要塞司令官
第8師団長
第4師団長
台湾軍司令官
満洲国大使
勲章 勲一等旭日大綬章
勲一等瑞宝章
龍光大綬章
出身校 陸軍士官学校
陸軍大学校
配偶者
子女 隆教(三男)隆文(四男)寅之助(五男)隆永(六男)
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菱刈隆

菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日明治4年旧暦11月16日〉 - 1952年〈昭和27年〉7月31日)は、日本陸軍軍人外交官。最終階級は陸軍大将栄典勲一等功五級。幼名、幸吉。鹿児島県出身。

経歴

薩摩藩士、菱刈八郎太の三男として生まれる。成城学校を経て、1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、陸軍少尉に任官し、日清戦争では歩兵第3連隊付として出征した。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業。歩兵第26連隊中隊長、陸軍戸山学校教官、台湾総督府参謀を歴任。日露戦争では、第1軍参謀として出征した。

戸山学校教官、教育総監部課員、欧州出張、陸軍省軍務局課員、陸軍歩兵学校教官、歩兵第4連隊長、第2師団参謀長などを歴任。1918年(大正7年)7月、陸軍少将に進級し、歩兵第23旅団長、戸山学校長などを経て、1923年(大正12年)8月、陸軍中将に進級。由良要塞司令官第8師団長、第4師団長、台湾軍司令官などを歴任。1929年(昭和4年)8月、陸軍大将に進み、関東軍司令官、軍事参議官満洲国大使などを歴任。1935年(昭和10年)8月、予備役に編入され、1941年(昭和16年)4月に退役した。

1939年(昭和14年)に発足した大日本忠霊顕彰会会長(忠霊塔を参照)[1]、大日本剣道会会長も勤めた。

戦後、公職追放となった[2]

栄典

位階
勲章
外国勲章佩用允許

演じた人物

脚注

  1. ^ 大日本忠霊顕彰会が発会、戦跡にも建設『東京朝日新聞』(昭和14年7月8日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p481 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「公職追放に関する覚書該当者名簿加除追録 一般名簿追加」5頁。
  3. ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日。
  4. ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
  5. ^ 『官報』第4025号「叙任及辞令」1926年1月27日。
  6. ^ 『官報』第807号「叙任及辞令」1929年09月05日。
  7. ^ 『官報』第2129号「叙任及辞令」1934年2月8日。
  8. ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1936年4月7日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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