クリント・イーストウッドの主演・監督映画の最新作「グラン・トリノ(Gran Torino)」の日本でのロードショーが4月下旬に始まり、映画館に見に行った。ため息をつくほど、しびれた。

 良くも悪しくも、映画にはその時代を代表するような作品があり、世間の雰囲気、思潮を鋭く反映している。ずっとアメリカ映画を見続けている私には、過去10年間で右から左へ、驕りから自戒、そして再生へと向かう流れを感じる。ちょっと振り返ってみよう。

アメリカの驕り、「絶対悪vs.絶対正義」

 1996年のアメリカSF映画「インデペンデンス・デイ(Independence Day)」は、地球に襲来した異星人の侵略に対して、かつて空軍の戦闘機パイロットだったアメリカ大統領自らが戦闘機に乗り、戦闘機部隊を指揮して戦う物語だ。映画の最後に異星人撃退を果たした日を「ニュー・インデペンデンス・デイ」として祝う。

 この構図は、「絶対悪(地球を侵略する異星人)」に対して人類の自由と独立を防衛する「絶対正義」の戦いである。その先頭に立つのがアメリカであり、アメリカ人による祖国の防衛が、絶対悪から世界人類の自由を取り戻すための戦いと何の疑いもなく同一視される。そういう意味で、「アメリカ帝国のイデオロギー」が、無邪気かつ露骨に横溢した映画だった。

 この映画が発信するイメージは「異星人」を「テロリスト」に置き換えれば、ジョージ・W・ブッシュ大統領が9・11以降のいくつもの演説の中で繰り返したビジョンそのものである。この映画が封切られたのは96年であり、2001年の9・11(米同時多発テロ)の5年前である。9・11テロを受けてブッシュ大統領はテロという「絶対悪」に対する宣戦布告を行った。映画のビジョンは「対テロ戦争」として現実のものになった。

秘められた含意:帝国主義への風刺

 拙著『ラーメン屋vs.マクドナルド』(新潮新書、2008年)で取り上げたが、この映画との対比で見ると興味深い含意を秘めているのが、2005年にスティーブン・スピルバーグ監督によって映画化された新版「宇宙戦争(War of The Worlds)」である。

 スピルバーグ監督は、異星人襲来という恐怖の臨場感を盛り上げるために、9・11テロをアメリカ人に想起させる様々な仕掛けを映画の中に巧みに設定した。ところがそうした分かりやすい仕掛けのもう一つ奥に、9・11とは対極をなす別のイメージを仕込んだ。

 映画の中で、異星人の超ハイテク兵器が轟音を発し、夜の闇に閃光が走り、市民は逃げ惑い、パニックとなる。それを見ているうちに、「米軍のハイテク兵器の攻撃にさらされたバグダット住民の恐怖も、このようなものだったのではなかろうか…」という直感が強烈に浮かんできたのだ。

 スピルバーグが9・11テロを想起させて恐怖感覚を煽る仕掛けのもう一つ奥に潜ませた含意が、ここにある。

 原作のH・G・ウェルズの『宇宙戦争』は、当時のイギリスによる植民地支配の寓話でもあり、非西欧世界にとっては大英帝国とはこの宇宙人のような存在ではないかという、皮肉で知的な問いが隠されていたという(藤原帰一著『デモクラシーの帝国』、岩波新書、2002年)。

 スピルバーグはウェルズが原作に託した含意を見事に今日のアメリカに当てはめて復元したのだ。しかし、この映画を見てそこまでくみ取れたアメリカ人は決して多くはなかった。

人類から地球を守る?

 2008年に封切られた「地球が静止する日(The Day the Earth Stood Still)」は、やはりオールドSFファンには懐かしい同じタイトルの1951年映画のリメイク版である。オリジナルの1951年版は冷戦と原水爆戦争の危険に対する警告のメッセージが強かった。

 2008年版では、ニューヨークのセントラルパークに宇宙から飛来した球状物体(宇宙船)が着陸する。中から出てきたのは銀河の超高度諸文明からの使者クラートゥと巨大ロボットである。

 使者クラートゥとの会話で、米国の国防長官が「our planet」と言うと、クラートゥは不思議そうに首をかしげて言う「your planet?」。またヒロイン役のヘレン・ベンソン博士(ジェニファー・コネリー)が「あなたは人類の友人なのか、それとも敵なのか?」と問うと、「私は地球を救いに来たのだ」と答える。

 ところがその意味するところは、地球という惑星にとって破壊的な存在と化した人類から惑星地球と人類以外の生物種を救済することが彼のミッションであることがやがて明らかになる。そして人類滅亡プログラムが作動を始める。

 物語はもはや秘められた含意としてではなく、アメリカを舞台に、より直接に人類の存在のあり方の是非を問うわけである。「地球を侵略する異星人=絶対悪」という構図は180度逆転し、人類は裁かれる立場に置かれる。映画の中でクラートゥに対して、ヘレンがまだ人類には望みがあると弁護して口にする「We can change」というセリフが、バラク・オバマ大統領の選挙期間中のフレーズそのままだ。これはあまりにダイレクト過ぎて、ちょっと興醒めであるが…。

昔「荒野の用心棒」、今「グラン・トリノ」

 そして今年(アメリカでの封切りは昨年暮れ)登場したのがクリント・イーストウッド監督・主演の「グラン・トリノ」だ。今のアメリカが抱える諸問題、戦争の傷、民族間の偏見と対立、父と子・世代間の断絶、宗教のあり方、自動車産業の凋落まで、様々な諸相がこの映画では「イーストウッドの映画人生」という大鍋で煮込まれてシチューになったような味わいがある。少し粗筋を紹介するが、これから映画を見る人のために、キモネタは明かさないでおこう。

 主人公のウォルトはポーランド系の白人アメリカ人だ。1950年代初頭の朝鮮戦争に出兵し、部隊のほとんどが戦死するような激戦を戦い抜き、勲章をもらった。戦後は自動車メーカー、フォードの工場で組立工として定年まで働いた。フォードの1972年製グラン・トリノを愛し、今でもピカピカに磨き上げ、愛車にしている。引退し、デトロイトの郊外の住宅地ハイランドパークに住んでいるが、長年連れ添った妻が亡くなった。

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