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2014年4月9日水曜日

笹踊り・考。朝鮮通信使との関係について。

 ことしも笹踊りの季節がやってきました。『穂国幻史考』の著者・柴田晴廣さんから,この季節になると笹踊りの写真が送られてきます。ことしもきれいな写真を送ってくださいました(前回のブログに掲載)。笹踊りの特徴を絶妙なタイミングでとらえた素晴らしい写真です。わたしの育った村祭りでも笹踊りが伝承されていて,毎年,楽しみにしていたものです。このことを知っている柴田さんは親切にわたしに写真を送ってくださるという次第です。

 笹踊りは穂国(ほのくに・愛知県東三河地方の古称)のほんの限られた地方にのみ伝承されている伝統芸能の一つです。詳しいことは柴田さんの著書『穂国幻史考』にゆずることにして,今回は,朝鮮通信使との関係について,少しだけわたしの頭のなかにみえてきたイメージについて書いてみたいと思います。

 笹踊りと朝鮮通信使との関係については,柴田さんも著書のなかで書かれていますように,ほぼ間違いはないと思います。が,朝鮮通信使が江戸に向かう途中で,東海道を練り歩いたとされる,その情景がわたしにはいまひとつイメージが湧いてきませんでした。ですから,朝鮮通信使に関する専門書にあたって,「練り歩き」の実態を確認してみたいと考えていました。が,ついつい後回しになっていて,いまだにそこまで手がまわりません。

 そんななかで,雑誌『世界』の4月号で,寺島実郎さんが連載「能力のレッスン」(144)──「朝鮮通信使」にみる江戸期の日朝関係──17世紀オランダからの視界(その21)を書いていることを知り,飛びつきました。もちろん,笹踊りのことはなにも書いてはありませんが,朝鮮通信使の「練り歩き」について興味深い描写をしています。そこにはつぎのようにあります。

 「一行の楽団パレードは多くの日本人に衝撃を与え,唐人行列,唐人踊,馬上才(曲馬)は今日の韓流ブームどころではない人気を博して各地の行事や芸能に影響を残した。興味深い偶然もあった。第四回使節(1636年)の行列を江戸参府中のオランダ商館長クーケパッケルが目撃し,『行列が通り過ぎるのに五時間かかった』と記述している。オランダ商館長一行の参府は,あくまで株式会社の地域代表の表敬訪問だが,朝鮮通信使は国家を代表する外交使節であった。」

 こんな記述に出会いますと,なるほど,穂国の人びともまた東海道を練り歩く朝鮮通信使の行列(約500人といわれる)に惹きつけられ,じっと見入っていたんだろうなぁ,というイメージが鮮明に浮かんできます。いまに伝わる笹踊りの衣装のきらびやかなデザインは,往時の影響を如実に写し取っているものと思われます。

 1636年といえば,関が原の戦い(1600年)が終わってようやく天下統一がなり,平和が訪れ,人びとのこころもようやく安らぎがえられたころと言っていいでしょう。そんなときに,朝鮮通信使が歌舞音曲とともにきらびやかな衣装に身をかため,500人もの大行列が練り歩いた,というのですから,それはそれは大騒ぎだったことでしょう。東海道からかなり離れた地方からも大挙して見物に集まってきただろうことは容易に想像ができます。

 さきの引用から推察すれば,「唐人踊」が,いまわたしたちが目にする笹踊りの原型のようです。だとすれば,朝鮮通信使の「唐人踊」がどのようなものであったのか,これを調べればもっとイメージがはっきりしてくるということになります。

 同じく引用にあるように「行列が通り過ぎるのに五時間かかった」という描写もまた興味を引きます。いま行われている笹踊りも,一つところを行ったり戻ったりして,なかなか前には進みません。わたしの寺の前の道路は村のメイン・ストリートにもなっていましたので,そこでは必ず笹踊りが行われました。たった,50メートルほどの門前を通過するのに相当の時間を要しました。笹踊りの人は大変だなぁ,と子どもごころにも思ったものです。

 それともう一点は,穂国の人びとが,たとえば,この唐人踊にほかの地方の人びと以上に強いシンパシーを感じたのはなぜか,という問題があります。穂国には花祭りのような伝統芸能を筆頭に,三河漫才など,数々の伝統芸能が伝承されています。わたしの子どものころの村祭りでは,村の若い衆が歌舞伎を演じていました。わたしの育った寺はその稽古場でした。近隣の村には少女歌舞伎が盛んに行われていました。考えてみれば,穂国は伝統芸能の宝庫のようです。

 そんなことを考えながら,柴田さんの送ってくださった写真を眺めていますと,その写真の向こうに隠れているさまざまなイメージが際限もなく湧き上がってきます。幻視の悦び。至福のとき。やはり,子どものころに触れた祭りは,いまごろになって生き生きと蘇ってきます。やはり,いいなぁと思います。柴田さんに感謝。

〔追記〕
冒頭の「笹踊りの季節がやってきました」という書き出しについて,柴田さんからコメントが入りました。笹踊りはたしかに春が多いけれども,秋にも盛んに行われていること,また,夏にも行われているので,春を「笹踊りの季節」と断定することにはいささか違和感がある,とのことです。わたしは子どものころの記憶で,どこの笹踊りもみんな「春」だと思い込んでいました。わたしのブログはその程度のものであることをお断りし,ここでも柴田さんに感謝です。

 

牛久保の若葉祭の笹踊り。写真の部。

 
撮影・柴田晴廣
撮影・柴田晴廣
撮影・柴田晴廣

撮影・柴田晴廣

 
※文章はつぎのブログ「笹踊り・考」にまわします。
 

2014年3月10日月曜日

三河に春を呼ぶ「おたがさま」の祭り。

 「今日(9日)は,三河に春を呼ぶおたがさまの日で,お参りに行ってきました」というメールを渥美半島に住むいとこからもらった。思わず「おたがさま」と口に出してつぶやいてしまいました。わたしにとってはそれほどに懐かしい呼称で,一気に子ども時代にタイムスリップです。かすかに思い出すのは,三河名物の冷たい空っ風が吹く,まだまだ寒いころのことだったなぁ,という程度のこと。    なのに,無性に懐かしい。敗戦直後の,日本中が貧乏暮らしをしていたころの記憶です。


 成人して阪大に勤務するようになったころ,名神高速道路を父親を乗せて車で走っていたとき,ちょうど滋賀県の多賀大社の横を通りがかりました。すると,父親が「あー,ここがおたがさまの在所だなぁ」と言うではありませんか。「えーっ?」とわたし。このとき初めておたがさまとは多賀大社に連なる信仰なのだ,ということを知りました。それまでは,おたがさまとは渥美半島一帯の,きわめて地域的な,土着の信仰なのだと思っていました。


 それ以後,なぜ,三河に春を呼ぶおたがさまとして,渥美半島一帯では親しみをこめて呼ばれているのか,ということがこころの隅っこに引っかかっていました。しかし,別に調べるというほどの関心もないまま,こんにちに至っていました。そこに,いとこからのメールです。にわかに興味が湧いて,調べてみました。


 「お伊勢参らばお多賀に参れ お伊勢お多賀の子でござる」
 「お伊勢七度 熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」
 という俗謡がある,と書いてあります。


 「お伊勢お多賀の子でござる」ということは,伊勢神宮のご祭神は天照大神だから,その親といえば,イザナギ・イザナミ。読んでいくと,多賀大社のご祭神はこの2柱である,と書いてあります。そうか,「おたがさま」は「おいせさん」より格が上なんだ,と納得。だから「さん」ではなく一つ上の「さま」がつく。


 おたがさまの信仰は,中世から近世にかけて隆盛をきわめ,多くの信者が多賀大社に押し寄せたといいます。しかも,伊勢は七度,熊野は三度,お参りすればいいが,おたがさまは「月参り」が必要だ,という俗謡が残っているといいます。となると,滋賀県の多賀大社まで「月参り」をすることは不可能です。が,それを可能にするのが多賀大社から勧請して分社を設けることです。渥美半島にあるおたがさま信仰は,そうして出来上がった信仰であることがわかります。


 そうか,むかしの人は「月参り」をしていたのだ,と納得。
 では,なぜ,渥美半島におたがさま信仰が根づいたのでしょうか。ここからさきは単なるアナロジーにすぎませんが,どうやら,おたがさまとおいせさんの関係は,出雲大社と伊勢神宮との関係に酷似している,ということです。そして,三河地方には出雲系の神社が意外に多い,ということとも関係しているのではないか,とわたしは考えています。たとえば,三河一宮である砥鹿神社のご祭神は大国主命です。スサノウを祀った神社は無数にあります。


 ここからさきの,わたしの好きな「幻視」は,また,機会を改めて書いてみたいと思います。
 今日のところは,三河に春を呼ぶ「おたがさま」というメールに触発されて,ちょっと調べてみたら,こんなに面白い話になってしまった,というご報告まで。

2013年12月28日土曜日

長松禅寺の奇祭「どんき」のつづき。からす天狗と狐の関係について。

 昨日(27日)のブログを読んだ柴田さんから,早速に,新しい情報を提供していただきましたので,追加のブログを書いておきたいと思います。

 それは,からす天狗と狐がこの祭りの主役として登場することの根拠についてです。柴田さんから写真が送られてきたときには,「なんとも不思議な祭りです」とありましたので,わたしもそのまま受け止め,勝手な想像力をふくらませてしまいました。が,この間に柴田さんは,すでにつぎなるアンテナを張っていて,思考が進化(深化)していました。


 柴田さんのメールには以下のように記されていました。
 「添付は可睡齋の「あきやさま」の護符です。
 三尺坊はからす天狗の姿で描かれており,白狐に乗っております。
 どんきの白狐や天狗は,この護符に基づいたものと思われます。」

 なるほど,送信されてきた護符をみますと,白狐の背中の上にからす天狗が立っています。この白狐とからす天狗を主役にした祭りだからこそ「秋葉祭り」であり,それが,いつしか「どんき」と呼ばれるようになったという次第です。

 この護符には「秋葉三尺坊大権現」と書かれており,三尺坊が修験道の行者であったことが明らかです。ついでに,三尺坊のことを調べてみましたら,つぎのようにありました(Wikipedia)。

 由来:秋葉山の山岳信仰に,信州出身の修験者である三尺坊を没後に秋葉三尺坊大権現として御前立ちとして祀ったことが起源である。三尺坊は,越後の長岡蔵王権現の十二坊の第一である三尺坊に篭もって修行したのが,その名の由来であり,観音菩薩の化身とされた。遠州大登山秋葉寺から勧請された秋葉社が全国に広まった。

 可睡齋は,右の護符の下に書いてありますように,秋葉総本殿のことであり,遠州・袋井にあります。ここが禅宗であり,ここの末寺が秋葉寺です。このようにたどってみますと,秋葉祭りが長松禅寺に伝承されていても不思議ではありません。

 もっとも,「あきやさん」「あきやさま」信仰をたどっていきますと,これはこれでまた面白い話がいっぱいあるようです。ただ,遠州と三州にこの秋葉信仰が深く根づいた背景には,どうやら徳川家康が一枚噛んでいたようです。そのことと明治の廃仏毀釈の問題があって,秋葉祭りがさまざまな変遷をとげることになったようです。この問題はまた,別の機会に考えてみたいと思います。

 取り急ぎ,柴田さん提供による新しい情報に基づき,昨日のブログを補正させていただきました。この「どんき」という奇祭に,下佐脇の子どもたちが一喜一憂している映像をみると,やはり「お祭り」はいいなぁと思います。こういう祭りを先祖代々共有することによって,下佐脇の子どもたちは下佐脇の人となっていくのですから。この子どもたちが成人すると,こんどは「白狐」(子どもたちは「ホワイトコンコン」と呼んでいる)やからす天狗となって,紅ガラを塗る役割をにない,つぎの世代の子どもたちを追いかけるようになります。

 シモーヌ・ヴェイユが「根をもつこと」ということの意味の一つはここにもあるのだなぁ,としみじみ思います。

 柴田さん,ありがとう。また,いろいろと教えてください。

2013年12月27日金曜日

長松禅寺の奇祭「どんき」。神仏混淆時代の名残りか。穂国(ほのくに)の匂いも。

 ことしも友人の柴田晴廣(『穂国幻史考』の著者)さんから,たくさんのお祭りの写真を送ってもらいました。「穂国」(ほのくに)は愛知県三河地方の古称。どうやら「瑞穂国」の由来とつながっているらしいのです。つまり,日本の古代史にかかわるきわめて重要な根っこのひとつが,穂国・三河にある,というわけです。そのことは柴田さんの主著である『穂国幻史考』で詳細に論じられています。それを読むと,三河で育ったわたしには,そこはかとなく日本古代のロマンが伝わってきます。柴田さんももちろん穂国に生まれ育った人で,穂国の主のような住人です。

 その柴田さんが,四季折々に催される穂国の各地のお祭りを,毎年,欠かさずフィールドワークされていて,そのときに撮影された写真のおこぼれをわたしが頂戴している,という次第です。

 今回は,その一部を紹介してみたいと思います。
 表題にも書きましたように,長松禅寺(愛知県豊川市御津町の下佐脇)に伝わる奇祭・どんきについてです。残念ながら,わたし自身はまだ見たことのない祭りです。もっぱら,柴田さんの写真から想像力をたくましくして,あれこれ考えていました。が,柴田さんはこの「どんき」という祭りをビデオ映像でみることができる,その方法も教えてくれました。


 それは「こちら三河放送局」(http://allmikawa.tv)でした。早速,開いてみましたら,いくつものヴァージョンの映像(ここ数年の祭りの映像)をみることができ,この祭りの雰囲気もとてもよくわかりました。とても面白い祭りですので,ぜひ,ご覧になってみてください。

 まつりの概要をごくかんたんに紹介しておきますと,以下のとおりです。
 「どんき」とは秋葉祭のことで,火防(ひぶせ)のお祭りです。もともとは「どんき」とは撞木(しゅもく)のことで,この祭りに登場する狐(3),天狗(赤,青)がこの撞木に紅ガラを塗って,それを子どもたちの顔に塗りつけるのです。紅ガラを塗られた子どもは無病息災で,丈夫な子に育つというわけです。それでも,狐や天狗が塗るわけですので,小さな子どもたちは逃げ回ります。その手にもつ撞木(紅ガラ)が主役です。この撞木がいつしか「どんき」と呼ばれるようになったというのです。12月の第三日曜日にこの祭りが行われるようです。



 じつは,この祭りの行われる寺や下佐脇という場所には,わたしのごく個人的なわけありの事情があって,とりわけ興味をもったという次第です。

 わけあり,などと意味深なことを書いてしまいましたが,きわめて個人的なわたしにとってのわけありであって,それ以外には他意はありません。

 一つは,長松禅寺,通称・長松寺という名前です。といいますのは,わたしの育った寺の名前は長松院。場所もそんなに遠くはありません。しかも禅宗ですので,同系です。が,それ以上のなにかがあるということは聞いたことがありません。が,わたしにとっては他人事ではありません。なにかつながりがあるに違いありません。調べれば,なにかわかってくるのではないか,とひそかに期待しています。が,いまは,なにもわかってはいません。

 二つには,この寺のある下佐脇という集落は,わたしの祖母の出たところです。いまも,この集落には親戚の家があります。が,子どものころに母に連れられて一度だけ行った記憶はありますが,いまは親戚づきあいはありません。ですので,尋ねて行って名乗りをあげれば,わかってもらえるとは思いますが・・・・。もう,直接,会った記憶のある人はだれもいません。が,そんなところにこんな珍しいお祭りが伝承されているというのですから,やはり,他人事ではありません。

 三つには,この寺に伝わっている奇祭・どんきは,火防(火伏せ)の祭りで秋葉祭りと呼ばれているということです。ということは,秋葉神社(静岡県周智郡春野町)の祭りということになります。秋葉神社といえば,火難よけ(火伏せ)の信仰と火祭りで有名です。この地方には,むかしから「秋葉さん」と親しまれていて,村の代表者が秋葉神社に代参に行き,御札(火伏せのお守り)をもらってきてくばる,という習俗がありました。そして,どこの家にもかまどがありましたから,その近くの壁や柱に張って,一年間の火伏せを祈っていました。わたしが子どものころには,間違いなく張ってありました。いまは,かまどがなくなってしまったでしょうから,どうなったかは知りません。
 これは,わたしの想像ですが,どんき(撞木)のさきに紅ガラ(赤)を塗ってあるのは,おそらく火祭りの「たいまつ」の代わりではないかと思います。そのどんきを狐や天狗が手に持って,子どもたちを追いかけるのですから,少し考えてみれば奇怪しな話ではあります。とりわけ,狐がたいまつを手に持つわけがありません。が,そこはあまり厳密に考えない方がいいでしょう。秋葉さんと狐や天狗はなんの関係もないと思います。狐は豊川稲荷が近くにありますし,天狗も修験道場がむかしはあったと聞いていますので,そういうものとの習合によるものだと思います。
 寺も神社もお稲荷さんも修験道も,ありがたいものはなんでもござれの神仏混淆時代の残滓が,いまもこの長松寺で伝承されていることに意味があると思います。近代合理主義の世界に生きているわたしたちからすると,まことに矛盾だらけの,奇怪しな話に聞こえるかもしれません。しかし,わたしのような考え方をする人間にとっては,むしろ,この方がいかにも日本人らしい伝統的な生き方ではないか,と嬉しくなってしまいます。

 四つには,この寺のある下佐脇から西に少し歩けば三河湾があり,その海岸は,そのむかし持統天皇が伊勢からわたってきて上陸したところだといわれています(このあたりのことは,柴田さんの『穂国幻史考』に詳しい)。いまはすっかり埋め立てられてしまって様変わりをしてしまいましたが,わたしが子どものころには,御馬(おうま)の海岸と呼ばれ,松林が並び,別荘があって,海水浴場としても知られていました。この御馬という地名のところに引馬神社があります。なぜ,馬なのか,というのがわたしの頭のなかをよぎります。この話は長くなってしまいますので,残念ながらここは割愛。持統天皇つながりで触れておきたいことは,この下佐脇から海岸沿いに西北に行けば,額田郡があります。額田王のゆかりの土地だとも聞いています。持統天皇ときて,額田王と並べると,そこはもはや天武天皇の時代のあの謎に満ちた,怪しげな時代の匂いがぷんぷんとします。おまけに,この地方には小便をすることを「まる」(放る)という雅びなことばが,いまも用いられています。

 というあたりで,このブログは終わりにしておきます。じつは,ここまで書いたらもっと書いておきたいことが山ほどでてきました。いつか,このつづきを書くことにして,今日のところはここまでとします。
 

2013年8月19日月曜日

多摩川の花火大会,いつもと少し様子が変わる。あれれっ?

 毎年恒例になっている多摩川の花火大会が8月17日(土)の夜に開催されました。いつも,このころなので,お盆過ぎの最初の土曜日に開催されるらしい(あまり,しっかりとした記憶がない)。時間も午後7時から8時までの約1時間ほど。なかなか豪勢な打ち上げ花火や仕掛け花火が連続して夜空を彩り,みる者を楽しませてくれます。

 18日の新聞をみて,なるほど,この花火大会はこういうものであったか,とはじめて認識しました。それによると,「6000発に28万人が歓声」という見出しとともに大きく写真が載り,「川崎市制記念多摩川花火大会」(市などが主催)というのが正式名称で,ことしで72回目を迎え,テーマは「川崎から世界へ!子どもたちの夢」をテーマに未来を託す子どもたちの夢や希望を光と音で表現した,とあります。

 さらに,新聞記事をそのまま転載しておきますと以下のとおりです。
 「ドラえもん」の主題歌などアニメソングや童謡が流れる中,色鮮やかな花火が川面を照らした。
今年も対岸の東京都世田谷区で「たまがわ花火大会」が同時開催され,両岸で競い合うように打ち上がる花火に,会場を埋めた28万人の観客は盛んに歓声と拍手を送っていた。(栗原淳)

 わたしの住んでいる溝の口は多摩川まで歩いて10分。マンションの9階からは丸見え。ここに住むようになってから,ほぼ毎年,この花火を楽しんできました。大きな音が鳴りはじめて,ようやく花火大会?と気づくていどの関心しかなかったのですが,それでも打ち上げ花火は子どものころから大好きだったので見はじめると熱中しています。

 そんな程度のわたしにも,ことしの花火大会の様子がいつもと少し違うと感じられましたので,そのあたりのことを書いておこうとおもいます。この日は,午後7時に鷺沼の事務所をでて家路に向かい,鷺沼から溝の口まで田園都市線に乗り,あとは徒歩。そして,約15分ほどマンションの回り階段のところで花火を見物。ちょうど,終盤のいちばん盛り上がるところを,ひとりで立って見物。みごとなものでした。久し振りに花火を堪能しました。

 その間に感じたことは以下のとおり。
 ひとつは,人出が多かったこと,ふたつには,ゆかたを着た若い男女のみならず中高年の人が多くなってきたこと,みっつには,田園都市線の駅周辺から花火を見物している人も多くなったこと,よっつには,わたしの住んでいるマンションでも例年になく大勢の人が見物していたこと,いつつには,その人びとが大きな歓声をあげたり,拍手をしたり,ときには子どもの元気な声で「たまや~っ」とあちこちで叫んでいたこと,など。

 順番にどういうことなのかといいますと,以下のとおりです。
 ひとつめの,人出が多かったこと・・・・まずは,鷺沼の駅に向かって高台まで登ってくると歩道に人がいっぱい。こんなことは初めて。ベビーカーを引いた家族もいました。老若男女,家族とおぼしき人たちの集団です。いくら高台とはいえ,高い建物の影になってみえないところもたくさんあります。が,ビルの谷間からちらりとみえるようなところにも人がいっぱい。最後は,鷺沼駅の北口に登っていく坂道(歩道)にもいっぱい。振り返ってみると,ここは絶好の場所でした。人をかき分けるようにして駅改札口へ。この現象はことしが初めて。これまでもいくらか人は立っていましたが,ほんのちらほら。みんな数秒立ち止まって花火を眺めるものの,すぐに歩きはじめていました。わたしもそういう仲間のひとりでした。しかし,ことしは歩行者の邪魔になるほどの見物人。

 溝の口の駅を降りると,こんどはコンコースのところどころに人だかり。花火がほんの少しちらりとみえるところに人が集まって携帯で写真を撮っています。こんな人の集団がコンコースのあちこちにできていて,こんなことはこれまでになかった風景でした。あとは,マンションに近づいてきたら,あちこちから歓声があがっており,びっくりしました。エレベーターを降りて通路から回り階段にさしかかると,人がいっぱいです。去年までは,ほんのちらほら人影がみえる程度で,ほとんど話し声も聞こえませんでした。ほとんどの人は窓を少し開けてそこから眺めていたようです。ところが,ことしはうって変わってにぎやかなもの。オーバーに言えば,花火が上がるたびに「おーっ」「キャーッ」と反応し,花火の演出がいいと拍手まで生まれます。まるで,マンション全体が一体化したかのような,おやおや?という雰囲気。

 このところ,ゆかたを着た人たちが年々増えつづけていることは承知していました。が,ことしの特徴は中高年の人たちがゆかたを着て仲良く手をつないで歩いている光景でした。

 明らかに,去年までとは,なにかが変わったと感じました。この変わり方はなにに起因するのだろうか,といまも気になっているところです。まあ,ふつうに考えれば,このところの異常な猛暑つづきにうんざりしていた気分を,花火の力を借りて一気に吹き飛ばしたいという欲求の表れ,ということなのでしょう。でも,それだけではなさそうです。なにかがわたしたち自身のなかで変わりつつあるのでは・・・・。しかも,無意識のうちに変化を求めているらしい。その無意識を動かしている「力」はなにか。

 こういう変化に気づくということは,わたし自身の無意識にもそういう欲求が起きているのだとおもいます。それが那辺にあるのか,とくと考えてみたいとおもいます。花火にはやはりそういう「力」があるのだと,わたしは素直に認めたいとおもっています。

 抽象的にひとことだけ。世の中が,大事な箍がはずれてしまったかのように,このところ急速に変化をはじめていることはよく知られているとおりです。しかも,その変化がどことなく「不気味」な雰囲気をもっていることも確かです。そして,この不気味さへの欲求不満の解消法が個々人に押しつけられたままです。要するに黙って我慢しろ,と。こうした事態はますます悪化の一途をたどっています。もはや,歯止めもきかない状態です。

 こういう事態とどこかでリンクしているとしたら・・・これは相当に慎重に考えなくてはならない,新たな事態の発生ではないか,というのがわたしの現段階での懸念です。なぜなら,「川崎市制記念多摩川花火大会」,しかも第72回目だった,ということを知ったからです。写真をみると,多摩川の土手にはまだ隙間があるようですので,来年はぶらりとでかけてその場でいろいろと観察をしてみたいとおもっています。

 このあと「花火贈与論」まで書くつもりでしたが,長くなっていますので割愛。また,機会をみつけて書いてみたいとおもいます。

 取り急ぎ,今日のところはここまで。

2013年4月1日月曜日

「穂国」の伝統芸能「笹踊り」の写真がとどく。

 わたしの若い友人柴田晴廣さん(牛久保町在住)から,今日(31日),行われたばかりの祭りの写真が「どさっ」ととどきました。その祭りというのが,わたしの子どものころ住んでいた大村町の懐かしい祭りです。そこでは珍しい「笹踊り」という郷土芸能が伝承されています。この地域,つまり,東三河ではあちこちの村祭りの名物のひとつになっていて,それぞれの地域によって少しずつ踊り方が違う「笹踊り」が伝承されています。柴田さんは,じつは,この「笹踊り」の研究者の第一人者でもあります。ですから,祭りがはじまると忙しく,あちこちの祭りのフィールド・ワークにでかけます。わたしが大村町の出身であることを知っている柴田さんは,わざわざ,雨の中,出かけていって写真を撮って送ってくださった,という次第です。


 もう少しだけ,柴田さんのことを紹介しておきたいと思います。柴田さんには『穂国幻史考』(常左府文庫,2007年)という大著があります。「穂国」(「ほこく」とふりがながしてありますが,わたしは「ほのくに」と読みたい)とは,いにしえの東三河地方の地名です。日本が律令国家としての体裁をととのえるころの古代史に注目し,たとえば,持統天皇がわざわざ「穂国」に行幸したのはなぜか,と問いかけ中央の大和(瑞穂の国)の歴史(たとえば『古事記』や『日本書紀』)に封じ籠められた「謎」を解きほぐし,古代史の「定説」に一矢報いようという,きわめて意欲的な著書を書いていらっしゃいます。いま,話題になっている古代史読解の魁的なお仕事をされた方として,わたしは注目しています。その関連で,「笹踊り」も重要な研究対象とされていらっしゃる,というわけです。こちらは,朝鮮通信使との関連で,瞠目すべき考察を展開されています。


 この柴田さんの『穂国幻史考』に触発されて,ちょっと待て,わたしの育った「大村町」というところもよくよく考えてみると,とんでもないところだったのではないか,といまごろになって気づきはじめています。いまの段階では,あまり詳しいことはまだ書けませんが,いずれ明らかにしてみたいと思っています。そのひとつの手がかりが「八所神社」のお祭りです。大村町には,現在,五つの集落があります。それらの集落にはそれぞれ一つずつ村社があります。それらとは別に,それらの集落を全部合わせた共同の神社として「八所神社」があります。ということは,あと三つの集落がむかしはあったのではないか,それがいつのまにか消えて五つになっている,という不思議な謎があります。

もう一つは,この大村町という地域の広がりが,いまの行政区画で確認してみても,おどろくほど広いのです。しかも,むかしは(と言ってもわたしの子どものころ)大雨が降って豊川が氾濫すると,大村町の半分の集落は大水に浸され孤立してしまいます。もちろん,学校も休みでした。そのむかしは,豊川が氾濫するたびに,その流れを変えて,この大村町の区画も川になったようです。その痕跡があちこちに,いまも,残っています。そのため,豊川の氾濫する水を塞き止めるために二重の堤防が,この地域にはあります。わたしの育った寺は,その二重の堤防の外側にありました。そのことの意味が,いまごろになって,ああ,そういうことだったのか,と想像できるようになってきました。


 水の問題は,どうやら,この大村町にあっては大昔から大問題でした。ですから,この水の対策にこの地に住む人びとは頭を悩ましつづけたに違いありません。それでも,この地を捨てるわけにはいかない人びとが,ずっとこの地を守ってきました。その水問題との関連で,八つの集落が力を合わせて,大きな事業をなし遂げる必要があったのでしょう。それが堤防と用水でした。つまり,豊川が氾濫するときの水の逃げ道として,この大村町は位置づけられていたということです。そこに至りつくまでには,相当の紆余曲折があったに違いありません。その全集落を挙げての協力・結束の記念すべきシンボルとして「八所神社」がある,とわたしは考えています。

 その「八所神社」に「笹踊り」が伝承されているというのも,偶然ではない,とわたしは考えています。朝鮮通信使が東海道を練り歩く姿を,「穂国」の人びとは熱烈歓迎したことでしょう。そういう心性を共有した人びとが多く住んでいたのでしょう。もっと言ってしまえば,持統天皇が行幸に来なくてはならない,なんらかの理由のある人びとが,この「穂国」には多く住んでいたということでしょう。その謎を解く鍵のひとつは,三河国一宮である「砥鹿神社」(祭神は大巳貴命)にあります。ここからさきの話は,柴田さんの独壇場です。『穂国幻史考』を参照してください。


 
 わたしも,大きくなったら,青年団に入って,この「笹踊り」を踊るのが夢でした。が,その夢を果たせないまま上京し,そのままこちらに居つくことになってしまいました。まだ,将来のことなどなにも考えない子どものころ,毎年,羨望の眼で眺めていた懐かしい「笹踊り」の写真を眺めながら,思いは一気に60年前に・・・・・。


 来年はなんとか時間を工面して,この祭りに出かけてみよう・・・・とそんな気になってきました。そのときは,ぜひ,柴田さんと一緒に・・・・と勝手に決め込んでいます。柴田さん,よろしくお願いします。

 というところで,ひとまず,ここまで。

2013年2月26日火曜日

東京マラソンは新しい文化,新しい祝祭空間となりうるか。

 マラソン・レースはテレビでみるものであって,沿道にでてみるものではない,とずっと思っていた。しかし,とうも,そういうものではなくなってきているらしい。それが数字で現れている。主催者発表によれば,沿道に繰り出して応援した人びとが173万5千人という。これには驚いた。この人たちは,一瞬にして目の前を駆け抜けていく選手たちを,ただ,ひたすら応援していたのだろうか。どうも,そうではないらしい。

 1964年の東京オリンピックのときのマラソンを甲州街道の歩道で応援したことを思い出す。アベベ選手がやってきたと思ったら,あっという間にとおりすぎて行った。ほかの選手たちも同じだ。本ものを見た,ということだけが自慢で,あとはなんの感懐もない。むしろ,味気なかった。もう,二度と沿道に立つのはやめておこうとさえ思った。以後はもっぱらテレビ観戦である。

 しかし,何年か経って,数年前,箱根駅伝を藤沢まで見物に行ったことがある。復路の応援をする人たちの姿がみたかった。そして,自分自身もその集団のなかに身を置いて,一緒に応援してみようと。しかし,このときも,つぎつぎに選手たちはやってくるが,あっという間に目の前をとおりすぎて行って終わりである。でも,沿道の人びとは無邪気に応援をしていた。しかし,わたしは退屈した。もう,こんご二度と沿道には立つまいとこころに決めていた。

 でも,マラソンは好きなので,テレビでは熱心に眺めている。

 こんどの東京マラソンもテレビで観戦した。お目当ては,2時間4分台で走る選手の4人。いったい,どんな走りをするのか見たかった。が,残念なことに「ペースメーカー」なる存在に邪魔されて,30キロまでは大集団のまま。なんの駆け引きも起こらない。しかも,予定よりも遅い。なんともつまらない展開。4分台選手にとってはまるでジョギングでもしているような余裕さえ感じられる。が,レースは30キロすぎて「ペースメーカー」がはずれてからはじまった。それもあっという間のできごと。一気に集団がばらけたところで,あとは,飛び出したキメットと,それを追うキビエゴの勝負となる。

 これをみて,ペースメーカーは不要だ,と思った。むしろ,記録をよくするよりも悪くすることに貢献しているではないか。なんのためのペースメーカーなのか。疑問だらけ。ペースメーカーがいなかったら,このレースはどうなっていただろうか。選手たち同士が,もっと激しいレースの駆け引きを展開して,みる者を熱狂させたのではないか。と,そちらの方に気持ちが向かう。

 テレビは,ひたすら優勝争いと,話題の選手を追いかけるのみ。あとのことはどうでもいいかのようだ。解説も平凡。なぜ,ケニアの選手たちはこんなに強いのか,とアナウンサーに聞かれた瀬古のピンぼけな応答。解説者としての勉強が足りない。それに比べれば,増田明美は事前に取材もして,下調べがしてあり,場面,場面に応じて的確な解説をしていた。立派である。それから,高橋尚子の解説も歯切れがよくなった。彼女もよく勉強しているなぁと思った。もう,瀬古の解説なら聞かない,聞くまでもない。

 気がつけば大いなる脱線。話を本題にもどそう。
 テレビにはほとんど映らないにもかかわらず,いや,それだからこそほんの一瞬の映像が強い印象を残すのかもしれない。仮装をしたランナーの即興のパフォーマンスに沿道の人たちが大喜びをしている。そのあたりのことがもう少し知りたいと思った。そこで,新聞やネット情報を掻き集めてみると,意外な(いや,もう,多くの人の知るところかもしれない)ことがわかってきた。

 それは,東京マラソンに参加しているランナーたちは,大きく三つに分かれているようだ。一つは,いわゆるエリート選手たちの競走。徹底して勝ち負けにこだわるグループ。競技としてのマラソンに真摯に向き合っているランナーたち。テレビは,このうちのトップ集団しか映さない。だから,あとのことはテレビ観戦者にはほとんどなにもわからない。二つ目のグループは市民ランナーと呼ばれる人たち。いわゆるトップ・アスリートを目指すのではなく,一人ひとりの目標があって,それを実現させるべくランを楽しんでいる人たち。三つ目は,ファンランを楽しむ人たち。いろいろに仮装をしたり,ランの途中で面白いパフォーマンスを繰り広げたり,沿道の人たちと交流することを楽しんでいる人たちだ。

 そこで,なんとなくわかってくるのは,沿道に立って応援していると,三つの性質の異なるランナーたちがとおりすぎていくことだ。エリート集団が,勝つこと,順位,記録をめざして必死で駆け抜けたあとに,走ることそのことを楽しんでいる市民ランナーが,思いおもいのランを繰り広げてくれる。そして,最後の集団はファンラン。とにかく完走すればいい。記録よりも,みずからの仮装をみてもらうこと,ついでにその仮装に見合うパフォーマンスをみてもらうこと,このことに主眼を置いたグループがやってくる。

 この三つ目の集団はお祭り集団だ。いかにして祝祭空間を演出し,沿道の人びとと一体化し,笑いをとるか,そこに参加する意味を見出している。そここそが勝負だ。受けがよければ,沿道の人たちのところに近づいて行ってハイタッチもありという。立派な市民交歓会が繰り広げられているらしい。ときおり,それらしき光景がテレビに瞬間的に映ることがある。これは,少なくとも,ここ数年の間に急激に増えてきた現象らしい。だとすれば,これは面白い。つまり,ある意味では,多数の役者たちによって延々と演劇的なパフォーマンスが繰り広げられていることになるからだ。だとすれば,沿道に出て行って,それらを楽しむ人がでてきてもおかしくはない。こういう光景が見られるのなら,わたしも出かけてみようかと思う。

 残念なことは,テレビをそういう光景を映そうとはしないことだ。これもまた東京マラソンの一つの重要な要素であるとしたら,しっかりと報道すべきではないのか。それとも主催者たちはこの手のランナーを「困った輩」とでも思っているのだろうか。ファンランはそんな雰囲気を肌で感じながら,意図的・計画的にアゲインストしているのだろう。だとしたら,それは,明らかにマラソン文化に革命が起きている,なによりの証拠となるだろう。

 いっそのこと,テレビ観戦者のために,テレビの画面を4分割ぐらいにして,東京マラソンを多面的・多層的に見せることをやってみてはいかがか。一つは,これまでどおりにトップ集団を中心にした映像を送りつづけること,もう一つは市民ランナーたちの走りをじっくりと見せること,三つ目はファンラン。沿道の人たちとのコミュニケーションがどのように展開されていくのか,これは面白いと思う。あと一つは,その他の情景を拾っていくこと。たとえば,ボランタリーの人たち(約1万人が参加しているという)の活躍ぶりを追うこと。給水や誘導,など。そうして,東京マラソンの全体像を浮き彫りにすることを考えるべきではないのか。勝ち負けだけがスポーツではないのだから。

 たぶん,いま,単なる競走・競技であったマラソンから,マラソンの全コースを祝祭空間に仕立て直して,そこでの時空間を,ランナーも沿道の人も一体となって,新たなお祭り広場を演出しようとしているかにみえる。これは「21世紀のマラソン」という名の新しい文化の誕生ではないか。主催者が仕掛けたわけでもなく,沿道のファンが仕掛けたわけでもない。マラソンに参加するランナーたちのなかから自発的に,いかにしてランを沿道の人たちとともに楽しむかという創意工夫が生み出した,まったく新しいスポーツ文化の出現ではないのか。

 ここまで考えたら,来年はどこか冷たい風が吹かない場所を選んで,沿道に立ってみたいと思い出した。ある意味では,スポーツ文化の先祖返り。そして,そこにこそ,21世紀スポーツ文化の新たな可能性が秘められているのではないか。勝利至上主義も,自立したランナーとしての自己実現も,ファンランも,そしてそれらを支える裏方さんも,そしてなによりも沿道で声援を送りつつ,ファンランをする人たちとの交流を楽しむ。そんなスポーツ文化が実現したら,なんと素晴らしいことか。これこそが,わたしが待ち望んでいたスポーツ文化のひとつの新しいモデルであり,スタイルでもある。

 よし,こんど,そのようなマラソン・レースがあったら,出かけていって沿道に立とう。そして,こちらからも声援という名のパフォーマンスを繰り出してやろうではないか。

2012年11月18日日曜日

飲酒禁止の大学祭ばやり。いっそのこと「飲酒学入門」という授業科目を開設しては?

 東大を筆頭に,飲酒禁止の大学祭が,あちこちで開催されている,としばらく前の新聞にでていた。軒並み,右へ倣え,というわけだ。もっとも,大学生とはいえ,まだ多くの学生は未成年だ。だから,厳密に言えば飲酒は法律的に禁止されている。その意味ではなんの不思議もない。しかし,これまでの長年の慣行からすれば,なんだか変だ。

 大学側は,一気飲みなどによる死亡事故や不測の事態が絶えない現状を鑑み,大学祭での飲酒を禁止することにした,という。もちろん,だからといって,大学祭期間中,だれもが一滴の酒も飲まないとはかぎらないだろう。おそらくは,当局の眼をかすめるようにして,ささやかに飲酒する学生たちは少なくないだろう。ただ,大勢が集まって,賑やかにコンパを開き「一気,一気」と囃し立てて無理やり酒を飲ますようなことは,建前上,しないだろう。

 しかし,飲酒は禁止すればいいという問題ではないだろう。大学生といえば,たとえ未成年であっても,すでに立派な大人だ。すでに成年に達している上級生と,まだ未成年の下級生とが,膝突き合わせて酒を酌み交わし,ふだんとは異なる人間関係が結ばれる絶好の場を,そんなにかんたんに奪ってしまっていいものなのだろうか。飲酒は人間関係を蜜にする立派な文化だ。ときには,大学院生と新入生とが酒を酌み交わしながら歓談する場もあってもいいではないか。

 とはいいながらも,近頃の学生さんをみていると,大学祭の期間中にキャンパスのなかで飲酒を認めるには相当の勇気がいるというのも事実である。なぜなら,飲酒の知識も経験もきわめて未熟な新入生が少なくないからだ。一説によれば,新入生の多くは,飲酒して酔っぱらった経験はほとんどないという。だから,どの酒をどの程度,どのように飲めばいいのか,わからないという。一気飲みを強要されても,順番に飲んでいるのをみていると,断ることができないという。要するに,飲酒の経験が足りないのである。まあ,言ってしまえば,酒も飲んだことのない優等生ばかりなのである。

 わたしたちの世代の多くは,すでに高校時代に,友だち同士でこっそり隠れて酒を飲み,さまざまな失敗を経験している。だから,一気飲みを強要されても上手に回避する方法を心得ていた。もっとも単純な方法は,古代ギリシア人が得意としていた「嘔吐」である。どんぶり酒を強要されたら,飲み終わったあと,できるだけ早めにトイレに逃げる。そして,胃のなかを空っぽにする。そして,また,もとの席に戻ってきて,知らぬ顔をして坐っている。これは常識として心得ていた。

 近頃の学生さんは,おしなべて優等生で,従順で,幼稚化している。だから,上級生に強要されると断るすべを知らない。そのまま素直に実行してしまう。要するに,酒の飲み方を知らないのだ。だとすれば,大学の授業科目に「飲酒学入門」を取り入れて,一から酒の飲み方を教える必要がある。どこぞの大学では「恋愛学入門」という授業が人気科目だと,これも新聞に大きく取り上げられていたことがある。わたしは唖然としてしまって,世も末か,と正直思ったものだ。だから,このブログにも書いたことがある。

 その伝に倣えば,「飲酒学入門」はひとつの立派な文化を伝承するための教養科目として,いまの学生さんたちに教える価値がある,ということになろう。さあ,どういう先生が担当することになるのだろうか,そこが大問題だ。でも,「恋愛学入門」を教えられる先生がいるのだから,それに比べれば「飲酒学入門」の方が授業としてはやりやすいだろう。場合によっては,オムニバス方式で,それぞれの専門家に分担してもらう方法もあろう。

 そうだ,この授業は東大からはじめてもらおう。そうすれば,全国の大学に広まっていくこと必定だ。そして,大学祭での飲酒も安心して認めることができるようにすること。飲酒学を心得た上級生が多くなれば,おのずから上手な,そして,おしゃれな飲酒文化が広まっていくことになる。その方が,はるかに大人の文化国家を担う人材育成にも役立つ。学生の飲酒は禁止すればいいという問題ではない。上手な酒の飲み方を伝承する智慧が大事だ,とわたしは思う。

 ほんとうのことを言えば,子どもが大学生になるまでの間に,酒の飲み方くらいは親が教えておくべきだというのがわたしの持論。とくに,女の子には,不可欠だ。それすらできない家庭の教育力の方にこそ大きな問題があるということ。つまり,飲酒を禁止する大学が笑われる対象ではなく,そういう大学生に育ててしまった親が笑われているということ。自業自得。そのことを忘れて,すぐに大学に責任を押しつける,この無責任ぶり。ここにすべての元凶が宿る・・・・,と考えるのだが・・・・。

2012年3月4日日曜日

愛知県・牛久保の奇祭「うなごうじ祭」のHPに注目を。

わたしの故郷の隣町の牛久保町にむかしから伝わる奇祭「うなごうじ祭」のHPを紹介します。
この祭りは,道路の上をどろんこになって,ころがって,練り歩く(練り転がる?),というので有名です。わたしの子どものころにも,しばしば話題になっていましたが,とうとうそれを見る機会を逸したまま,東京にでてきてしまいました。残念の極み。父は酔うと,よく,このときに囃し立てる歌を歌っていましたが,こどものわたしには理解不能でした。かなり卑猥な歌だったように記憶します。母が子どもの前で歌うな,と言っていましたから。

「うなごうじ祭」,正式には「若葉祭」といいますが,地元の人たちはみんな「うなごうじ」と呼び習わしていました。その祭りを紹介するHPができあがりました,と柴田晴廣さんからメールがありました。ちょうど,そのとき,浜松の「冨さん」というニックネームの人から,わたしのブログ「『穂国幻史考』なる奇書がとどく」にコメントが入っていました。この『穂国幻史考』の著者が柴田晴廣さんですので,早速,お礼とともに,このことをお知らせしました。

柴田さんは,伯父さん(母上のお兄さん)が浜松に住んでいるので,ひょっとしたら・・・と思ったけれども,違う人でした,と折り返しメールをくれました。柴田さんの母上とわたしとは小学校の同級生。ですから,そのお兄さんもおぼろげながら記憶があります。こどもながら,どこか古武士の風格を備えた,なんとなく「怖い」という雰囲気が漂っていた人だ,と記憶しています。その妹である母上もまた,しっかり者で,存在感のある人でした(小学校のころの記憶です)。いまは,とてもチャーミングな女性になっています。

で,浜松の「冨さん」は,わたしのブログを読んで,とても興味をもち,早速,この『穂国幻史考』を購入したそうです。そして,その記述のなかに,「冨永の冨の字の頭に点がないのは,そのむかし祖先が不本意ながら首を刎ねられるという事件があり,その記憶を子々孫々にまで伝えるためだった」という文面があります。ほんとうは,もっと長くて「えっ,そうなの」というびっくり仰天の話なのですが,ここでは割愛。これと同じ話を「冨さん」は,祖母と父から聞いている,というのです。ですから,もっと詳しい情報があったら教えてほしい,というのがコメントでした。

そこで,わたしは,なによりも『穂国幻史考』の著者柴田さんこそ,その冨永の直系の末裔であることを知らせ,同時に,柴田さんにも連絡しました。「冨さん」は,わたしの祖先は静岡県の佐久間町に住んでいた,と聞いていますという。佐久間といえば,穂国の豊川を遡っていけは必然的にそこにたどりつきます。いまは,佐久間ダムのあるところとして知られていますが・・・。わたしの予感としては,間違いなく,同じ「冨永」の一族だと思います。あちこちに逃げて,散らばって生き延びてきたその子孫だと思います。

といささか脱線してしまいましたが,その柴田さんは,この「うなごうじ祭」にも深くかかわってきた人で,いまもその世話人を務めていらっしゃる,と聞いています。ですので,こんどできたHPにも,早速,一文を頼まれ,面白い話を書いていらっしゃいます。いわゆる「うなごうじ」の語源について,公文書などに記載されている説は誤りだ,と鋭い指摘をしていらっしゃいます。郷土史家としての,長年の調査や文献研究の結果にもとづく結論ですので,説得力があります。

これからも,このHPをとおして,柴田さんはもっともっと詳細な情報を提供してくれるのではないか,とわたしは楽しみにしています。ちなみに,このHPのアドレスは以下のとおりです。
http://unagoji.dosugoi.net/

ぜひ,追跡してみてください。このHPに登録しておくと,随時,こちらに送信してくれるそうです。わたしは,すぐに,登録手続きを済ませました。こういう故郷の古い祭りが,また,元気を取り戻しつつあることを知るのは,とても嬉しいことです。それぞれの土地に根をもつ祭祀が,近代に入って,とかくないがしろにされてきた,とりわけ敗戦後の農村の民主化(生活合理化)運動のなかで,抑圧され,排除されてきました。その経緯の真っ只中で育ってきたわたしとしては,感無量,なんとも嬉しいかぎりです。

そんな思いもあって,これからも「うなごうじ祭」がどのような推移をたどるか注目していきたいと思います。柴田さん,頑張れ,と応援しながら・・・・。