忍者ブログ

グダグダ(β)

メンテナンス中/内容について一切保障できません
3/24アクセス解析再設置/不快に感じられる方はJavaScriptオフを推奨

MENU  ブログ内検索は左のMENUからできます

ENTRY NAVI

  • Home

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

お知らせ

ninja が新しく要求している連絡先(メールアドレス)を確保できないため、このブログは将来消えるかと思われます。現在は違反状態になっているようです。
消滅がいつごろになるかはわかりませんが、違反状態を放置するとも思えません。

また多忙の為、移転などの作業も時間が取れそうにありません。
寄留商人や真和志については別の場所でまとめなおしたいなと考えています。
それでは。

*一部非公開にしてあった記事を再公開します。多少問題があるものもありますがご容赦。
*場所がわからなかった「香港通り」は壷屋でした。
*「なみさと百貨店」は70年代後半に家事で全焼したようです。
PR

訂正

訂正はこちらに追加してゆきます。(誤字訂正を除く)
戦後を扱った記事は一部を除いてしばらく非公開にします。(1年くらい)
那覇市の区を大幅に見直す予定があります。
メンテナンスを実行中です。メンテナンスは断続的に行っています。

更新を停止します(2012.10.05)

松尾区(昭和26)

最新那覇市地図での松尾区(と周辺)を模写しました。歪んでいる部分があるので参考程度の精度です。
ここでの「松尾区」は1〜11区のように区で住所が示されていた時代のもので、後年の松尾とはことなります。松尾区の範囲は、那覇高〜那覇税務署〜琉球政府〜那覇高と結ぶ四角形の内側だと思われます。

松尾は真和志村ですが、戦後はみなと村になり那覇市となります(参考)。松尾の戦後史資料はほとんど探せていませんが、解放後すぐに住居ができはじめたようです。
戦前の松尾での図も参考として。

二中の前と松尾大通りに住居があるほかは「松尾区」の範囲に住居等は見当たりません。また道なども戦後とは一部ことなっています。

冒頭の図での数字は松尾区○班(○は数字)のようになっているのですが、道路が境界となっていないという特徴があります。
みなと村時代の住居、戦前と戦後の道路の比較、地籍、地形との関連性(松尾は高低差があります)なども考慮しないとわからないところがありそうで二の足を踏んでいます...
とりあえず後日の参考ということで。

2つの病院通り


那覇には病院通りと呼ばれた病院が集中している地域(牧志と久茂地)がありました。後者をとりあえず「久茂地・美栄橋」と呼びます。
56年の新聞記事で「病院通り会ー大城鎌吉」というのがあるのですが、大城鎌吉は大越(三越)オーナーですので、ここでの病院通りは那覇タワー前の道(上左図)のことだと思われます。
冒頭の2つの図は1958年の地図を参考に作成してありますが、後年病院通りと呼ばれる久茂地・美栄橋一帯にもいくつかの病院があります(上右図)。

時系列で見てみると、昭和26(1951)年の地図では国際通りの拡張工事がなされていないため那覇警察署・南部税務署間は湾曲しています。(美栄橋の)病院通りになった一帯は区画整理がされていますが、この区画整理は国際通りの拡張工事と同時に行われたものだと思われます。
「沖縄・国際通り物語」巻末の年表では、1951年9月に久茂地町・美栄橋町の解放が群島政府に伝えられ、1952年に国際通り改修工事起工、1953年8月31日「那覇警察署〜那覇税務署間350メートル工事竣工」となっています。
病院建設などは1953年8月よりあとでしょう。

沖縄で病院の自由開業のスタートは50年だと思われます(未確認)ので牧志の病院通りでの病院開業も早くてそのころのはずです。
久茂地・美栄橋への病院集中は行政の誘導があったのではないかと考えていますが証拠を見つけきれていません。県庁周辺は行政センターとして位置づけられており、赤十字病院や保健所などが集中しています。

まとまりがありませんが、とりあえず区画整理時期から考えると牧志の方が先にできていて、久茂地の方は区画整理の後に(おそらく行政の誘導で)できたと思われるよということです。

店舗経営者と工業系事業所従業員の出身地(56年)

那覇市史の戦後新聞資料集成2から。
真和志市合併前というのにご注意。

那覇の総店舗数の3割余が1区に集中し、6区、5区、10区などがこれに次いでいる。各区ともに年々増加しているが、7区、8区、11区、松尾区などは逆に減っている。首里は323軒で全体の6%、小禄も332軒で首里とだいたい同じ。
店舗営業主5127人のうち那覇市出身者は3063人で総数の59%、あとは他市町村出身者であるが一番多いのが本部町の226人、100人以上が真和志市、糸満町、今帰仁、国頭両村、宮古八重山、日本本土となっている。
---
工場数は逐年増加している。55年は493軒で54年の319軒より54%の増加。食料品工業が最も多く総数の24%の120軒、その他修理業116軒、製材木製品工業65軒が目立つ。鉄工、金属製品は34軒、建築工業32軒、印刷31軒、特産品17軒、従業員総数は5979人で、うち56%(3370)は建設工業が占めている。
(中略)
事業所の分布状況は5区が67軒で13.6%、旧首里が61軒で12%、6区が43軒で8.7%で大きいところ。工業従業者は那覇出身が317人、10人以上が糸満町、本部町、国頭村、宮古、日本本土となっている。
沖縄タイムス 1956年7月30日 (抜粋と編集)


黒が「那覇の総店舗数」での増加傾向の区、赤が減少傾向の区です。5区(青)、6区(緑)は事業所が集中しているところです。

 ※戦後の那覇の区を参考にして作成しましたが、範囲などの見直しが必要なところがありますのでその旨了解いただきたく

56年の通り会

真和志市合併直前の那覇の通り会名です。
那覇市史の戦後新聞資料集成2から。

那覇には18の通り会がつくられて商店街の発展に一役かっているが、各通り会の親睦と連絡を密にし健全な発展を図るためその上に通り会連合会(会長仲井真元楷氏)の組織もできている。各通り会の名と会長は次の通り(敬称略)
神里原通り会ー平良真次郎、平和商店街ー具志幸得、樋川通り会ー喜久山朝重、開南通り会ー黒湖[ママ]武秀、桜通り会ー山城善光、ひめゆり通り会ー平良光男、市場中通り会ー宜保為楷、新生通り会ー川満実祥、銀座通り会ー船越清輝、病院通り会ー大城鎌吉、新栄通り会ー仲井真元かい、千歳通り会ー藤本長蔵、旭通り会ー嘉手苅仁盛
以上の外最近できたばかりで連合会未加入の通り会がある。
国際通り会ー松川国春、国際中央通り会ー中山興忠、国際本通り会ー宮里辰彦、波之上通り会ー砂川恵姿、若松通り会ー宮城長四郎
沖縄タイムス 1956年7月29日 (抜粋と編集)


「銀座通り会」はわからないですね。「桜通り会」は山城善光さんなので桜坂ですが、同紙7月30日付記事中では「特に桜坂一帯のバー、小料理店の勃興ぶりはめざましい」とあるようにどっちの呼称もありのようです。
新生通り(会)は沖映通りにあった新生橋からで、パラダイス通りと呼ばれている通りです。

56年の市場

沖縄タイムス連載の「新郷土地図」から抜粋します(引用元は那覇市史の戦後新聞資料集成2)。

3ヶ所に増設/公設市場“闇市”から発展
戦後那覇の入口が増加につれ、上マチ小(現在の開南交番付近)と壺屋マチ小が自然に発祥し、当初は本土引揚者が主になって、中古品、戦果品(軍窃盗)が売買され、闇市場とも呼ばれていた。
48年4月に壺屋マチ小が市営に移され、仮りに造られた幕舎市場は50年12月に165坪の食肉市場を改築、51年4月に103坪の雑貨、51年8月に138坪の衣料市場を改築、現在は大工1人が常時補修にあたっている。
市場の総面積は1120坪で上岡作太郎氏(933坪)上原マスヨさん(117坪)高良一氏(70坪)の私有地を借り、割当土地賃貸料に準じて、借地料を月8万2000円を払っている。しかし市営に移されてから1000坪近くの土地を地主に返している。
市場使用料は月極と臨時に区別されて、月刊約58万7000円を上げている。月極とは固定した売り場を(坪当たり一日80円)貸し1人当り300ー800円を徴収している。業種別の調停額(6月分)は
雑貨商|193名|69117円
衣料商|258名|90564円
食料商| 37名|13442円
米穀商| 51名|27924円
精肉商|115名|69948円
鮮魚商| 22名| 8235円
鰹節商| 20名| 4158円
野菜商| 16名| 4279円
となっている。徴収率は期間のずれはあるが100%となっている。臨時は定まった売り場はなく、主に軒下を利用しバーキ1つで商売しているくちでその都度1日3円を徴収、1日平均3000円で収入は月極部より上回っている。
現在の市場は衛生面からもいろいろと使用者、市民から不満をかっているが、市当局はしばらくその改善を見送り、泊、崇元寺、若狭町などの公設市場を計画、今年度予算に計上してある。
沖縄タイムス 1956年7月30日(抜粋と編集)


衣料と雑貨が多いですね。

花月の旅館開業広告(大正12)

旅館開業
兼て料理屋経営中は皆様方の多大
なるご同情と御援助に預りまして
甚だ有難くお礼申上ます○而今回
は皆様方のお勧めに依りまして従
来の料理屋を廃し一般御便利を計
りご旅館を開設致しましたから今
後共尚ほ一層のご同情とお引立を
懇願奉ます
ナハ西新町3ノ2
御旅館 花月
電話117番
琉球新報 1923(大正12)年3月28日(抜粋と編集)


西新町3ノ2とあります。

参考:グダグダ(β) 西新町(昭和4)
関連:グダグダ(β) 花月

× CLOSE

ブログ内検索

アクセス解析

カレンダー

01 2025/02 03
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28

最新コメント

[08/08 なちょうらーざ]
[07/19 shimoji]
[07/19 shimoji]
[03/21 2階の店舗の娘]
[03/05 福島敏彦]

× CLOSE

Copyright © グダグダ(β) : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]