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BLACKIE-SAN

コメントで50年代撮影の動画を教えていただきました。この動画が凄かったのです...
撮影者のBLACKIEさん、投稿者のwbm2012さんに感謝を。
【更新日時/3.19 18:25】

Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA "BLACKIE-SAN" svFilms 480px 1.avi
http://youtu.be/_Rx3aKF3EM0


「那覇市議会史関係略年表(稿)」によると54年の那覇市議会議員選挙は9月12日で真和志市も同日に選挙がありました。市内風景に写っている選挙の張り紙はこの選挙のものではないかと思います。
※冒頭の「リウキン」そばにある横断幕「比嘉佑直」、6'56"あたりの「浦崎唯治」の名があり、「那覇市議会史関係略年表(稿)」には54.10.1に選任された懲罰委員会副委員として「比嘉佑直」、10.4の監査委員に「浦崎唯治」の名がある
「那覇市議会史関係略年表(稿)」によると牧志通り開通式はこの年の12月5日、開始日はわかりませんが、53年2月27日に「牧志大通りの工事に関し、土地収用法適用を認可」とありますので工事期間は53.2〜54.12の間に収まる期間だと思われます。
「沖縄・国際通り物語」には国際通り拡張工事が検証されていますが読む時間がないため考察はここまでにします(残念)。

自分の推測する撮影地点、店舗名などは動画中から読み取れる文字と同時期に撮影された写真に存在する店舗の位置の突き合わせや資料類から推測しています。
これらにプラスして影がどうなっているかをつきあわせることで場所特定の補強材料とすることができるように思いますが時間がないため断念。ただ影の短さからすればお昼あとのそれほど長くない時間で撮影されたという推測は妥当かと思います。

撮影場所は神里原から丸国マーケット前、浮島通りから国際通り手前、元山形屋周辺から三越前、平和通りに入り公設市場衣料部前三叉路、そしてその周辺、となるかと思います。
撮影は神里原〜丸国は徒歩、浮島通りは車に乗っての撮影(スピードが違う)、国際通りは一箇所に留まって周囲を撮影している動画がいくつかあるのでおそらく徒歩、平和通りも同じく徒歩だと推測します。動画が連続して撮影されているのは浮島通りのみで他は立ち止まっての撮影が集合した形になっていますが、これはスナップショットのようにとられたものなのでしょう。しかし動画内に写っている店舗などの位置関係から推測する撮影位置をマッピングしてみると歩きながら撮影していった様子がうかがえるものとなっています。

浮島通りの動画も風景がジャンプする箇所があり、その箇所前後で連続性を直接は確認できませんが、動画内で確認できる店舗名から推測すると連続して撮影していることはあきらかだと思われます。
50年代の資料とつきあわせてもわかる店舗は少なく、わずかに読み取れる看板の文字などから撮影地点を推測することしかできません(今のところ)。これは浮島通りの写真資料が少ないことからくるのですが、現状では楽観的に資料が出てくることを待つのみです。

浮島通り動画の最後あたりにはジャンプとともにどこにいるのかわからなくなってしまいます。ジャンプ後は道がカーブしていってるので浮島ホテル周辺なのではないかと思えるのですが、左手に白い丸屋根が見えていてこれが世界館(国映館)ではないかという懸念があります。浮島通りからすれば世界館は右手に見えるはずなので矛盾してしまうのですが、この区間は動画内から店舗名などの特定ができていません。
これを解決するためには「白い丸屋根」の正体解明、最後の区間の写真との突き合わせ(見つけられていません)などが必要になるかと思います。
影の方向から個人的には浮島通りをそのまま直進して国際通り手前までで撮影を終了(そのあと動画は国際通りにジャンプ)したのではないかと考えています。

国際通りは後年も残るビルが撮影されているので場所の特定は容易です。
建設途中や未建設の建物から撮影日時が推測できるかと思いますが自分は解りかねています。
平和通りは残っている写真が多数あるため店舗名などからの特定ができます。
問題は三叉路からの各シーンでこれらは確定に至る証拠(写真など)が確認できていません。背景や横断幕などから推測はでき、推測も妥当だと思えるのですが、平和通りの店舗のようにばっちり写った写真と一致するような箇所はありません。
このあたりどの程度まで詰めればいいのかというのも難しいものがあります。
最後の子供が映った箇所は残念ながらまったくわかりません。

動画をご紹介頂いた方も検証作業を行われています。

http://www.zukeran.org/shin/d/2012/03/12/blackie-san-video-is-great/

ここでの検証に複数の方から多数の御教示をいただきましたことに感謝申し上げます。
そして動画撮影をされたBLACKIEさん、動画をデジタル化しアップロードしていただいたwbm2012さんにも改めて感謝申し上げます。
このサイトでは過去に米軍属撮影の写真をとりあげていて、その中でBLACKIEさん撮影の写真も多数取り上げていましたが気がつかずにいました。撮影者やサイトオーナーに気を払わなかった自分が悪いのですが、BLACKIEさんは戦後キーストンスタジオでカメラマンとして多数の写真を残されていたようです。
動画でも窺えるのですが人懐っこい視線をもった方だなと感じます。

http://blackie-okinawa-photography.rememberingokinawa.com/page/blackie_the_photographer

不明部分は残ったままですが自分の検証作業はここで中断します。
検証ログは折り畳んでありますので興味のある方はどうぞ。

---以下最終更新前---
コメントで50年代撮影の動画を教えていただきました。この動画が凄かったのです...
撮影者のBLACKIEさん、投稿者のwbm2012さんに感謝を。
【更新日時/3.19 02:46】

Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA "BLACKIE-SAN" svFilms 480px 1.avi
http://youtu.be/_Rx3aKF3EM0


「那覇市議会史関係略年表(稿)」によると54年の那覇市議会議員選挙は9月12日で真和志市も同日に選挙がありました。市内風景に写っている選挙の張り紙はこの選挙のものではないかと思います。
※冒頭の「リウキン」そばにある横断幕「比嘉佑直」、6'56"あたりの「浦崎唯治」
※10.1に選任された懲罰委員会副委員として「比嘉佑直」、10.4の監査委員に「浦崎唯治」の名がある

「那覇市議会史関係略年表(稿)」によると牧志通り開通式はこの年の12月5日です。開始日はわかりませんが、53年2月27日に「牧志大通りの工事に関し、土地収用法適用を認可」とあります。工事期間はこの間だと思われます。
「沖縄・国際通り物語」にはこの工事のことがくわしく検証されています(後で確認します)

---
以下どこを撮影しているのかをとりあえず推定・検証、それと読み取れる文字を拾います。以下断定していても推定も多く入っていますので了解下さいませ。

冒頭の「RYUKIN リウキン」は神里原の丸金デパート「琉金ビル/註2」。最初は330号側からで(〜06")次は壷屋側からの撮影(07"〜)ではないかと。
丸金デパート2階には1952年11月からリウボウ(琉球貿易/RYUBO/りうぼう)が入っていたことからの想像ですが、隣りは大洋劇場のようですのであながち間違いでもないかと。リウボウは54年に松尾の国際通り入口へ移っています。(註1)
下記リンクでの地図は50年代初期のものですが書かれていない道があると思われます(58年版の地図を神里原(58年)に載せました/)。
参考:マルキンデパート・リウボウ・山形屋
横断幕に比嘉佑直(市会議員)。
【訂正部分註1】大洋劇場となりの丸金デパートの建物は「琉金ビル」だったそうです。またリウボウは54年4月に国際通りに移っていますので自分の推測の可能性はほとんどなくなりました。
【註2】丸金デパートは50年代始めには人手に渡っていた(神里原通りのようす 2

14"〜 「パチンコ マルサン ホール」「大洋パチンコ」
50"〜 荷車を曳く男性、「平和ビンゴハウス」
1'01" 「石油コンロ」「知念商店」 奥は比嘉?
参考:http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1934
1'03" 丸金デパートからバスがやってくる 右手にさっきの石油コンロの看板がある
1'07" 「中央時計店 各国時計 貴金属商」「マネキン美容院」
1'16" マルクニ横の神里原入口。二階に「ビンゴ」 横断幕は「安里松○」
参考:グダグダ(β) マルクニ
1'25" マルクニを新栄通り側から 「大衆娯楽場パチンコ」
1'31" マルクニ前新栄通り風景 後方の高台に「シンデレラ」その奥にコンクリの建物が見える
 手前左「丸廣本店」 トラックに「太陽堂」 左には4階建ての建物に「レコード」
1'38" 通り風景 浮島通り?
1'48" 通り風景 右に「神村商店」奥に大きな瓦葺き建物
みつや書店
※新栄通りと浮島通りの交差点から開南向けではないかと思われます。右写真の浦崎商店の右側あたりに65年の地図では神村の名前があります(隣りは砂川・トグチ・浦崎/
2'08" 「ゑびす靴店」ゑびす通り入口 千歳橋通り(浮島通り)に進んでゆく 左手に塔のようなものが二つ
2'23" 「古」と「陶」の文字のある看板 角地にあるようだ 「古○商店?」
※右写真:http://www.rememberingokinawa.com/photo/1954-55_rycom_sig_2/11
※千歳橋をこえてすぐにあったようだ

2'39" 左に「千」の文字のある看板 その奥には「三」か「玉」と読み取れる看板 「パーマ」
2'43" 右に「氷」 横断幕に「松○美容院」
2'54" 「くすりの我喜屋」 サロンパスの旗
2'57" 十字路?
3'05" 右の店舗入口上に「ガナハ○○」通りに「我那覇薬局」
3'10" 横断幕に「大那覇市建設 体育祭」 左上に日付もあるように見えるがよくわからない(残念)
※市民の友の第22号(53.12.5発行)、第41号(54.12.1)、第55号(5455.11.10)、第70号(56.12.17)に市民運動会の記事があり、70号は「第6回市民運動会賑わう」とある。
※第39号(54.10.25)には「市民大運動会11月21日予定」とある。
3'13" 右手に「塗料店」 その奥に「看板」 通り沿いに「○○舎」 道は緩いカーブに 
美光社看板店?(51年)

3'23" 左手に二階建ての建物 「石油」
※浮島通りのカーブ付近に2階建てコンクリ建築物が確認できる空撮がある(これ
※空撮は国映館の建設時期からして後年のものなので注意
写真はBLACKIEさんのページ(rememberingokinawa)から。
http://www.rememberingokinawa.com/page/1950-55_early_aerials

3'38" 左手の女性の向こう側に道らしき空地 左手奥には丸い屋根がある
※丸い屋根の国映館は55年建設(それ以前の形状はわからない)

さらに向こう側には階段 階段前をこえた道両側には建築物
※撮影者の乗っていた車の鼻先が見えています

※階段は浮島ホテル入口?(証拠無し)(後年の空撮
※丸い屋根がひっかかる...

参考までに浮島ホテルの外観。「19人が語ったマチグヮーの歴史」のpdfから切り出し。
当時の広告などには写真があるんですがweb上ではみあたらないんだよな...


現在推測するのはこんな感じで赤が撮影経路。ところどころわずかな脱落があると思う。
マルクニ(A)、ゑびす(B)、古○商店(C)、我那覇薬局(D)、塗料(E)。
太い黒矢印は日差しの方向で、動画中の影の方向は右斜め前方でほぼ一定、3'16"からは最初右側、カーブを曲がってからは前方に影ができている。このことからそのまま浮島通りを直進していったと考えていいんではないだろうか。


---
3'32" 国際通り バスが並ぶ 山形屋方向からむつみ橋向け撮影
3'38" 左手に「ラジオ沖縄」 遠景にあとで写る建物(4'14")と大宝館、右手に友寄百貨店
3'47" 昭和バス
4'04" 1階に「幸陽商事」、2階に「ラジオ沖縄」
参考:http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1976
4'14" 現OPA向いにあった建物
参考:グダグダ(β) 福山商事ビル近辺で写真の右にある「六本木」の隣
参考:http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1983
4'27" むつみ橋方向から先ほどの建物を撮影
4'28" 映画館は大宝館(現三越) 隣りに「キングホール」
※後年隣にできる大越(後年三越/1957年9月創業)は未建設のようだ。
参考:http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=3436
---
4'43" 平和通りの国際通り入口 左に「○○百貨店」
4'51" 左に「ケット」 ※マーケット?
※http://naha.machitane.net/old_photo_big.php?id=1977
4'54" 「コールドウェーブ ○ーマネントウェーブ」 別箇所に「ンスセール」の文字もある
※http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=909
5'10" 左上看板に「上原艶子」
5'17" 通り風景 右手の建物はマーケット? ちんどん屋の看板は「パチンコ開店」とある
5'29" 左手に「ゴハウス」 奥には「ソフトクリーム」の横断幕
5'34" 人物の背後に「パリー美容院」「安村書店
5'38" 子供を抱く女性の背後に「ヒ○美○院」
6"04"〜6'08" 「時計 レコード 高良時計店 メガネ 楽器」
6'09" 傘をさして子供を抱く女性の背景は市場か? 現衣料部あたり?
6'51" 張り紙だらけの店内風景「イチ 浦崎唯治」右上に「佑」 奥には「ビセ」「ナカイ?」
※市場内部?
6'55" 「川田厚生堂」 奥に「文楽堂」
7'02" 三叉路 「茶」
7'16" 右に回転する看板(理髪店?)
7'25" くだものを並べた軒先に「上原」の文字 角地?
※桜坂入口周辺だと思われます
7'31" 右手に「茶」「上原茶舗」
7'51" 「石油コンロ」「金物専門店」 隣は陶器店 背後は丘で道は緩い坂になっている
8'21" 上り坂で道幅が広い
※7'31"くらいの位置を進んだあたりかと思われます
※8'23"にある看板は「みつ屋書店」と読める
※新栄通りにしてはみつ屋書店(みつや書店)先にあるはずの新栄橋が見えない


子供の写っている風景はまったくわからない
時期の特定に使えるのは大越(未存在/57年創業)と桜坂通り入口(52か53年)。

動画の存在を教えて下さった方も検証されていますのでこちらもどうぞ。撮影経路の図もあります。

http://www.zukeran.org/shin/d/2012/03/12/blackie-san-video-is-great/

コメント欄にも情報があります。コメントで撮影時期は54年後半ではないかという推定があったのですが自分もそのくらいではないかと思います。
市議選が9月ですからその前くらいの夏の日なんでしょうね。

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Comment

無題

  • zu2
  • 2012-03-12 19:00
  • edit
うわ、ほんとだRYUKINですね。見間違えてました(>_<)

しかし、この動画は本当に宝の山ですね。何度も見てしまいます。

無題

  • からや(1973年生)
  • 2012-03-12 19:17
  • edit
4'28かな?與那嶺本店(月星ビル)は現存ですが、山之内ホテルと一体で取り壊される模様の建物です。ということはそのころからあったのですね。もしかしてまるみ屋より古い?
RBCができる前のラジオ沖縄社って今のシーサー館(でなくなってるかも)に位置してたんですね。沖縄の新聞がつぶれる日という本には「今の三越の場所に」とあったのでそことは知りませんでした。
ラジオ沖縄は現在のROKとは別物で、KSARを民営化した時に施設を借りて放送したもののつぶれ、タイムスが現在のRBCを設立へとなっていくわけですが、つぶれなければ「沖縄放送」となり今のROK(という略称の琉球新報系列放送局)は存在しなかったことでしょう。
RBCも最初は国際通りから始まったようですね。今は更地になっているけど建物を建てるときはサテライトスタジオおいてほしいものです。

Re:無題

  • No Name Ninja 〔管理人〕
  • 2012-03-12 22:44
からやさんコメントありがとうございます。
その本は未読なのですがいろいろと事情があったようですね。放送史もまとまった本があるのですが手がつけられておりません...

無題

撮影年についてですが、

・ラジオ沖縄社があった時期
・大那覇市建設(那覇・首里・小禄合併)の前?
・興行中の映画の配給時期

からすると、1954年後半あたりじゃないかと思っています。からやさんの情報、いろんな場所で参考にしています。この場を借りてお礼いたします。

Re:無題

  • No Name Ninja 〔管理人〕
  • 2012-03-13 21:40
>・ラジオ沖縄社があった時期
>・大那覇市建設(那覇・首里・小禄合併)の前?
>・興行中の映画の配給時期

zukeran.orgでの検証拝見しました。ラジオ沖縄社の存在時期が決定的ではないでしょうか。

大那覇市は3市1村合併後の那覇のことをそう呼んでいることが多いです。流れとしては3市(那覇・首里・真和志)1村(小禄)合併の計画なのですが、みなと村の件で真和志村(当時)が反発、53年暮れに真和志は市に昇格します。54年は話し合い不調で、54年9月に真和志以外の2市1村が合併(市民の友には編入とも書かれています)。54年の市民の友(目次しか見てないのですが)に初めて「大那覇市」という言葉が登場、その後「大那覇市」は出てこなくなり57年12月の真和志市合併の際にふたたび登場します。
ですので「大那覇市」が頻出していた54年だという推定は根拠のあるものではないかと思います。また合併の前とは限らないかもしれません(直後とか)。
※54年10月の第39号には「市民大運動会11月21日予定」とありました。
※自分は「市民運動会」と「大那覇市建設 体育祭」が同一の行事と見ているけどもこのところは少しあやふやかもしれません。

映画の配給時期での推定もそんなにタイムラグはなかったようですのでこれも妥当かと思います。
撮影時期は54年後半でいいのではないでしょうか。

文意が怪しくなる箇所を直しました(3/13 21.30)
誤:推定も/正:推定は

我喜屋本店

  • [管理人]
  • 2012-03-13 19:53
  • edit
からやさん、もしご覧になっていたら質問させて下さい。

http://file.gdgdwktk.blog.shinobi.jp/d39fdf57.jpeg
http://file.gdgdwktk.blog.shinobi.jp/ca87eb10.jpeg

手持ちの資料では我喜屋本店が探せなかったためわからない点があります。
上の画像はそれぞれストリートビューと動画から切り出したものなんですが、ここに写っている建物は同じものだと考えていいのでしょうか。ゼンリン地図69年版だと左手が「森山商会」、右手が「来来軒」になっていますが、その後入居者は変わったけども建物自体は当時のままなのかと考えています。
からやさんの言われている我喜屋本店はどちらになるのでしょうか。

お手間かとは思いますが御教示いただければありがたいです。

無題

  • からや
  • 2012-03-13 22:13
  • edit
與那嶺本店でした。先ほどレスそのものを訂正しました。こちらの認識ミスです。
ついこの間まで焼肉国際がありましたね。

58号にあった我喜屋薬品と勘違いしてました。

>http://file.gdgdwktk.blog.shinobi.jp/d39fdf57.jpeg
このストリートビューについては、こちらでも調査中です。

個人的には1973年生ですので、70年代の那覇の写真については建物が現存しているかどうかというのに興味はありますが、50年代までさかのぼるとなるとちょっと難しいです。

Re:無題

  • No Name Ninja 〔管理人〕
  • 2012-03-13 23:21
>與那嶺本店でした。
>ついこの間まで焼肉国際がありましたね。

與那嶺本店は月星のビルですね。
復帰前の山の内ホテル周辺はいつかまとめて記事にしたいと思います。

>58号にあった我喜屋薬品

戦前にあった我喜屋良徳さんの我喜屋薬舗と戦後の我喜屋薬品の敷地は近いので気になっています。
これもなにかわかれば記事にしたいんですが情報がなかなかありません。

お答え頂きありがとうございました。

1954/7の国際通り

1954/7の三越前の写真を見つけました。

http://www.flickr.com/photos/tabor-roeder/4913805939/in/set-72157624617858927/

もしかして、Blackie-sanにて、むつみ橋付近にバスがたむろしてたのは、三越前が通れなかったから? なのかなあ。

Re:1954/7の国際通り

  • No Name Ninja 〔管理人〕
  • 2012-03-14 19:54
>1954/7の三越前の写真を見つけました。
>もしかして、Blackie-sanにて、むつみ橋付近にバスがたむろしてたのは、三越前が通れなかったから? なのかなあ。

Blackie-sanでのバスの路上駐車は他に車が通れないくらいなので少し異常ですよね。三越前が通れなかったための一時的な処置であったなら納得がいきます。
工事のためにバス運行の経路が〜ってのを読んだような記憶もあるけど残念ながら詳細は憶えていません。

想像でしかないのですが、道路拡張(と従来のバス営業所撤去)に伴う国際通り不通の間、道路のバス駐車場化があったのではないかと考えています。拡張後は現市役所の駐車場に収容のはずなので、不通の間の道路駐車はそれほど影響しないのではないかと。
3'39"くらいに奥の道路脇からバスが出てきますがこれは「沖縄バス ガーブ橋営業所」から出て来たんではないかなと。
http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/Entry/1103/
現那覇市役所の位置のバス駐車場は54年11月下旬から。
http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/Entry/1011/

国際通りの完全開通がいつなのかわかるといろいろはっきりするんですが。

無題

  • zu2
  • 2012-03-14 22:57
  • edit
他のところにもコメントしましたが、
http://www.flickr.com/photos/jimgris/511821781/sizes/o/in/photostream/
のようにバスがたむろしていたようです。

新栄橋通り案も説得力ありますね

  • zu2
  • 2012-03-16 07:29
  • edit
> 8'21" 最後の広い道は1'38"と同じ新栄通りか? 上り坂で道幅が広い

なるほど。それも説得力がありそうです。みつ屋書店は、新栄橋通りのみつ屋書店だと考えると矛盾がないですね。オキナワグラフ1961/6の広告でも「みつ屋書店」の看板になっていました(広告社名はみつや書店)。
ただ、1961の広告もJRWebbさんの写真でも「みつ屋書店」の看板が建物幅程度に広がっていて、ビデオとは違うんですよね。1954当時は狭い間口で細々と営業していたのかもしれませんが…
(左となりに はなしろ書店ができるのはいつごろなんでしょうね)

あと、この時代の新栄橋通りはガーブ川改修前なので、「みつ屋書店」の位置からすると、十字路になってる部分が新栄橋だと思うのですが、橋っぽくない気もします。このあたりの写真はほとんどないので、なんとも言えないではありますが。

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1729

直前の「霧の小次郎」までは http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/Entry/1022/ の検証もあって、桜坂だと思われ、その直後なので平和通りから壺屋に抜ける道だと、私は考えていました。http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1709

ただ、ビデオを良く見返すとこれも矛盾しそうな点があるんですよねえ。
- 7:34ごろの「霧の小次郎」の後ろの横断幕は「学生心中」と読めるか?
- 那覇高校の女生徒がわらわらいる (新栄通りなら充分にありそうだけど、壺屋は縄張りだろうか?)

難しいです。

Re:新栄橋通り案も説得力ありますね

  • No Name Ninja 〔管理人〕
  • 2012-03-16 23:47
>> 8'21" 最後の広い道は1'38"と同じ新栄通りか? 上り坂で道幅が広い
>
>なるほど。それも説得力がありそうです。みつ屋書店は、新栄橋通りのみつ屋書店だと考えると矛盾がないですね。オキナワグラフ1961/6の広告でも「みつ屋書店」の看板になっていました(広告社名はみつや書店)。

映像中左手にある看板が「みつ屋書店」と読めるのはご指摘で今気がつきました。
書店は平和通りから新栄通りへの曲がり角に位置しているので動画とは違うかと思われます。参考の為にあとで51年版の「みつや書店分店(第二図表/市場通り)」の図を作っておきます。
【追記】図を作って気がついたのですが過去に記事にしていました...

>オキナワグラフ1961/6の広告

なぜか自分の環境では閲覧できなくなっているのですが(flash関連でのアドオン設定ミス?)、細い間口でやっていた可能性はありますよね。

>あと、この時代の新栄橋通りはガーブ川改修前なので、「みつ屋書店」の位置からすると、十字路になってる部分が新栄橋だと思うのですが、橋っぽくない気もします。このあたりの写真はほとんどないので、なんとも言えないではありますが。

新栄橋の写真はありませんよね。現水上店舗の敷地が当時の川なので巾はだいたい想像できますが、欄干がないのは不自然なので新栄通り案はそこが問題点です。「ちとせはし(千歳橋)」も後年の年月日入りの写真には欄干が写ってますので商人が勝手に架けた橋と違って最初からちゃんとしていただろうなとは想像できます。
なので新栄通り案も後述の横断幕などの状況から可能性は低くなりますね。
http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/751a23b69498f4bd20ef6fec98828c36/1327053604
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1722

>直前の「霧の小次郎」までは http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/Entry/1022/ の検証もあって、桜坂だと思われ、その直後なので平和通りから壺屋に抜ける道だと、私は考えていました。http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1709
ご指摘後自分もそう考えるようになりました。

>ただ、ビデオを良く見返すとこれも矛盾しそうな点があるんですよねえ。
>- 7:34ごろの「霧の小次郎」の後ろの横断幕は「学生心中」と読めるか?
http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/751a23b69498f4bd20ef6fec98828c36/1331898516
たしかに「霧の小次郎」後方には横断幕が見えて、四つ文字がありそうです。
この横断幕手前に「みつ屋書店」あった資料があれば確定なんですが...

動画の連続性から考えると「茶」の看板近くからそのまま進んで撮影した方が自然でもあり、写っている状況からもそう考えた方が良さそうです。
あと些細なことですが「8:34ごろの右奥にある高い建物」はまちのたね通信の「那覇(平和通り)/平和通り三叉路附近」を見ると「新生」と読み取れるので「新生デパート(三共デパート)」ではないかと思われます。
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1709

民衆デパート or 新生デパート

  • zu2
  • 2012-03-17 01:18
  • edit
ご指摘の写真はこっちかな? http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1714

この写真で見ると、新生デパートは平和通り三叉路の後ろにあります。
それとは別に三叉路を左に折れた先の奥に、2階建てぐらいの四角い建物が写っていて、
これがBlacke-sanに写っている建物(民衆デパート?)ではないかと考えています。

Re:民衆デパート or 新生デパート

  • No Name Ninja 〔管理人〕
  • 2012-03-17 02:23
>ご指摘の写真はこっちかな? http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1714

間違えました。すみません。

>この写真で見ると、新生デパートは平和通り三叉路の後ろにあります。
>それとは別に三叉路を左に折れた先の奥に、2階建てぐらいの四角い建物が写っていて、
>これがBlacke-sanに写っている建物(民衆デパート?)ではないかと考えています。

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/751a23b69498f4bd20ef6fec98828c36/1331918046

写真のどこを見ているかを勘違いしていたようです。
そちらは民衆デパートで間違いないと思います。
切り出して見ると「民」という字も見えますね、失礼しました。

いくつか写真をみつけました

  • zu2
  • 2012-03-17 06:47
  • edit
>1'01" 「石油コンロ」、知念商店?奥は比嘉?
http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1934 に写っています。左隣は知念靴店っぽいです。
知念靴店のさらに左隣はビデオでは「主婦の友」の幟、写真では「本」の看板が読めます。

この写真の左端自転車に「紙 平良商会」とあるのは、0'30”ごろのビデオに写ってた紙?を売ってる店かも。

http://naha.machitane.net/old_photo.php?id=1861
に、大洋劇場らしき建物が写っています。

丸屋根は謎です

  • zu2
  • 2012-03-17 07:04
  • edit
>※丸い屋根がひっかかる...
が、私にも気になっています。あの付近で丸屋根といえば国映館なのですが、なんで国映館が左に見えるんだ? という謎が。

http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/Entry/777/
にある、国際通り松尾付近の改修が当時行われていて、浮島通りを直進できずに途中右折した、と考えれば国映館は左に見えます。ただ、film上右折した形跡がないのと、あの道だとすると不自然な気がします。

謎です。

無題

  • [管理人]
  • 2012-04-01 17:58
  • edit
http://digicoll.manoa.hawaii.edu/okinawa/Pages/viewtext.php?s=browse&tid=183&route=browseby.php&start=4&city=Naha&by=city&s=browse#

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