痛ましい事件が起きた。

 はじめにお断りしておくが、当欄では「神戸で小学校1年生の女の子が殺害された」という以上の細かい内容については触れない。

 私は、この種の事件について、踏み込んだり、分け入ったり、えぐり出したり、警鐘を鳴らしたり、再発の防止を訴えたり、「あなたのすぐそばにもほら」とか言って注意を促すタイプの報道を好まない。ついでに申せば、殺害の手法や、凶器の使い方や、遺体処理の手順や、遺棄に至る事情や、運搬方法や梱包のディテールについて、いちいちCGやら図面を使って、迫真の再現描写を展開する必要があるのかどうかについても、強い疑問を抱いている。

 もちろん、真相を究明することは大切なことだ。
 報道にたずさわる人間にとっては、犯行の詳細を知ることが、すべてに優先するミッションでもあるのだろう。

 とはいえ、取材して、究明して、真相を知ることと、その知り得た事実を読者なり視聴者なりに伝えることは別の次元の話で、後者については、もっと慎重であっても良いのではなかろうか。

 私は、この種の猟奇的な事件に対して、その衝撃に見合うエモーショナルな原稿を書くことがジャーナリズムの使命だとは思わないし、少なくとも、自分のやるべき仕事であるとはまるで考えない。

 というよりも、私は、このテの出来事が苦手なのだ。
 見出しの文字面を見ただけで胸が悪くなる。
 であるならば、目をそらしたい現実からは目をそむけるのがまともな人間だと考える考え方があっても良いはずだ。

 実際の話、捜査当局の関係者でもなければジャーナリズムの戦士でもない人間が、どうして、「真相」に迫り、「現実」に直面し、「リアル」な現場の空気に触れる必要があるというのだ? 寝覚めが悪くなるだけではないか。 

 佐世保の事件(15歳の少女が同級生を殺害した事件)の折り、「再発を防ぐために」という言葉が、それこそ合い言葉のように繰り返されていたことは、いまだ記憶に新しい。

 今回の事件についても、例によって、再発の防止、動機の解明、心の闇のなんたらといったお話が連呼されている。

 思うに、事件について報道している人たちが、外形的な事実を伝えたあとに、その種の建前を開陳したくなるのは、おそらく、彼ら自身が、自分たちの伝えている事件のむごたらしさに辟易しているからだ。
 ひどいニュースを伝えたあとには、せめて前向きな話でコーナーを締めくくりたくなる、と、そういうことなのだと思う。

 あるいは、もう少し意地の悪い見方をするなら、彼らは、自分たちの伝えている事件報道が、興味本位のパパラッチ暴露であり、数字狙いの出歯亀サイコホラーレポートであることを自覚しているわけで、だからこそ、記事の末尾に視聴者の覚醒を促す実践知識や、ハイブローな文明批評を付け加えてバランスを取りに行っているということなのかもしれない。

 容疑者が逮捕された翌日、朝日新聞は、『子ども連れ去り、昨年94件 狙われる下校時間帯』という記事を掲載した。

 内容は、昨年1年間に13歳未満が被害にあった略取・誘拐事件が94件あったとする警察庁によるデータを踏まえて、各地の自治体や学校の取り組みを紹介しつつ、その問題点に触れたものだ。

 全体としてバランスのとれた記事だとは思うものの、見出しにも取り上げられている「94件」という数字について特段の説明が無い点が、やはり不自然だ。

 というのも、別のデータを見ると、子供が被害者となる犯罪は、実は、明らかな減少傾向にあるからだ(こちら)。

 リンク先にある表で、小学校就学前の幼児が被害者となった殺人事件の数を見ると、1975年に377人であったものが、2007年には59人になっている。同じく、小学生を被害者とする殺人も、1975年の62人が、2007年には23人に減っている。ざっと見て、幼児殺人被害はこの30年ほどで、5分の1ほどに減少している感じだ。なお、2013年はそれぞれ、42人、26人となっている(元データは警察庁「平成25年の犯罪情勢」の90ページ、「図表2-13-(2)-3 就学別の犯罪被害件数」)。

 本来なら、新聞の記事でも、テレビの報道でも、子供に関する犯罪が減少している傾向について一言触れるべきだと思う。
 でないと、いたずらに危機感ばかりが強調されることになる。

 が、メディアは危機感を煽る形式の話型を好む。
 犯罪が減少しつつあることを示すデータを知らせずにおいた方が、自分たちの伝えるニュースのインパクト(←子供を狙う犯罪の悪質さと、隣に住んでいるかもしれない犯人の恐ろしさ)を極大化する上で有利だからそうしているのか、それとも、ほかに深い考えがあってのことなのか、詳しいところは私にはわからないが、とにかく、彼らは、読者や視聴者により大きな恐れを抱かせる

 意地の悪い言い方をしてしまった。
 メディアの人たちが、自分たちの伝えているニュースの重要さを過大に演出するためにデータを隠蔽しているという見方は、いくらなんでも根性の悪い観察だったかもしれない。

 彼らは、単に、犯罪防止のためには、強い危機意識を訴えた方がベターだと考えていて、それゆえ、あえて、視聴者に安心を与えるデータを知らせずに済ませているのかもしれない。そう考えることもできる。

 結局のところ、商業メディアは、数字が取れるからという理由で、この種のむごたらしい事件に群がっている。で、そのむごたらしさをより恐ろしい身近な恐怖として描写するために、あえて犯罪減少のデータを隠蔽している。でもって自分たちのやらかしているセンセーショナリズム一辺倒の見世物小屋報道の印象を薄めるべく、やれ再発の防止がどうした、心の闇の解明が蜂のアタマといった調子のおためごかしの演説をぶっているわけだ。

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