性能のいいコンドームが「安価」に「どこでも」手に入るようになったのなんてここ30年ほどで、
それ以前は手に入れるまでのハードルが高くてそんなに普及してなかったからね。
今じゃ考えられないが、80年代前半くらいまでは買い物はほとんど個人商店で買ってた。コンドームも個人商店の薬局でないと手に入らなかったり(生理用品なんかも。エロ本は個人商店の本屋で買うしかないから、わざわざ遠くの本屋まで買いに行ったりとか)。
それもコンドームというもの自体が性能が上がって安価になった80年代とかの話で。戦後何十年の間、コンドームなんてものは製品として未完成だったし。穴が開く危険とか普通に高かった。ゴムは今じゃ考えられないほど分厚かった。
そんな状況で女性はおいそれとセックスはできなかったんだよ。常に妊娠と隣り合わせだから。
そこでセックスしないということを神聖化する価値観を女性側からも作ったって側面がある。
子供作ってもいい状況=結婚後でないと怖くてセックスなんてできんかった。だから新婚初夜=本当の初夜であることは普通だった。
コンドームは初期のキャッチフレーズ通り、「家族計画」のためのものだった。今じゃこのフレーズも忘れられているが。
当時(終戦後から80年代前半くらいまで)はむしろ人口増加に悩んでいて、ポンポン子供作られると色々困るから、ある種の「政策」としてコンドームを「明るい家族計画」のツールとして広めさせた。当時は5人兄弟6人兄弟当たり前だった。
ところが、90年代のコンビニの普及とともに性能が進化したコンドームが匿名的に気軽に安価に買えるようになり、しかもそれから数年後、携帯電話の爆発的な普及によって状況は激変する。
本来、女性って言うのは「オスをとっかえひっかえ吟味して、最終的にいいオスを1匹手に入れたい」という欲望をもっていて、コンドームの普及がそれを可能にした。解放されたと言ってもいい。
それ以前は男女は「付き合わない」のが普通であって、「付き合う」という言葉は「結婚を前提として、本来は許されないはずの交際(付き合い)をする」という意味だった。
「彼氏」「彼女」という言葉には「おおっぴらに言えないあの人」という意味が含まれていた。
コンドームの普及とともに性的に解放された若者たちは、単に「ある程度の独占契約のもと、セックスもOKな遊び仲間」という意味を「付き合う」という言葉に込め、また単に「恋人」という意味のみを「彼氏」「彼女」という言葉に含めた。
それはとにかく役に立ってるんだと、成長なんだと。
ならば散々相手をとっかえひっかえ「経験」した現代人は、さぞかし数世代前の人たちに比べて人格的にお優れになっているんでしょうね。圧倒的に。
しかし実際のところ、経験論が生まれた動機は「オスをとっかえひっかえ吟味して、最終的にいいオスを1匹手に入れたい」という欲望」を正当化するために過ぎない。
が、それは言い換えれば、コンドームが普及していなかった頃、「生涯ただ1人の好きな人にだけ捧げる」という神聖化のもと、単に結婚しない妊娠を怖がっていたに過ぎないということの裏返しであり、表裏一体なんだ。
どちらも「状況において最適化した行動」をとっている。コンドームがなければ簡単にやらせないのは理にかなっているし、コンドームがあれば相手をとっかえひっかえ吟味するのも理にかなっている。
女性は何も変わっていない。状況が変わっているだけなんだ。女性の言葉を真に受けてはいけない。女性の言葉は常に言葉以外の意味しか持っていない。
逆に言えば、それさえわかっていればコントロールはできる。簡単にはできないかもしれないが、不可能ではない。
じゃあわかってるよね。社会のどういう状況に手をつければいいか。そう。禁止(もしくは異常に高い税金をかける)すればいい。コン、ド、、、を、、。
逆だろ、こういう状況だからコンドームがどこでも買えるようになったんだろ。 昔の感性で、非処女というだけで不利益を被った時代に、コンドームがあったからといって状況が変わる...
いい指摘。 「人の心が状況を作るのか」「状況が人の心を作るのか」という問題。