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2016年1月5日火曜日

「<破局>(デュピュイ)に向き合う」(西谷修),再読。年頭なればこその所感。

 <破局>。カタストロフ。世界が根底から壊れてしまうような大惨事。この世の終わり。そんな,いつか,遠い未来にやってくるであろうとおもわれていた<破局>が,いま,すでに,わたしたちの目の前にやってきてしまった。わたしたちは,もはや,この<破局>と無縁では生きられない。この<破局>という現実を避けて通ることはできない。

 フクシマ。

 このフクシマと,どのように折り合いをつけながら,生き延びる方途を見出すべきか。このことのために全知全能を傾け,ありとあらゆる努力をしなくてはならない時代,それが<いま>だ。つまり,<破局>を迎えてしまった<いま>という時代だ。

 なのに,アベ政権は背を向けたまま無視だ。そして,放置したままだ。しかも,<破局>の事態はますます悪化の一途をたどっているというのに。世の識者たちの多くもまた,この事実を語ろうとはしない。メディアも忌避しているかのように,触れたがらない。むしろ,積極的に蓋をしてしまっている。まるで,なにもなかったかのように・・・・。

 しかし,ジャン=ピエール・デュピュイは,多くの著作をとおして,フクシマだけではなく,経済の問題をも包括した世界全体の<破局>問題を取り上げ,重視し,警鐘を鳴らしつづけている。このデュピュイの論考にいちはやく反応した,西谷修さんを筆頭とするグループの人たちは,この問題こそこんにちの思想・哲学上の喫緊の課題であるとして,真っ正面から向き合い,熱心に発言を展開している。

 その中核ともいうべき西谷さんの論文「<破局>に向き合う」(『カタストロフからの哲学』──ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって,渡名喜庸哲・森元庸介編著,以文社,2015年10月刊に収められた巻頭論文)を,新しい年を迎えた年頭に当たって,気持ちも新たに再読してみた。案の定,ずっしりと重いものがわたしのからだを駆け抜けていく。しばらくの間は震えが止まらないほど興奮する。読むたびに,それまでになかっか,なにか新しい共感が立ち現れてくる。この感覚はいったいなんだろう,と考える。

 ひとつには,まことに個人的な事情と直接,深く,重くかかわっている,と正直に告白しておこう。言うまでもなく,わたしはいま末期癌のステージ4を生きている。しかも,決め手となる治療の方法が見つからないまま,残りの「生」と向き合う日常を生きている。個人的な,まことに個人的な<破局>が目の前にきてしまった,というのが実感である。それでも,自助努力としてできることはやってみようとあらゆる智恵を絞り,よさそうだと納得できるところから始めている。そして,少しでも<破局>を向こう側に押しやるべく,ささやかな実践をこころがけている。

 こんな個人的な事情もあって,デュピュイのいう<破局>は,わたしにとっては切実な「生」の問題となって跳ね返ってくる。そして,西谷さんの説く「<破局>に向き合う」という論考が,きわめて深いところでわたしのこころに響いてくる。驚くほどの現実味を帯びて・・・・。それでいて,どことなくわたしのこころを癒してもくれる。

 それはなんと仏教的な世界観をわたしに想起させてくれるからだ。西谷さんは,この論考のどこにも仏教にかかわるような言説はしていないのだが,それでもなお,わたしの想像力は仏教的コスモロジーをつぎからつぎへと引き寄せてくる。仏教とはなんの関係もない西谷さんの言説にもかかわらず,わたしは勝手に仏教の世界に遊んでいる。これはいったいどういうことなのだろうか,と考えてしまう。しかし,そんなことはどちらでもいいことだ,と自分に言い聞かせる。

 詳しいことは割愛するが,西谷さんは,<破局>を回避するためには,発想の出発点を180度,転換させるほかはない,と断言する。つまり,人が「生きる」ということを第一優先として擁護することだ,と。「生きる」ということを肯定する思想こそが「善」なのだ,と。西田幾多郎の『善の研究』も,人が「生きる」ということを擁護している論考として読むと理解が深まる,と以前に聞いたことがある。つまり,与えられた「生」を生き切ること,あるいは,まっとうすること,そのことのためにわたしたちがなすべきことはなにか,そこから考え直すこと,これが<破局>を目の前にした<いま>,わたしたちがやるべきことだ,と。

 こうした西谷さんの言説が,わたしには,いま与えられている「生」をまっとうすること,と響いてくる。では,<破局>と向き合う<いま>を,わたしが「生きる」とはどういうことなのか,という命題がくっきりとみえてくる。すると,おのずからなる答えがみえてくる。そこに救済が透けてみえてくる。ああ,この「道」を行けばいい,と。それが,わたしには子どものころから馴染んできた仏教的世界観であり,その後も読み続けてきた仏典の解釈から得た知識であり,智恵である。その中に,その「道」を考えるヒントの多くが秘められている。

 と,そんな風にわたしは考えはじめている。

 やはり,再読をしてよかった,としみじみおもう。
 断っておくが,ここに書くことができたことがらは,わたしの思考のほんの概略にすぎない。曖昧模糊とした,いまなお言説化できない思考の部分にも,もっともっと重要なテーマが潜んでいる。これから思考が深まってきたら,また,言説化してみたいとおもう。たぶん,可能だとおもう。それを楽しみたいともおもう。あるいは,それがいまわたしが「生きる」ということの内実なのかもしれない。そんなことも含めて「生きる」とはどういうことなのか,を考えてみたい。そんなところにまで,西谷さんの論考の触手は伸びているようにおもうから。

 だから,これからも何回でも再読しながら,思考を深めていきたいとおもう。わたしが真に「生きる」ために。

2015年12月31日木曜日

仏教は「共生論」に徹する。道元さんのことばに説得力。

 西谷さんの集中講義聴講から帰ってきても,わたしの頭の中は「共生論」でいっぱい。授業中のさまざまなシーンを思い浮かべながら,「共生論」の寄って立つ基盤について考えてばかりいます。そんなときに限って,ふと,わたしの脳裏をよぎるのが仏教の考え方です。

 仏教の考え方は基本的に「共生論」です。門前の小僧であったわたしは,子どものころから,一寸の虫にも五分の魂,と教えられました。生きとし生けるものすべてが平等であり,分け隔てをしてはいけない,と教えられました。ましてや殺生をしてはならない,と。真夏にあっても,蚊を叩いて殺してはいけない,と。

 では,どうするのか。寺の庫裡は,夏も冬も障子だけです。夏は,この障子も開けっ放しです。夜になって電気をつけると,周り中の蚊が集ってきます。このままではかなわないので,夕食前に,七輪に火をおこし,その上に生木の杉の葉を山のように乗せて燻します。すると,杉の葉の強烈な匂いがひろがり,蚊はいっせいに退散してしまいます。こうして,しばらくの間(夕食の間)は蚊に襲われることなく過ごすことができます。

 夜,寝るときは蚊帳を吊って,蚊の襲来から身を守ります。もちろん,蚊帳の中に蚊が入ってしまうことはあります。そういうときには,うちわで扇ぎながら,蚊にとりつかれないようにします。それでも,寝てしまったときには,無意識のうちに,からだを刺した蚊を叩き殺してしまうことはあります。それは許容範囲のうちにありました。

 とにかく,蚊を殺さないで,蚊を追いやる,というのが原則でした。ですから,「蚊とり線香」という言い方は間違いだ,と。正しくは「蚊やり線香」と言うのだ,とも教えられました。本堂は,朝のお勤めから昼の勤行まで含めて,何回も線香が焚かれます。ですから,なんとなく線香の匂いが染み込んでいます。ここには蚊も近寄りません。夏の昼寝は本堂でするのが習慣でした。

 軽いまえおきのつもりが長くなってしまいました。
 さっそくですが,道元さんの説く「共生論」について,考えてみたいとおもいます。もちろん,道元さんが真っ正面から「共生論」という考え方を説いているわけではありません。そうではなくて,仏教とはなにか,仏法とはなにか,を説いているなかに「共生」を前提にしていることが読み取れる,という次第です。たとえば,以下のとおりです。

 仏道をならふといふは,自己をならふ也。
 自己をならふといふは,自己をわするるなり。
 自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。
 万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 この一節は,道元さんの主著『正法眼蔵』の劈頭を飾る「現成公案」巻に収められています。そして,道元さんの基本的な立場が,もっともわかりやすく鮮やかに描かれた文章として,広く知られているのがこの一節です。

 不要かとおもいますが,一応,現代語訳(頼住光子著『正法眼蔵入門』より)を付しておきます。

 仏道をならうとは,自己をならう(真の意味での自己がどのようなものであるのかを理解し,それをこの身に現していく)ことである。
 自己をならうというのは,自己を忘れる(個我として固定された自己から脱却する)ことである。
 自己を忘れるというのは,自己があらゆる存在とつながり合いはたらき合っていることを存在の側から自覚させられて悟らせられるということである。
 あらゆる存在によって悟らせられるということは,自己の身心,また自己とつながり合う他者の身心を解脱させるということである。

 ここには補訳もあって,より厳密に理解することができるようになっています。そして,ここに説かれている仏教的世界は,まさに,すべての存在がつながり合っている,ということを悟らせることであり,さらに,お互いにつながり合っているということすら解脱させることなのだ,ということです。ここで言うところの解脱(本文は脱落〔とつらく〕)については,もっともっと深い意味があることを書き添えておきます。詳しくは,各種の解説本を参照してみてください。

 なお,ここで言う「他者の身心」は,単なる他者の身心ではなく,山川草木,森羅万象,宇宙全体も含む,大いなる「他者」全体であることを書き添えておきたいとおもいます。これが,言うところの仏教的コスモロジーといえばいいでしょうか。わたしは,そのように理解し,考えることにしています。

 万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 この一文の意味するところの深さ,重さが,ひしひしとわたしの身心(しんじん)に伝わってきます。わたしという存在そのものが,大宇宙のなかに溶融していくような感覚と言えばいいでしょうか。そして,そういう世界のひろがりのなかに身も心も遊ぶ(遊戯三昧・ゆげざんまい),これが解脱(げだつ)であり,脱落(とつらく)の世界である,と。

 とまあ,西谷修さんの集中講義に触発され,その余韻の後産のような感想を書いてみました。ご批評をいただければ幸いです。

2015年12月9日水曜日

現代語訳『般若心経』(玄有宗久著,ちくま新書,2015年6月,第15刷)を再読。名著です。

 いつものように散歩を兼ねて書店に立ち寄ってみたら,『般若心経』と「玄有宗久」という文字が目に飛び込んできました。なんの躊躇もなく衝動買い。家にもどってから,あちこち拾い読みしてみましたら,「あれっ?」,なんだか読んだことがある・・・・? あわてて書棚を確認してみましたら,やはり,ありました。

 最近,こういうことが多くなってきました。サクセスフル・エイジング(笑い)。

 初版は2006年。その当時に買って読んでいたことをすっかり忘れて,二度買い。だれかにプレゼントしようかとおもっても,こんな本はだれも喜んではくれません。ので,名著並みの扱いにして,一冊は「書き込み」用,もう一冊は「通読」用に。

 しかし,読んでみますと,その印象は,かつてとはまるで異なっていました。なぜか。読み手が成長したから・・・とおもうことに。というか,読み手の意識が大きく変化している,というのが正解のようです。つまりは,末期ガンを患い,いま,まさに「死」と直面しながら日々を送っているために,否応なく意識が変化しているからなのでしょう。

 そのお蔭で,今回は,深いところまで手がとどくようによくわかりました。おおげさに言えば,もう,死んでもいい,とおもいました。死ぬといったところで,なんのことはない,「空」のなかにもどっていくだけのことだ,とこころの底から納得したからです。要するに,人の生死とはどういうことなのか,がよくわかったということです。このわたしなりの理解を要約しておきますと,以下のようになります。

 わたしの「いのち」もまた宇宙が繰り広げる自然現象のひとつであって,それ以外のなにものでもない,と納得したからです。ただそれだけの話ではないか,と得心したということです。仏教は,宇宙原理の根本を「無常」と説き,自然現象は,いっときたりとも「止まる」ことなく,変化をしつづけるものであると説き,その末端にわたしの「いのち」も位置づけられているにすぎないのだ,というわけです。ですから,一切の存在は「無」であり,「空」に帰っていく,と。

 「いのち」というエネルギーは,からだという乗り物にこころを乗っけて,走ったり跳んだりし,あるいは喜怒哀楽や理知や美意識として千変万化しながら,ひたすら「消尽」(燃焼)されるだけのものなのだ,と「よーく,わかった」という次第です。

 『般若心経』というお経は,このことをわかりやすく説いているにすぎない,と玄有宗久さんが,これまたわかりやすく解説をしてくれています。その意味では,類書にはない卓越した,仏教の神髄をもののみごとに解き明かしてくれる,まさに「名著」です。2006年当時(初版)は,あまり大きな話題にはなりませんでしたが,「3・11」を通過した「いま」,ふたたび注目を集め始めているのではないでしょうか。

 そんなにたいして大きな書店でもないのに,目立つところに「平積み」になって置いてあるということが,それを意味しているようにおもいます。言ってみれば,時代がこの本を受け入れるようになってきたのではないか,という次第です。

 このお経の構成は,きわめて単純明解です。まずは,観音様が,お釈迦様のお弟子さんのなかでは智恵第一といわれた舎利子にむかって,仏教(般若)の神髄(心経)について諄々と説いて聞かせるところからはじまります。その上で,最後にいたって,それらの教えを集約した「呪文」を唱えなさいと教えています。この呪文こそが,人間の声をとおして発せられる「いのち」のリズムであり,響きなのであって,この呪文が宇宙エネルギーの「消尽」と共振・共鳴するツールなのだ,というわけです。すなわち,わたしというミクロ・コスモスと宇宙というマクロ・コスモスとが共振・共鳴しつつ「一体化」していくための「通路」(ツール)なのだ,と。つまり,呪文こそが究極の「心経」なのだ,というのです。

 「ギャーテー,ギャーテー,ハーラーギャーテー,ハラソウギャーテー,ボージーソワカ」

 この呪文には意味はない,ただ無心に唱えることに意味がある,というのが玄有宗久さんの立場です。もちろん,この呪文を解釈し,翻訳することも行われてきています。しかし,無理に意訳をするよりは,音訳だけで十分である,とする側にわたしも与したいとおもっています。意味を考えながら呪文を唱えるよりは,なにも考えないで,無心になって呪文を唱えることの方がはるかに「理」にかなっているとおもうからです。

 お釈迦さんは,最終的には「死のすすめ」を説いたと言われています。つまり,うしろめたさを残さないで,潔く,きれいな生涯を送って,にっこり笑って死んでいけ,と。お釈迦さん自身も,死期を悟って横たわったとき,嘆き悲しむお弟子さんや信者たちを前にして,「悲しむことはなにもない」と説いたといいます。大宇宙という「浄土」の世界に帰っていくだけなのだから・・・と。

 わたしも,遅ればせながら,この経典を「死のすすめ」として,素直に受けとることができるようになったなぁ,としみじみおもいました。これもそれも,みんな末期ガンのお蔭です。まことにありがたいことです。

 なお,著者の玄有宗久さんは,もっともっと説得力のある明解な解釈を加えています。そして,大向こうを唸らせるほどの素晴らしい仏教的「世界」を解き明かしてくれています。ぜひ,ご一読をお薦めします。

 〔お断り〕玄有宗久の「有」は間違いで,これに「人偏」を加えた文字が正しい表記です。 

2015年10月19日月曜日

NHKスペシャル「バガン遺跡の謎」。貧富の差のない社会。

 10月18日(日)の夜9時からのNHKスペシャル「バガン遺跡の謎」をみて,久しぶりに感動しました。こんなにいい番組がつくれるではないか,と。それに引き換え,ニュース番組の体たらく,と鑑賞後につよくおもいました。

 ミャンマーのバガンというむかしの宗教都市には,いまも無数の仏塔や寺院が遺跡として残されています。なぜ,この地にこんなに多くの仏塔や寺院が残されたのか,その謎に迫る,というドキュメンタリーでした。

 11~13世紀にかけて栄えたバガン王朝時代に,7×6㎞ほどの土地に,映像でみるかぎり驚くほどの仏塔や寺院が点在しています。見渡すかぎり,仏塔・寺院の建造物だらけです。いったい,なぜ,これほど多くの仏塔や寺院が所狭しとばかりにバガン王朝時代に建造されたのか,それは長い間,謎とされてきました。

 しかし,最近の研究によって,ようやくその謎のヴェールが取り除かれつつあるということです。そして,現段階での結論が,きわめて興味深いものでした。

 それによりますと,「貧富の差のない社会」が実現していたということ,そして,その「貧富の差をなくすための装置」として,仏塔や寺院の建造がなされた,というものです。あるいは,仏塔や寺院を建造した結果として,「貧富の差のない社会」が実現したのではないか,というものです。

 その仕組みは以下のとおりです。

 バガン王朝が現れる前までは,さまざまな原始的な宗教がひろまっていました。たとえば,親殺しをしても呪文を唱えれば許されるとか,盗人であっても禊ぎをすれば罪はなくなるとか,種々雑多な宗教が蔓延していて,世の中が乱れていました。ところが,バガン王朝の初代の王が「仏教」を王朝の宗教と定め,仏教の教えを広めることに熱心に取組ました。

 ここで採用された仏教は,日本にも伝わった大乗仏教ではなく,上座部仏教といわれるもので,きわめて戒律の厳しいものでした。王が率先してこの上座部仏教の信者となり,その教えを実践に移しました。その一つが,仏塔や寺院を建造することでした。

 仏塔は,上座部仏教の宇宙観を視覚化して,だれの眼にもみればすぐにわかるように工夫されて建造されました。大きな土台部分が下界(悪事をはたらいて救われない人びとの世界,すなわち地獄),その上に人間界(仏教を信仰してまじめに暮らしている人びとの世界),さらにその上に天界(出家をして修行に励んでいる人びとの暮らす世界),そして,頂上には涅槃の世界(悟りに到達した人びとが暮らす世界)という,四つの層に分けて,わかりやすくしました。そして,その仏塔には,無数の仏像が刻まれ,出家をして悟った人の姿が,日常的に眼でみて確認できるようにしました。ですから,人びとは,この仏塔を眺めるだけで,仏教の宇宙観を日常的に窺い知ることができました。

 しかし,この巨大な仏塔を建造するには,多くの資金と人材を必要とします。王は,住民たちから集めた税金を,惜しげもなく仏塔建造のために使いました。そのために働く人びとには,それに見合うだけの賃金を支払いました。こうして,集めた税金は,ふたたび住民のもとに還元されていきます。しかも,王は仏塔を建てることは仏教の教えにしたがって「功徳」を積むことだ,そして,この仏塔を拝むこともまた「功徳」を積むことだ,さらには,仏塔の維持・管理に勤めるのも「功徳」である,と説きました。そうすれば,人間界から天界へ,そして涅槃に到達することも可能なのだ,と。

 ですから,人びとはみんなこぞって上座部仏教の熱心な信者となりました。そして,信者のなかには,金持ちになる者も現れます。すると,その信者は,私財をはたいて仏塔を建造します。こうして,金持ちのお金もまた再配分されて,住民のもとに還元されていきます。

 こうして,お金は,つねに循環してまわっていきますので,仏塔建造の仕事に従事することよって,一定の生活水準を維持することができる,というわけです。その結果として,「貧富の差のない社会」が実現され,人びとはとても幸せに暮らしていた,ということです。

 この伝統は,いまも生きていて,人びとは生涯に一度は出家をし,得度式を経験し,一定期間,寺院で修行をすることが慣習化されています。この得度式を受けるためにはお金が必要なので,そのために10年も20年もかけて貯金をして準備します。そうして,そのお金をすべて寄進して,得度式を経験し,修行することが「功徳」になり,生涯にわたる幸せをわがものとすることができる,と信じています。

 こうして,お金というものは,自分ひとりで抱え込むものではなくて,「功徳」を積むためのものであり,そのために潔く寄進することが幸せな暮らしを生みだすのだ,というわけです。

 ここには,いわゆる資本主義経済の考え方は存在していません。むしろ,マルセル・モースのいう贈与経済の一つの典型例をみてとることができます。つまり,貯まったお金は潔く「贈与」すること。ここでいえば,「寄進」すること。これが「功徳」を生み,幸せをもたらす源泉なのだ,というわけです。

 こういう上座部仏教が,いまもミャンマーの古都バガンには,立派に引き継がれ,実践されているというのです。その結果,いまも「貧富の差のない社会」が維持されており,みんな幸せに暮らしているといいます。

 これも,ルジャンドルのいう「法」(のり)が共同体の安寧を維持していく上では必要なのだ(西谷修)という,ひとつのサンプルとみていいのではないか,と考えました。そして,この上座部仏教の「法」もまた,立派な「ドグマ」なのだ,と。そして,道元さんの説く「正法」(眼蔵)もまた立派なドグマである,というわけです。安保関連法案もまた,立派な「法」であり,ドグマです。ですから,いかなる「法」をわがものとするか,が一大事というわけです。その意味でも,良質のドグマを手に入れなくてはなりません。憲法は,いま,わたしたちが手にしている「法」の根本です。ですから,この「法」を,もし,変更するのであれば,徹底的な議論を経てからのものでなくてはなりません。勝手に解釈を変えられてはたまったものではありません。それほどに「法」というものは大事なのだ,ということを肝に銘じておきたいとおもいます。

 ルジャンドルに言わせれば,ダンスもまた「法」(あるいは,「制度」)によって,表現の「限界」が定められているのだ,というわけです。土曜日の研究会でのお話が脳裏に鮮明に蘇ってきます。この話はまたいずれ・・・・。

2015年10月16日金曜日

太極拳の奥義をさぐる。月刊『武道』10月号からの転載。

 月刊『武道』(10月号,日本武道館発行)という雑誌に投じた拙稿を,恥ずかしながら,ここに転載しておきたいとおもいます。なぜなら,この雑誌,どうやら定期購読者に配布されていて,書店には並んでいないようですので。もっとも大きな図書館などには置いてあるかもしれません。

 というわけで,以下は,拙稿の転載です。
 なお,転載原稿はそのままではなく,多少の訂正・加筆があることをお断りしておきます。

テーマ:太極拳の奥義をさぐる。

太極拳の二つの流れ
 もう,かれこれ10年ほど,太極拳の稽古に励んでいる。稽古を積めば積むほどに,その奥の深さがみえてくる。じつに,懐の深い武術なのだ。まるで,坐禅の世界を思わせる。
 それもそのはずで,太極拳の思想・哲学的なバックグラウンドの一つは「道家思想(『老子道徳経』)にある。そう,一般的には「道教(タオイズム)」で知られている老子の教えである。禅仏教そのものが,インドの仏教と中国のタオイズムとの接触によって生まれたことを考えれば,当然のことではある。嘉納治五郎が説いた「柔よく剛を制す」もまた老子の教えにその根を求めることができる。柔道の「道」の根拠だ。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』もまた同じだ。つまり,武道の奥義はみんな一つのところに向かっていく,と言っていいだろう。
 さて,太極拳を語る上で,あらかじめお断りしておかなくてはならないことが一つある。中国の太極拳は,もともと武術として編み出され,伝承されてきた。しかし,日本には最初に「健康体操」(楊名時)として紹介されたのち,武術としての太極拳が導入されるという経過をたどった。そのため,いまでも多くの日本人は,太極拳は「健康体操」だと思っている人が多い。また,そのつもりで慣れ親しみ,愛好している人も多い。しかし,その後,武術としての太極拳が日本に導入されことになり,それを競技として愛好する人もどんどん増加し,いまでは日本武術太極拳連盟を組織して,全日本選手権大会を開催したり,世界選手権大会に選手を送り込んだりしている。
 太極拳の愛好者の数は,ひとくちに,連盟に加盟している競技志向の会員約100万人,それ以外の健康体操志向の愛好者約100万人といわれている。この数は,他のスポーツ競技団体と比べても,群を抜く数の多さだと言っていいだろう。つまり,こんにちの日本には,大きく分類すると,太極拳を競技として取り組む集団と,健康体操として愛好するグループの二つが存在している,と言ってよいだろう。

太極拳の奥に広がる禅的世界
 しかし,わたしの仲間たちが取り組んでいる太極拳は,この二つの系譜を継承しながらも,さらに,もう一つの可能性を追究している。それは,端的に言ってしまえば,太極拳の稽古をとおして垣間見えてくる,精神世界の時空間である。
 つまり,冒頭に書いたように,坐禅に通ずる「無心」の世界に遊ぶこと,すなわち,坐禅の神髄に近い経験に接近していくものとして,日々の稽古を位置づけてみよう,というのである。
 坐禅は,道元禅師(『正法眼蔵』)のいうには,修証一等の世界である。すなわち,修行すること(=修)と悟ること(=証)とは一つのことであって,表裏一体のものだ,と道元禅師は説いている。別の言い方をすれば,「証中の修」であり,「修中の証」である,と道元禅師は説く。「証中の修」とは,修行は悟りの範囲内でのものであり,それ以上のものでけはない,と。また,「修中の証」とは,悟りは修行の中に顕現するものである,と。すなわち,修行と悟りとは表裏の関係で結ばれ,たえず,両者の相補関係が維持され,悟りは修行そのものとして表出するのだ,と。
 また,道元禅師はつぎのようにも言っている。坐禅をしてみようと発心することが,すでに,一つの悟りであって,そうしてはじまる坐禅はすでにその悟りの表出そのものなのだ,と。「修証一等」とは,こういうことなのだ,と。すなわち,修行と悟りとは車の両輪のようなもので,相互に影響し合いながら,そのレベルを上げていくのだ,と。だから,無理をして修行しようとしてもなんの意味もない,と道元禅師は説く。

修証一等の世界と太極拳
 翻って,太極拳の場合はどうか。
 この道元禅師のいうことが,いちいち太極拳の稽古にもそのまま当てはまる。
 まずは,太極拳をするにふさわしいからだが出来上がるのに,2~3年はかかる。そして,太極拳らしい動作ができるようになるのに,さらに2~3年はかかる。少なくとも,わたしの場合はそうだった。しかも,この4~5年の間の稽古は,そのつど発見の連続でじつに苦しくもあり,楽しくもあった。
 つまり,からだが出来上がってくるにつれ,太極拳の動作もそれらしくなってくるのである。
 そして,次第に,からだと動作の微妙な緊張関係の狭間に,こころの有り様がきわめて重要な意味をもっていることに気づきはじめる。そこで,この気づきを追究することになる。すると,やがては,心技体がみごとに調和しはじめるようになる。このとき,なんとも言えない快感が全身を走る。
 これは,上手・下手とは関係ないところで起きる現象である。下手は下手なりに,上手は上手なりに,その快感を味わうことができる。この世界は,坐禅のそれときわめて近い,とわたしは受け止めている。つまり,修証一等の世界のそれである。
 初心者も上級者も,いま,持ち合わせているからだにふさわしい表演ができたとき,ある種の喜びの感情・快感が沸き上がる。
 この経験が,おそらくは太極拳のステップ・アップのきっかけとなり,からだも動作もつぎのステージへと押し上げられていく。
 この世界は,もはや,修証一等のそれとなんら変わるものではない。

「無心」──行雲流水の世界
 その究極の世界の一つのサンプルが,わたしたちを指導してくださっているR老師の表演である。初めて,公の場でR老師の表演を見せていただいたとき,直観的にわたしの脳裏に浮かんだのは「行雲流水」ということばだった。じつに静かで,滑らかで,それでいて力強く,からだのあらゆる部位がつねにしなやかに動きつづけるR老師の表演は,わたしに鮮烈な印象を残すものだった。後日,このことをR老師に告げると,「行雲流水」は太極拳の目指す究極の目標の一つだ,だから,わたしはつねにそれを念頭に置いて表演を行うようにしている,と。
 ところが,競技を志向する太極拳は,採点基準が明確に示されていて,そのルールに拘束されてしまう。つまり,少しでもよい得点がでること,これが最優先される。しかも,「行雲流水」的な表演を評価する得点の配分はきわめて少ない。その結果,競技太極拳の動作はますます形骸化していき,太極拳本来の精神世界は軽視され,薄っぺらな表演になってしまう。R老師もこの点を嘆き,憂えている。
 他方,健康体操を志向する太極拳もまた,精神世界のことはあまり重視してはいない。むしろ,舞踊的な美しい動作が求められ,その結果としてこころとからだのバランスを取り戻し,健康をわがものとすることをよしとしているように見受けられる。
 わたしの仲間たちの目指す太極拳は,この両者の狭間をすり抜けるようにして,もともとそうであったように,太極拳本来の奥義ともいうべき精神性に接近してみようというのである。そして,ここにこそ,嘉納治五郎が説いた柔道の世界とも通底する太極拳のもう一つの可能性が開かれている,と固く信じている。わたしたちの太極拳に対するR老師の教えのポイントもここにある。最近は,とくに「無理をしない」「力を抜いて」という檄が多くなってきている。それはまさに「修証一等」の世界の実践である。重く受け止め,その奥義を極めたい,と念じている。
 太極拳のもう一つの可能性,そのゴールは「無心」──行雲流水の世界である。

 以上。月刊『武道』,10月号,P.16~19.

2015年10月14日水曜日

観音導利興聖宝林寺。道元が建てた日本初の中国式禅道場。

 観音導利興聖宝林寺。通称・興聖寺(こうしょうじ)。道元が建てた日本初の中国式禅道場。寺を名乗っているが,道元が建てたのはすべて禅道場。のちの永平寺も,道元が生きている間は禅の修行道場であった。すなわち,雲水たちのみならず,道元自身の修行道場でもあったのだ。なぜなら,禅僧は生涯にわたって修行をつづけるものであって,悟ったからそれでもういいということはありえない,と道元は考えていたからである。つまり,ひとくちに悟りといっても「その時その位」というものがあって,悟りそのものはどこまでも際限がないものだ,というのが道元の基本的な考え方であった。したがって,寺の住職として安穏な生活を送り,修行を怠るのは,禅僧としては堕落である,と考えていた。

 その終わりのない修行のために建てた日本初の中国式禅道場,それが観音導利興聖宝林寺。この長い寺の名前が,ふつうなら,通称は宝林寺であるはずなのに,そうではなく興聖寺。なぜ,そのように呼ばれるようになったのか,わたしは長い間,疑問をもっていた。が,その解答はなかなか見つからなかった。が,ようやくそのヒントを見つけることができた。そして,それはたぶん,正解だろうとおもうにいたった。

 その前に,なぜ,宝林寺という呼称にこれほどまでにこだわるのか。その理由を明らかにしておく必要があろう。じつは,わたしが敬愛してやまない大伯父が住職をつとめていた寺の名前が宝林寺。その宝林寺に,わたしたち家族は空襲で焼け出され路頭に迷ったときの,戦中・戦後のしばらくの間,疎開してお世話になった。その間,従姉妹たちと生活をともにした。一緒に食事をし,遊び,学校に通った。だから,宝林寺は,わたしたち家族にとっては,最大のピンチを救ってくれた,大事な大事な「とまり木」でもあった。その上,大伯父と大伯母が,気持ちを籠めてわたしたち家族を擁護してくださった。その記憶は,小学校2年生とはいえ(であったからか),深く鮮明に印象に残るものであった。だから,わたしたち家族にとっては生涯にわたって忘れることのできない,宝物のような思い出となった。

 だから,道元の建てた寺の通称も,興聖寺ではなくて宝林寺であってほしいという願望がこころの奥深くにある。これが本音である。実際にも,道元の建てたこの寺の影響は大きく,全国に「宝林寺」を名乗る寺はたくさんある。興聖寺とは比較にならないほど多い。大伯父が住職をつとめた宝林寺もまた,その流れを汲む禅寺のひとつなのだ。

 さて,話を本題にもどそう。
 観音導利興聖宝林寺。この寺の名称からは,観音さまがご利益を導き,「聖」(正法)を興して,栄える寺,というような含意をくみ取ることができる。しかし,ここにいう「宝林」とはなにか。たんに「宝が林のようにたくさんある」というだけの意味ではなかろう,というのがわたしの疑問であった。つまり,「宝」とはなにか。もっと具体的な含意があるはずだ,と。

 この謎解きのためのヒントに,ようやくにして出会うことができた。ちょうど,いま,読み込みをはじめている秋月龍みんの「道元禅師の『典座教訓』を読む」(ちくま学芸文庫)のなかに,つぎのような文章がある。

 「清規」とは,”清衆の守るべき叢林の生活規則”の意である。「叢林」とは,文字どおり”クサムラやハヤシのように,多くの雲水(修行僧のこと)が集って修行する道場”の意である。その叢林で修行する僧を尊んで「清衆・せいしゅ」といい,その”清衆の守るべき道場の規則”という意味で「清規」と書いて「シンギ」と発音した」(P.38.)。

 ここにでてくる「叢林」を,道元はもう一つ格上げして,「宝林」と読み替えたのではないか,これがわたしの仮説である。その根拠はなにか。道元が最初に建てたこの禅道場では,在家・出家を問わず,しかも男女も問わず,修行することを奨励した,という。そして,ここに集ってくる衆(清衆)は,単なる「クサムラやハヤシ」(=叢林)ではなく,「タカラの集まり」(=宝林)だ,と道元は考え,そのように接したのではないか。その願望も籠めて,「叢林寺」ではなく「宝林寺」としたに違いない,とこれはわたしの解釈であり,仮説である。

 実際にも,大伯父が住職をつとめた宝林寺には,本堂の西側に「衆寮」(しゅりょう)があり,東側には立派な庫裡があった。衆寮とは,文字どおり,衆(清衆)が寝泊まりするところ。本堂とは切り離された独立した建物になっていた。いっぽう,庫裡の出入り口には広い三和土の土間があり,その右側にはこれまた広い台所があった。ここが典座の活躍する場である。庫裡はさらに奥に伸びていて,大きな客室が並んでいて,さらにその奥には方丈さんが執務する部屋が並ぶ。この他にも搗き屋や蔵が独立して建っていた。これ以外の細かなことは省略するが,この寺の境内の構えからして,往時には,かなりの雲水を擁した禅道場であったことがうかがわれる。

 そこは,まさに,近隣から清衆が集いきて坐禅・修行に励んだところであっただろう。

 この,わたしの推理は,たぶん間違ってはいないだろう,とおもう。全国に散在する宝林寺と名のつく寺を尋ね歩いてみたいものである。また,新たな発見があるかもしれない。見果てぬ夢ではあるが,楽しみではある。

「仏道をならうというは自己をならうなり」。「平常心是道」の道元的解釈。

 禅仏教では,「平常心是道」の「道」は「仏道」のことを意味する。そして,「平常心」とは「仏道」のことだ,と解釈する。では,その仏道とはなにか。それがわかれば,平常心のなんたるかはおのずからわかってくることになる。

 たとえば,日本に曹洞禅をもたらした道元さんは「仏道」をどのようにとらえていたのか。まずは,道元さんのいう「仏道」についての有名な一文を引いてみよう。

 「仏道をならうというは,自己をならうなり。自己をならうというは,自己を忘るるなり。自己を忘るるというは,万法(まんぽう)に証せらるるなり。万法に証せらるるというは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(『正法眼蔵』「現成公按」の冒頭にある文章)。

 道元さんの文章にしては,珍しく,とてもわかりやすいところなので,とりたてて解説をする必要はないだろう。ここでのポイントは「自己を忘るる」ことにある。自己を忘れることができれば,あとは,仏の教え(万法)に身もこころも委ねることができる。そうなれば,自己も他己もなくなる,「物我一如」の境地に達するというわけだ。

 しかし,その前に「自己をならう」がある。「ならう」(=習う)の「習」の字のもともとの字は,「羽」の下に「白」ではなく「自」と書いた。つまり,中国語では,雛鳥が親の羽ばたくのをみて,自分の羽をばたばたさせて習うことを意味した,というのである。つまり,「まねぶ」(まねる),「まなぶ」こと。このことを中国語では「習」という。

 道元さんのいう「自己をならう」は,先覚を手本にして自己を「習う」ということを意味する。そうやって,まずは自己を否定して「無我」にすること,すなわち,自己を「空」にすること,これが道元さんのいう「自己を忘れる」ということの意味だ。こうして,自己を「無」にして「空」になると,自己をとりまくすべての他己との境がなくなってしまう。このことを「脱落」と道元さんはいう。つまり,身もこころも,すべて仏陀の教え(万法)にゆだねてしまうことだ。

 こうして,まずは自己否定を通過して,その暁に真の自己肯定が実現する,というわけだ。仏道を習うということは,こういうことなのだ。そして,これが「平常心」ということの内実であり,実態なのである。言ってしまえば,「平常心」とは「自己の身心も他己の身心も脱落」した状態(=ある時のある位)のことを意味する。もはや,そこには自然と融合した,あるがままの「物我一如」の境地があるのみである。是れ,すなわち「平常心」=「仏道」。

 ことここにいたって,ふたたび,わたしの脳裏に鮮明に浮かび上がってくるのは大伯父の最晩年のことばである。すなわち,「まんだぁ,お迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」。

 これこそが「身心脱落」のお手本そのものではないか。そして,「物我一如」の境地を悠然と生きている姿そのものではないか。だから,わたしと話をしているときの,にっこりと笑った笑顔が,わたしのこころを強く打った。めくるめくような,不思議な感覚だった。まるで「脱落」せんばかりに・・・。「おしも,いつかは,こんな風になるだぁやれ」という声が,いまごろになって聞こえてくる。なにか,これから歩むべき道筋を指し示してくれているような気がする。

 最近,道元さんの本を読みたがるわたしのこころはなにかに突き動かされている気がしてならなかった。ひょっとしたら・・・・・。そんな予感のようなものもふくめて,そろそろ大伯父という先覚をお手本にして「自己をならう」ことからはじめようか,とさえ思いはじめている。でも,この俗物には無理だなぁ,ともおもう。まあ,いいではないか。慌てることはない。ひとつの流れがいまつくられつつある,とありのまま受け止めておけば・・・。そして,その流れに身をゆだねていけば・・・・。

 今回もきりのいいところで,ここまでとする。また,いずれつづきを。

2015年10月13日火曜日

「びょうじょうしん・しー・たお」「平常心,是れ,道」。

 「平常心是道」。

 中国人の友人に,このことばのことを聞いてみた。
 問:中国でもよく知られていることばですか。
 答:中国人なら,だれでも知っていることばです。
 問:中国語ではどのように発音しますか。
 答:「びょうじょうしん・しー・たお」
 問:どういう意味ですか。
 答:直訳すれば,平常心がタオである。つまり,余分なことを考えないこと。自然のままに身もこころも委ねること,これがタオである,と。

 これと同じ質問を,中国人の友人に問い返されたので,つぎのように応答した。
 日本では,仏教用語として知られているので,知らない人もいる。とりわけ,禅の世界でどのように解釈されているかを知っている人は稀である。
 読み方は,「平常心,是れ,道」。
 意味は,平常心でいることが仏道を生きる道である,と。

 すると,中国人の友人はつぎのように語った。
 中国では,仏教用語だと認識している人は少ないとおもう。道(タオ)といえば,だれもがタオイズム(道教)の中心概念を思い浮かべる。だから,道教のことばだとおもっている人が多い。したがってけ,禅仏教のことまで知っている人は少ない。
 そして,「平常心,是れ,道」の「是れ」とはどういう意味なのか,と聞かれる。中国語の「是」(シー)は,英語でいえば「be」動詞に相当する。だから,「である」であって,「是れ」にはならないから,と。

 ここでハッと気づく。日本語では「平常心,是れ,道」と読んだり,耳にしたりして,なんの矛盾も感じない。しかも,「是れ」という日本語もある。だから,そのまま日本語に読み下すことで,なるほどと納得する。しかし,「是」(シー)は「be」だという。ということは「平常心=道」ということになる。しかも,タオイズムの「タオ」である,と。

 もともと,禅仏教は,インドの仏教と中国の道家思想とが融合して生まれた,仏教の新しい宗派のひとつであることを考えれば,タオイズムと禅との親近性があってもなんの不思議もない。むしろ,タオイズムの「タオ」(道)が,仏教のなかに持ち込まれたと考える方が自然である。このことを念頭において,もう一度,日本語で読み下してみる。

 「平常心,是れすなわち,仏道なり」。あるいは,「平常心,是れすなわち,禅なり」,と。

 ここまで考えが至りついたときに,ふたたび,くだんの大伯父の背後を飾っていた掛け軸「平常心是道」の「文字」がありありと蘇ってくる。それは,いわゆる書家の文字ではない。明らかに,禅僧が書いたものに違いない。どこにも力みがない,平常心そのままの文字なのだ。上手でもない。下手でもない。そういうレベルを超越している文字なのだ。使った筆も,相当に使い古した,穂先がすり減ってバサバサになった筆である。だから,おのずから枯淡の味が伝わってくる。掛け軸が,なにも主張することなく,楚々としてそこにある。しかし,よくみると,いつのまにやらその文字に魅了されていき,虜になってしまっている。身動きがとれなくなってくる。懐の深い,底無しの世界,とでもいえばいいのだろうか。あるいは,これぞ「空」というべきか。

 この掛け軸をこよなく愛したであろう大伯父は筆の立つ人であった。それも尋常一様の筆の使い手ではなかった。いまもありありと思い出すことのできる大伯父の書いた扁額がある。本堂(仏殿)の裏側に位置する祖堂(法堂・ほっとう)にかかっていた扁額である。そこには「無二無三」と書かれてあった。それはそれは切れ味鋭い,覇気迫るものであった。仰ぎ見る者に向かって,これでもか,といわぬばかりの迫力に満ちていた。

 「二」もなければ,「三」もない。あるのは「一」だけだ。ましてや,「四」の「五」の言うな。真実はたった一つ「正法」のみ。ただ,それだけだ。その「一」に向かって歩む道。「一道」。一道無為心。

 しかし,大伯父自身は「若書きの至り」と述懐されていた,と聞く。なるほど,と納得。だからこそ,あの枯淡の味がにじみ出ている「平常心是道」の掛け軸を身近においたに違いない,と。

 今回もまた,「平常心是道」の禅仏教的解釈にまで踏み込むことはできなかった。したがって,もう一度,このテーマについては書くことにしたい。今日はここまで。

「平常心是道」。「まんだぁお迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」。

 一年半の間に,二度の大手術を受けて,ようやく「死」というものが目の前に見えてきたようにおもいます。それまでは,まったく健康そのものでしたので,「死」などというものを考える暇もありませんでした。まるで,遠いさきの世界の,非現実的な想像上の問題だとおもっていました。しかし,昨年と今年と短期間のうちに二度もの大手術を受け,集中治療室での一昼夜,二昼夜を過ごして,そこからなんとか這い出して一般病室に移り,必死のリハビリをして退院する,などという経験をすると,人間はいやでも人生観・死生観が変わるものです。いや,変わらざるを得ないものです。

 そんなこともあって,最近は,道元さんの本を読むことが多くなりました。同時に,苦労して育ててくれた両親をはじめ,空襲で焼け出されて丸裸になってしまったわたしたち家族をまるごと面倒をみてくださった大伯父・大伯母のことや祖父母のこと,などなど生前なにかとこころに響くことばをかけてくださった人びとのことが,走馬灯のように思い起こされます。同時に,日一日とともにあの世のことが身近に感じられらるようにもなってきました。

 そんなとき,ふと脳裏をよぎるのが,晩年の大伯父がお会いするたびに言われたことばです。「まんだぁお迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」。にこやかな笑顔にだまされ,うまいジョークを言うなぁ,と思いながら笑って受けとっていました。その大伯父の背後の床の間には「平常心是道」という掛け軸がかかっていました。わたしはこの掛け軸のことばがずーっと気になっていて,一度,どこかでチャンスをみつけて大伯父に聞いてみようとおもっているうちに,そのチャンスを逃してしまいました。残念の極みです。

 最近になって,道元さん関連の本を読んでいると,しばしば,このことばに出会います。そして,いろいろの解釈ができることばなのだということも知りました。ならば,わたしも自己流の解釈をしてみようと思い立ちました。そうして,いろいろと考えているうちに「ハッ」と気づいたことがありました。それは,さきほどの大伯父のことば「まんだぁお迎えが来んでなぁ,生きとるだぁやれ」がそのまま「平常心是道」そのものではないか,ということです。

 それには伏線があります。わたしがまだ小学生のころですので,大伯父もまだ若かったころのことです。ある日,大伯父が本堂でお経を上げていました。そのとき,突如として雷が鳴り始めました。それも稲妻と同時に雷鳴が轟くという,とんでもない雷でした。みんな怖くなって,大伯母と子どもたちは庫裡の奥の部屋に蚊帳を釣ってそのなかに集まって震えていました。しかし,本堂のお経は止むことなく,いつもどおりのリズムの木魚の音とともに読経がつづいています。その間も,雷は激しく鳴り続けていました。

 読経が終わって庫裡に引き揚げてきた大伯父は,通りすがりにひとこと。「雷は落ちるときには落ちる。落ちないときは落ちない」,と。すました顔をしていました。このときのことを思い出すたびに,大伯父は達観している,ふつうの人ではない,と思い描いていました。まさに,大事にしていた掛け軸の「平常心是道」をそのまま生きていたんだなぁ,といまにして納得です。

 最晩年のある日,いつものように朝食をとり,大伯母が裏の畑にでかけている間に,おそらく「お迎え」の声を聞いたのでしょう。ひとりでふとんの中に入り,大往生を遂げていた,といいます。

 この大伯父の生きざまをみていて思うことは以下のようなことです。平常心とは,死の承認ではないか,と。死を受け入れるということ。死と正面から向き合うということ。この境地に達してしまえば,もはや畏れるものはなにもない。その境地を淡々と生きること。それが平常心そのもの。それこそが仏道の道。「平常心是道」とはこのことを言っているのだろう,と。

 馬祖道一のことばと言われているこのことば。仏教用語としてはどのように解釈されてきたのか,そしてまた,曹洞禅ではどのように受け止められてきたのか。この点については,少し長くなりますので,別の稿として書いてみたいとおもいます。

 ということで,今日のところはここまで。

2015年8月26日水曜日

興林山宗隆寺。陶芸家濱田庄司の菩提寺。溝口神社の隣に。

 たしか以前,この寺にきた記憶がある。しかし,記憶にある寺とはまるで違う門構え,本堂の立派さ,雰囲気の重々しさにしばしとまどう。左手の丘陵に沿った墓地をみると,間違いなく以前,ここにきて,墓地も歩き回った記憶がある。なぜなら,濱田庄司のお墓があるという小さな看板があり,それにつられて,いきなり墓地に入っていった記憶が鮮明に残っているからだ。

 そんなことを思い浮かべながら,じっと山門を仰ぎ見る。「興林山」という山号の扁額が掲げられている。以前はこんな山門はなかったはず・・・。そして,その周囲を囲む土塀もなかったはず・・・。正面の本堂も,もっともっと奥まったところにひっそりと佇んでいたようにおもう。つまり,なんにもないだだぴろい境内と,左側の墓地を区切る金網の柵があっただけのはず・・・。

この山門の周囲でうろうろしていたら,右脇の道路に面して「陶工 濱田庄司の墓」という表示板をみつける。これをみて,ああ,間違いない,と確信。以前(といっても,すでに17年も前の話)は,もっと小さな板ッぴれに「濱田庄司の墓がある」寺,と書いてあっただけだった。でも,それをみて,すぐに墓地の中に入り,濱田庄司の墓をさがした記憶がある。左側の墓地のいちばん奥まったところにその墓はあった。

 
この掲示板のすぐ左脇に,濱田庄司の筆跡を残す碑まで立っている。そうか,こういう文字を書く人だったのだ,としみじみ眺め入る。大きな皿絵や,ときおり,その中に書き込まれている文字はお目にかかったことはあるが,碑文としてみるのは初めて。「昨日在庵 今日不在 明日他行」とみごとに,昨日・今日・明日の時間認識を四文字で言い表している。そういえば,濱田庄司は仏教にも造詣の深い人だったことを思い出す。

 
そうか,以前,ここを尋ねたときからすでに17年もの歳月が流れているのだから,寺のたたずまいも変化して当たり前だ。しかも,こんなに立派になっている。おそらく当代の住職は相当の力量の持ち主に違いない。山門から本堂までの石畳の道もつけて,しかも,以前の本堂とは比べ物にならないほどの立派な本堂を,ずっと手前に引き寄せて,山門からの距離もちょうどいい。

 
本堂に向かって歩いていくと,左側には立派な石段を登っていった先に大きな「祖師廟」が建っている。これも,以前はなかったものだ。本堂の右側には,「善日麿」の像が立っている。善日麿とは日蓮の幼名だと書いてある。そうか,ここは日蓮宗の寺だ,と知る。そして,本堂の正面に立ってみると「宗隆寺」という扁額がかかっている。この寺は日蓮宗の興林山宗隆寺だったのだ。

 
わたしの育った寺は道元さんの曹洞宗だったが,中学時代に日蓮さんに興味をもち,何冊か伝記本を熱中して読んだ記憶がある。しかし,幼名が善日麿だったことはすっかり忘れていた。まずは,お顔をしっかりと拝ませてもらう。童顔とはいえ,しっかりした顔だちである。成人してからの日蓮さんの肖像は,あちこちで拝ませてもらっている。とくに印象に残っているのは,洗足池のほとりに立つ日蓮像だ。見る者を圧倒する迫力満点の大きな顔と鋭い眼力,一度,見たら忘れない,その意味では傑作の像が立っている。だから,この善日麿のお顔に,わたしの眼は吸い込まれていく。まだ,幼児とはいえ,いいお顔である。

 そんな感慨にふけっていたら,若い僧が現れ,5時で山門を閉めるからお帰りください,という。そうか,ちかごろは不用心なので,午後5時には閉め切ってしまうのだ,と納得。しかし,これでは寺本来の姿(機能)からは遠ざかっていくことになる,このことをどうお考えなのか,とつい尋ねてみたくなった。が,ぐっと我慢することに。

 と同時に,17年前は,門構えも囲い(土塀)もなにもなく,だれでも,いつでも,出入り自由,そういう昔からの寺の役割をはたしていた。だから,迷わず濱田庄司の墓を探しに,こころの赴くままに入っていった。しかし,今回は,墓地に入っていくこと,そのことにいたく抵抗を覚える,そういう寺の構え,墓地への入口の重苦しい雰囲気にしり込みをしてまった。不用心という世の中の変化が,寺をも閉鎖的にしてしまうのだ,と山門の外に立ってしみじみと考えてしまう。

 こんな世の中にだれがしたんだ,と自問自答を繰り返す。政治の貧困をこころからおもう。

〔追記〕
この興林山宗隆寺と溝口神社はすぐ隣合わせのところにある。いまは,この寺と神社の間に民家が建っているが,江戸時代の大山街道がにぎわっていたころには,この寺と神社は大きな境内をもち,お互いに接していたのではないか,とわたしは想像する。そして,「赤城大明神」として賑わっていたのではないか・・・とも。

2015年8月18日火曜日

お盆・雑感。65年前の記憶。

 ことしもお盆が過ぎ去って行った。最近では,お盆だからといって特別のことがあるわけではない。むしろ,なにごともなく平凡な日常のなかに埋没してしまっている。

 本来ならば,両親のお墓参りに行かなくては・・・とおもう。しかし,気がついてみたら,もう,すでに自分のからだを移動させることすらままならない年齢になっている。おまけに,去年,ことしと二度にわたって大きな手術を受けてもいて,ますます,からだがままならなくなってきている。だから,お盆どころの話ではない,というのが正直なところ。

 それでも,やはり,お盆となると,気持は落ち着かない。何回も,お墓参りを考えた。しかし,ことしの猛暑に圧倒されて二の足を踏むことになった。そして,とうとうなにもしないままお盆が過ぎて行った。その間,さまざまなことを思い浮かべていた。

 とりわけ,遠い子どものころの記憶をたどりながら・・・。

 わたしは田舎の小さな禅寺で育った。いわゆる寺の小僧だった。村の人たちからもそのように扱われたし,子どもたちの間でも「寺の子」として特別な目でみられていた。いいことをすれば寺の子だから当たり前。悪いことをすれば寺の子なのに,と非難された。いずれにしても割に合わないとおもいながら子ども時代をすごした。

 それだけではない。寺の小僧にとってお盆は特別な行事だった。夏休みに入るとすぐに寺の境内の掃除にとりかかる。父も僧侶専業ではなく教員をしていたので,夏休みを待って,お盆の準備にとりかかる。

 なにをするのか。
 
 お墓の掃除・・・雑草を抜いて,落ち葉を拾う。
 広庭の掃除・・・こちらの掃き掃除は日常的に行っているが,雑草を抜き,花畑などの柵の取り替え,など。
 寺の境内を囲んでいる細葉垣根の刈り込み・・・たこ糸を張って,綺麗に仕上げるには相当の熟練を要する。
 本堂の縁の下の掃除・・・こちらは,もっぱら小さい子ども,すなわち,三男のわたしの仕事。
 仏具磨き・・・真鍮製の仏具を磨き砂でていねいに擦って磨きあげる。時間をかけて,綺麗に仕上げるには相当の根気が必要。
 本堂の蜘蛛の巣払い,仏壇の掃除・・・ふだんはやらないので,ことのほか丁寧にやる。
 法事用に備えてある食器類洗い・・・こちらも年に一回の仕事。
 台所の竈まわりの掃除・・・三つの釜を同時に炊きあげることのできる大きなものが広い台所の三和土にでんと鎮座している。道元さんの『赴粥飯法』(ふしゅくはんぽう)にもあるように,食事の支度は禅寺では重要な修行のひとつ。これを担当する僧の地位も高い。燃料はもっぱら枯れ枝を掻き集めてきて,山のように積んである。ときには,薪割りした立派なものも置かれる。つまり,寺の心臓部に相当するところ。だから,ことのほか綺麗にすることが求められる。
 便所の掃除・・・お客さん用と自分たち用の二カ所。外にも一カ所。これをだれが担当するかで,毎年,揉めた。最後はジャンケン。
 坪庭の掃除・・・ここは寺の美学が集約された場なので,何回もチェックを受けて,ようやくOKがもらえるやっかいな場。
 施餓鬼台の設置・・・本堂の正面入口の階段のところに施餓鬼台を設置して,檀家から届けられるお供えを飾る。
 その他・・・鶏小屋,うさぎ箱,台所の流し場の排水溝,などなど。

 いま,すんなりと思い出せるものだけでこれだけある。もっと,丁寧に拾っていけば,まだまだ仕事はでてくる。が,まずはこれだけのことは,毎年,繰り返し行われてきたことだ。

 これらの仕事を,夏休みに入ってから8月12日までにやり終えなくてはならない。13日には「迎え火」をするために檀家の人たちがお墓にやってくる。それまでに,すべての準備が完了していなくてはならない。期限が切られているので,最後は必死の追い込みとなる。

 8月15日の法会を終えて,16日の精霊流しをして,お盆の行事は終わる。

 暑い盛りの,藪蚊に刺されながらの仕事だった。主として,午前中に外の仕事を終え,昼寝をして,夕刻からは,建物の中での仕事になることが多かった。この昼寝の間に,親の目を盗んで,友だちと川に泳ぎに行くのが唯一の楽しみだった。ほとんどバレていたが,でも,時間までに帰っていれば,とりたててとがめられることもなかった。友だちたちは川で遊んでいるのに,ひとりだけ早めに引き上げるには決断力が必要だった。時計もなにもない。経過した時間を勘で推定する以外には方法はない。ときおり,時間を忘れて遊んでしまったときには,雷が落ちた。このときは,覚悟して,いつもより多くの仕事をするよう努力したものだ。

 いまから65年前の話である。ちょうど,小学校6年生。

 お盆が終わってから,ほんとうの「夏休み」がやってきた。残りは10日余り。それまでに,宿題を片づけなくてはならない。とりわけ,工作と図画には時間がかかった。どちらも嫌いではなかったので,楽しいのだが,その間に友だちとも遊ばなくてはならない。こちらもまた大事な付き合いだった。しかも,その遊びの中心は「野球」だった。だから,自分のポジション(キャッチャー)を守るためにも,休むわけにはいかない。

 時間がいくらあっても足りないほどだったのに,いま,思い返すと「時間」は止まっていた,そんな印象が強い。たくさんのことをこなす充実した時間をすごしていた,とおもう。

 そんなことを思い浮かべながら,ことしもお盆をやりすごしてしまった。

 さて,来年こそはお墓参りに行こう。いまから決めておかないと動けない,と自分に言い聞かせながら・・・・。

2015年7月28日火曜日

此帰依仏法僧の功徳必ず感応道交する時成就するなり・・・・。『修証義』第14節。

此(この)帰依(きえ)仏法僧(ぶっぽうそう)の功徳(くどく)必(かなら)ず感応(かんのう)道交(どうこう)する時(とき)成就(じょうじゅ)するなり,設(たと)い天上(てんじょう)人間(にんげん)地獄(じごく)鬼畜(きちく)なりと雖(いえど)も感応(かんのう)道交(どうこう)すれば必(かなら)ず帰依(きえ)し奉(たてまつ)るなり,已(すで)に帰依(きえ)し奉(たてまつ)るが如(ごと)きは,生生(しょうじょう)世世(せせ)在在(ざいざい)処々(しょしょ)に増長(ぞうちょう)し必(かなら)ず積功(しゃくく)累徳(るいとく)し阿〇多羅三〇三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成就するなり,知(し)るべし三帰(さんき)の功徳(くどく)其(そ)れ最尊(さいそん)最上(さいじょう)甚深(じんじん)不可思議(ふかしぎ)なりということ世尊(せそん)已(すで)に証明(しょうみょう)しまします,衆生(しゅじょう)当(まさ)に信受(しんじゅ)すべし


 ここでは「感応道交」という,ふだん眼にしない仏教用語が登場しています。しかし,この文字をじっと眺めていますと,なんとなくこんな意味ではないかなというイメージが湧いてきます。このイメージ・トレーニングはとても大事だとおもいます。とくに,道元さんは,漢語をそのまま日本語に導入しているばかりでなく,その漢語をひとひねりもふたひねりもして,独自の意味を付与させたりしています。しかも,それについてとくに説明をしたりもしません。ですので,まずは,そのまま道元さんの用語を受け止めておいて,あれこれ想像してみることが大事だとおもいます。また,道元さんはそのように読むことを,むしろ,強要しているようにおもいます。言ってみれば,道元さん特有のことば遊びが随所に登場しますし,その「遊び」のなかに,じつは深い真理が隠されているといっても過言ではないからです。

 こんな文章を書いてしまいますと,お前はいったいなにを考えているのか,道元さんのことがわかっていないのではないか,とお叱りを受けるかもしれません。しかし,その叱咤をしっかりと受け止めた上で,さらに,つぎのように言っておきたいとおもいます。

 道元さんは,漢語と日本語との区別をほとんど無視して,自由自在にこの二つの言語の間を往来させています。しかも,漢語にしろ,日本語にしろ,そのことばの持っている固定化した概念をつぎつぎに壊していきます。そして,それらのことばに新しい生命を吹き込もうと必死に創意・工夫を加えていきます。しかも,みずから概念崩しをし,新しい生命を吹き込んだ,そのことばすら,さらにその概念を崩し,もっと深い概念をそこから読み取ろうと,絶えることのない努力を積み重ねていきます。それが,道元さんのいう「修行」であり,「悟り」であるということです。

 このことを一語で現したことばが「修証一等」ということばです。そして,このことばこそが道元さんの主著である『正法眼蔵』を貫くきわめて重要な柱となっていることを,ここではあえて指摘しておきたいとおもいます。

 なぜ,こんなことを書くのかといえば,ここに登場する「感応道交」ということばもまた,道元さんの思考を受け止める上できわめて重要な概念のひとつであるからです。つまり,「修証一等」と同じように「感応道交」もまた,それが成就する時節はつぎつぎに進化していくからです。このことがわかっていれば,この第14節は,問題なく理解できるとおもいます。

 感応道交とは,「感」はわたしたち衆生が仏の威力,慈悲力などを感じとること,「応」は,衆生の願いや祈りに対して仏が応答すること,「道交」とは,この二つが互いに交信・共鳴すること。したがって,感応道交とは,仏と衆生とがひとつになって共振・共鳴することを意味します。

 ですから,冒頭の「此帰依仏法僧の功徳必ず感応道交する時成就するなり」は,文字どおり読んだとおりの意味を示しています。すなわち,仏法僧に帰依し祈りつづける功徳は,かならず仏と一体化して感応道交するときに成就されますよ,というわけです。

 たとえそれが,天上界であろうとも,あるいは人間界であろうとも,地獄界,鬼畜界であろうとも,仏と感応道交すればかならず仏法僧の三宝に帰依することができるのですよ,と説いています。

 ですから,すでに三宝に帰依している人たちは,生まれ変わり死に変わりして未来永劫の時間が経ても,そして,その場所が変化しようとも,その功徳は積み重ねられていき,アノクタラサンミャクサンボダイの最高の正しい悟りに到達することができるのです。わたしたちがわきまえ,知らねばならないことは,仏法僧の三宝に帰依する功徳こそがもっとも尊く,もっとも上等なものであるということ,しかも,それははなはだ不思議なものであり,人間的思惟の範疇を超え出たところのものであるということです。このことをお釈迦様がすでに証明されているのですから,わたしたち衆生はそれを確信して,「信受」する以外にはないのです。

 というのが,第14節での,わたしの読解です。

2015年6月22日月曜日

「其帰依三宝とは正に浄信を専らにして・・・」。『修証義』第13節。

 其(その)帰依(きえ)三宝(さんぼう)とは正(まさ)に浄信(じょうしん)を専(もっぱ)らにして,或(あるい)は如来(にょらい)現在世(げんざいせ)にもあれ,或(あるい)は如来(にょらい)滅後(めつご)にもあれ,合掌(がっしょう)し低頭(ていず)して口(くち)に唱(とな)えて云(いわ)く,南無帰依仏(なむきえぶつ),南無帰依法(なむきえほう),南無帰依僧(なむきえそう),仏(ほとけ)は是(こ)れ大師(だいし)なるが故(ゆえ)に帰依(きえ)す,法(ほう)は良薬(りょうやく)なるが故(ゆえ)に帰依(きえ)す,僧(そう)は勝友(しょうゆう)なるが故(ゆえ)に帰依(きえ)す,仏弟子(ぶつでし)となること必(かなら)ず三帰(さんき)に依(よ)る,何(いず)れの戒(かい)を受(う)くるも必(かなら)ず三帰(さんき)を受(う)けて其(その)後(のち)諸戒(しょかい)を受(う)くるなり,然(しか)あれば則(すなわ)ち三帰(さんき)に依(よ)りて得戒(とくかい)あるなり。


この第13節はとてもわかりやすく,仏の道への入口の話をしています。そこからは道元の絶対的な自信と,その自信に裏づけられた余裕のようなものすら感じとることができます。仏の正しい教え(正法)を伝授され,さらに一歩,その真理を深めた境地から湧き出てくる不動の信念といってもいいでしょうか。

 まずは,第13節の冒頭から,わかりやすく読み下してみることにしましょう。

 仏法僧の三宝に帰依するということは,こころをまっさらにして(浄信),如来さまがこの世にいようがいまいが,あの世にいようがいまいが,そんなことは関係なく,ただひたすら合掌して頭を低くし,南無帰依仏,南無帰依法,南無帰依僧と口に唱えることなのです。

 なぜなら,仏は偉大なる師匠であるからこそ帰依し,その偉大なる師匠の教え(法)は良薬となるがゆえに帰依し,それを説く僧はすぐれた友であるから帰依するのです。

 つまり,仏弟子となるということは,この三つの宝(仏法僧の三宝)に帰依するということなのです。どのような戒(戒律)を受けることになるとしても,必ず三宝に帰依してから,そののちに諸戒を受けることになるのです。

 そういうことですから,まずは三宝に帰依することによって,はじめていろいろの戒を得ることができるようになるのです。

 第13節は,たった,これだけです。なんとわかりやすいことでしょう。

 これで終わってしまっては,なんともはや物足りないとおもわれますので,少しだけ補足の説明をしておきたいとおもいます。それは,「南無」と「帰依」ということばの意味についてです。

 まずは,「南無」。「ナンマイダー」「ナンマイダーブ」「ナンマイダーブツ」「ナムアミダーブ」などと唱えるときの「ナン」「ナム」が「南無」のことです。「ナンミョウホウレンゲキョウ」と唱えるときの「ナン」もまた「南無」です。つまり,お題目を唱えるときの冒頭に置かれていることばが「南無」です。

 では,いったいこの「南無」とはなにを意味しているのでしょうか。仏教辞典を引いてみますと,「南無」はサンスクリット語の namas を漢字で音写したことばである,と書いてあります。その意味としては,「帰命,頂礼,恭敬,敬礼,信受」などを意味する,とあります。これらの一つひとつのことばの意味はそれぞれに深い意味があるわけですが,それらの意味をすべてひっくるめたことばが「南無」だということです。だとすれば,「南無」とは,敬いの気持,あるいは畏敬の念を表するためのことばの冒頭につける挨拶ことばである,と考えていいようです。

 ここまでわかってきますと,南無阿弥陀仏とは,恭しい阿弥陀仏さま,と呼びかけていることばだということがはっきりしてきます。それがいろいろに音韻変化して「ナンマイダーブ」「ナンマイダー」「ナムアミダーブ」「ナンマイダーブツ」となったということもわかってきます。

 つぎは「帰依」です。「帰依」はサンスクリット語を漢語に意訳して,編み出されたことばである,と辞典には書いてあります。そして,「帰」とは,最終的にみずからの落ち着き場所に帰着すること,本来あるべきところにもどり落ち着くこと。「依」とは,なにかのかげを頼りにして姿を隠すこと,転じてなにものかを頼り,なにものかに依拠すること。

 したがって,「帰依」とは,優れたものに帰投し依伏すること,すなわち「信仰すること」,ということになります。

 これで,南無帰依仏,南無帰依法,南無帰依僧,と唱えることの意味もおのずからはっきりしてきます。恭しく敬い身もこころも投げ出して全身全霊で信仰いしたます仏さま,というのが「南無帰依仏」というわけです。以下,同じように「法」と「僧」にも誓います。これが「全身全霊」で「三宝」に「帰依」するということの意味となります。

 以上で第13節の読解は終わりです。

2015年6月6日土曜日

若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり。『修証義』・第12節。

 若(も)し薄福(はくふく)少徳(しょうとく)の衆生(しゅじょう)は三宝(さんぼう)の名字(みょうじ)猶(な)お聞(き)き奉(たてまつ)らざるなり,何(いか)に況(いわん)や帰依(きえ)し奉(たてまつ)ることを得(え)んや,徒(いたず)らに所逼(しょひつ)を怖(おそ)れて山神(さんじん)鬼神(きじん)等(とう)に帰依(きえ)し或(あるい)は外道(げどう)の制多(せいた)に帰依(きえ)すること勿(なか)れ,彼(かれ)は其(その)帰依(きえ)に因(よ)りて衆苦(しゅく)を解脱すること無(な)し,早(はや)く仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し衆苦(しゅく)を解脱(げだつ)するのみに非(あら)ず菩提(ぼだい)を成就すべし。

 
この第12節も,二つほどのタームを除けば,あとは難しいことばもありませんので,比較的容易に理解できるのではないかとおもいます。ですから,そちらから調べてみたいとおもいます。

 まずは,「所逼(しょひつ)」。辞典で調べてみますと,「押しつけられること,強要されること,迫られること」とあります。逼迫(ひっぱく)の「逼」のある「所」と解釈すればいいようです。

 つぎは「制多」。こちらも調べてみますと「霊廟,塔廟,霊祠」とあります。そして,さらに「神聖視されている樹木,樹木の下の祠,石の塔,蟻塚,お堂など,そこになにか霊のようなものが宿っていそうなもの全般」を意味する,とあります。

 それではつづいて,最初から,センテンスごとの解釈を試みてみましょう。

 「若し薄福少徳の衆生は三宝の名字猶お聞き奉らざるなり,何に況や帰依し奉ることを得んや」=もし,福が薄く,徳が少ない衆生は三宝(仏法僧)の名前すらまだ聞いたことがないのです。ましてや仏法僧の三宝に帰依するなどということができるわけがないのです。

 〔※ここで説かれている「福徳」については『正法眼蔵』のなかでも,いろいろのところで説かれていて,じつは,とても深い意味があります。が,ここでは,ごくふつうに「福徳」として受け止めておくことにしましょう。ただ,仏教的な意味での福徳であることだけは意識しておきましょう。ひとつだけ例を引いておきましょうか。たとえば,「よのつねに打坐する,福徳無量なり」=いつも坐禅に打ち込むことは,仏道に邁進することであるので,ここには福徳が限りなく備わっている,という具合です。〕

 「徒らに所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し,或は外道の制多に帰依すること勿れ」=わけもわからないままに不気味で威圧されるようなものに怯えて山神や鬼神などに帰依したり,仏教以外の霊廟に帰依してはならない。

 「彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し」=人間はその帰依の仕方によってもろもろの苦しみから解き放たれることはない。

 「早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて,衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし」=すみやかに仏法僧(仏とその教えとそれを説く僧)の三つの宝に帰依することによって,もろもろの苦しみから解き放たれるだけではなく,悟りの境地に到達するのです。

 以上の読解をつなげてみますと以下のとおりです。

 もし,福が薄く,徳が少ない衆生は三宝(仏法僧)の名前すらまだ聞いたことがないのです。ましてや仏法僧の三宝に帰依するなどということができるわけがないのです。わけがわからないままに不気味で威圧されるようなものに怯えて山神や鬼神などに帰依したり,仏教以外の霊廟に帰依してはならない。人間はその帰依の仕方によってもろもろの苦しみから解き放たれることはない。すみやかに仏法僧(仏とその教えとそれを説く僧)の三つの宝に帰依することによって,もろもろの苦しみから解き放たれるだけではなく,悟りの境地に到達するのです。

 第12節の読解は以上です。

2015年5月30日土曜日

「道」の道元的解釈について。道転法輪,仏道,得道,道元,一道。

 『老子道徳経』の冒頭には「道可道,非常道。名可名,非常名」(道の道とすべきは,常の道に非ず。名の名とすべきは,常の名に非ず)というよく知られたことば掲げられています。そして,「道」とはなにか,すなわち「タオ」(道)とはなにかを問い続けます。つまり,この世界の始源としての「道」を探求していきます。ここには,一般的に「道教」(タオイズム)と呼ばれる教えで説くところの「道」の世界が繰り広げられています。

 それに対して,仏教では,「道」は,一般的には「真理」「さとり」を意味します。しかし,禅宗では中国の漢の時代の口語的用法に則って「言う」の意味でも用いられています。道元の『正法眼蔵』のなかでは,「言う」とともにそれを名詞化して「言葉」としても用いられています。さらに,道元は,ふつうには「転法輪」といわれることばに,わざわざ「道」を加えて「道転法輪」ということばを用いています。一般の注釈書では,「道」に特別の意味をもたせずに,転法輪と道転法輪とは同じ意味だと解釈して済ませています。

 しかし,それは違うのではないか,と頼住光子さんは注目します(『正法眼蔵入門』,角川文庫,平成26年12月刊,P.161~167.)。なぜなら,道元は,ことばで表現することが不可能だとされる「さとり」の真相を,なんとか言語で伝えられないものかと創意工夫を加えながら,言説化に挑戦したのが『正法眼蔵』であることを踏まえると,一般に「転法輪」で済ませられているものを,わざわざ「道転法輪」ということばを編み出し,それを自著のなかに埋め込んだのには意味があるはずだ,と頼住光子さんは考えるからです。

 「転法輪」とは,一般には,釈迦の説法のことを意味します。つまり,釈迦の教えである「法」を車輪にたとえ,これを転がしていくことによって釈迦の教えをひろめる,というほどの意味です。このことばは釈迦の弟子のだれかが創案したもので,それが広く認知され用いられるようになったのだと考えられます。しかし,道元はそれでは不十分だと考えたのでしょう。そこで,道元がみずからの「さとり」の経験を踏まえて,より精確に表現するとしたら「道転法輪」というべきだ,と考えたに違いないと頼住光子さんは洞察しています。

 そして,つぎのように考察を展開しています。とても重要なところですので,そのまま引用しておきたいとおもいます。

 そこで,「道」に関して『正法眼蔵』の用例を調べてみると,多数の用例の中で特に注目されるのが,「菩提薩〇四摂法(ぼだいさったししょうほう)」巻の「道を道にまかするとき,得道す。得道のときは,道かならず道にまかせられゆくなり」(全上・764)である。ここで言っている「道」とは「仏道」であり,「仏のさとり」である。「道」を「道」に任せる時に,「得道」(「さとり」を得る)が可能になると言われている。この文章は,「道」を修行するのは個々の修行者ではあるものの,その修行は,他と二元対立的に切り離された個別的存在としての修行者が主体となって行う行為ではなくて,あらゆるものが結びつき合いはたらき合う「道」全体,真理の全体が主語となり,今,ここにおける修行というかたちで自らを顕現しているということを意味している。ここでは,真理としての「道」そのものが主体となっているのである。「道」を単なる「言う」と考えるならばその主体は誰か人間となるであろうが,ここでは真理としての「道」そのものが主体なのである。

 このように述べた上で,さらに,つぎのようにつづけています。

 この用例を踏まえて考えてみれば,「道転法輪」とは,「道」を「道」にまかせたものとしての,つまり,真理としての「道」が主語となった「道転法輪」であると理解することも可能となる。「道転法輪」とは,──中略── つまり,真理がたしかに顕現するということを真理自らが語っているということになる。「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉は,仏性の有無を説明する言葉などではなくて,真理それ自身が,真理の現成する構造を言葉として語っているものとして理解すべきなのだと道元は言うのである。(だからこそ,「悉(ことごと)く仏性あり」ではなくて,悉有(しつう)は仏性なりと読み下される必要があるのである)。

 このように述べた上で,この「道転法輪」の考え方が『正法眼蔵』全体の基底をなすのだ,と頼住光子さんは述べ,道元の主張する「修証一等」という考え方もここにつながるのだ,と結論づけています。こんなにみごとにわたしを納得させてくれた類書は他にはありません。みごとなまでの道元解釈の頼住ワールドを切り拓いているようにおもいます。

 ことここに至って,「道元」という命名そのものにも深い意味があること,そして,この名の人こそ『正法眼蔵』の著者に値するということ,仏道とはたんに「ほとけの道」ではないこと,得道とは「道転法輪」をわがものとすることを意味すること,道元とは,まさに,その「道」の「元」を極めた人の号であること,ということなどがわたしのこころの奥深くで一気に得心されることになります。

 そして,最後に,にっこり笑顔でわたしの脳裏に登場するのが,わたしの尊敬する大伯父である一道和尚のことです。そして,「一道」と命名したわたしの祖父・仙鳳和尚の顔がつづきます。お二人とも,宝林寺の住職。道元が最初に建てた寺の名が「宝林禅寺」(通称,聖興寺)。おそらくは,生涯にわたって道元禅師を意識しながら,その生をまっとうされたに違いない,とこれはわたしの推測。

 いま,生きていてくれたら『正法眼蔵』読解の手ほどきを願い出たことだろうに・・・とかなわぬ夢を思い描いています。至福のとき。

2015年5月22日金曜日

次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし。『修証義』・第11節。

 世の中がうさん臭くなってきて,困り果てています。戦後最悪の首相・アベが,憲法を無視し,民主主義を踏みにじり,無節操にアメリカに媚びへつらい,暴走につぐ暴走がつづいています。その暴走に歯止めがかけられない日本国はもはや民主主義国家としての体をなしていません。この暴走に,ようやく国民の多くが気づきはじめ,政治の潮目が変わろうとしています。が,まだ,アベはそのことに気づいていません。いな,気づいていながら無視しています。

 こんなときですので,こころを平静に保ち,人間としての生きざまの原点に立ち返って,思惟を深めることが,ことさらに重要であるようにおもいます。

 そこで,久しぶりに『修証義』の世界に浸ってみたいとおもいます。

 前回の第10節までで第2章(懺悔滅罪)が終わり,この第11節から第3章(受戒入位)に入ります。受戒入位とは,文字どおり戒を受けて仏の位に入る,というほどの意味です。第2章では,懺悔をすれば罪を滅し去ることができますよ,と説かれていて,第3章では,そのつぎのステップを提示し,戒を受ければ仏の位に入ることができますよ,と道元は説いています。

 では,第11節の経文を引いてみることにしましょう。

 次(つぎ)には深(ふか)く仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)を敬(うやま)い奉(たてまつ)るべし,生(しょう)を易(か)え身(み)を易(か)えても三宝(さんぼう)を供養(くよう)し敬(うやま)い奉(たてまつ)らんことを願(ねご)うべし,西天(さいてん)東土(とうど)仏祖(ぶっそ)正伝(しょうでん)する所(ところ)は恭敬(くぎょう)仏法僧(ぶっぽうそう)なり。

 
冒頭の「次には」とでてくるのは,第2章の懺悔滅罪を経たあとという意味での「次」です。つまり,懺悔滅罪を済ませ,次なる受戒入位をめざすには「仏法僧」の三宝を敬い奉ることが肝要である,と道元は説いています。仏とはほとけさま,法とはほとけさまの教え,僧とは僧侶のことです。仏教ではこの三つを「宝」と考えています。ですから,この「三宝」に対して畏敬の念をもつこと,これが仏門の入り口でしっかりと確認されます。

 ここでは「三宝」は自明のこととして軽く流されていますが,『修証義』の専門の解説本によれば,「三宝」にはさらに三つの観点から考えられているといいます。すなわち,「住持三宝」「現前三宝」「一体三宝」の三つです。

 住持三宝とは,仏壇や須弥壇に祀られている仏像,経典,雲水・修行僧のことを意味します。
 現前三宝とは,正覚(正しいさとり)を成就した釈尊を仏宝,その正覚の教えを法宝,その教えを人に説き伝える僧侶たちを僧宝と呼び,この三つの宝を意味します。
 一体三宝とは,仏法僧という三つの宝は,じつは一体不二のものであるということを意味します。すなわち,同一の法性真如(不変の本性・本質)を三つの側面から光を当ててみたにすぎない,というわけです。

 このように考えてきますと,ひとくちに「三宝」と呼んでいても,その奥はきわめて深いことがわかってきます。ですから,仏門に入る者は,まずもって仏法僧の,この「三宝」に畏敬の念をいだかなくてはいけない,というわけです。

 では,わたしの読解を提示しておきましょう。

 懺悔滅罪ののちは,仏法僧の三宝をこころから崇敬することが大事です。たとえ,生まれ変わったり,死に変わったりしても三宝を忘れることなく供養し,敬いつづけることが肝腎です。西天のインドでも東土の中国でもほとけさまの教えが正しく伝承されているところでは,みんな仏法僧をこころの底から大事にしているのです。

 最後に蛇足ながら,わたしの父の名前は「戒心」といいます。幼名は「唯雄」。わけあって生まれた寺とは別の寺に預けられ,そこの養父が名づけたと聞いています。国語辞典には「用心すること。油断しないこと。警戒。」とあります。しかし,わたしの記憶では「こころを戒めよ」という意味だと聞いています。名づけ親(わたの祖父でもある)の仙鳳和尚は,なかなか学識のあった人だと聞いています。だとすると,道元が『正法眼蔵』の中で説いた「受戒入位」のことが念頭にあって,「戒を受け入れるこころ」(すなわち,仏門に入るこころ,覚悟),あるいは「戒を授けるこころ」を大事にせよ,という思いを籠めたのではないか,とこれはわたしの推測です。というより,『修証義』読解を試みる,いまの,わたしのこころにはそんな風に響いてきます。ちなみに,父はこの名前をとても大事にしていました。

 わたしの崇敬する大伯父・一道和尚(わたしの父とは兄弟のようにして育てられた人で,一道の名も仙鳳和尚による)が,ときに「戒心やい」(三河弁の親しい呼びかけのことば),とじつに親愛の情のこもった声で語りかけていた姿がいまも彷彿とします。この二人の関係は生涯にわたってゆるぎないものでした。そして,これまたわたしの大好きな大伯母でさえ羨むほどの仲のよさだったそうです。この話を思い出すたびにわたしの胸は熱くなってきます。二人とも受戒入位の人だったんだ,としみじみおもいます。ですから,ほとんど会話らしい会話をしなくてもお互いに相通じ合っていたようです。ありがたい(有り難い)ことです。合掌。

2015年5月12日火曜日

『正法眼蔵入門』(頼住光子著,角川文庫)を読む。よくこなれていてすとんと腑に落ちる。みごと。

 道元の名著『正法眼蔵』を理解したい,と長年にわたって夢見てきた。だから,そのための入門書や解説本も何冊も手に入れて,自分なりに読解ができないものか,と挑戦をしてきた。しかし,必死の努力にもかかわらず,ことごとく跳ね返され,挫折を繰り返してきた。その結果は,生半可な理解しかえられず,忸怩たるものがあった。

 が,ようやくその壁を打ち破るチャンスが到来した。まさに「ご縁」を覚えるようなテクストに出会ったからだ。それが,表題にかかげた頼住光子著『正法眼蔵入門』(角川文庫,2014年12月25日,初版)である。わたしにとっては運命の出会いともいうべきテクストとなった。なぜなら,じつによくこなれた頼住光子の文章が,ことごとくすとんとわたしの腑に落ちていくのである。一種の快感である。だから,読まずにはいられない,そういう衝動にかられるテクストなのである。これまでのような苦渋にみちた努力など必要ないのである。暇があれば,何回でも読みたくなる,そういうテクストなのだ。まことにありがたいことだ。

 じつは,しばらく前の東京新聞に3回にわたって,かなり大きなコラムで「道元」を連載したことがあって,それで頼住光子という人の存在を知った。しかも,じつにわかりやすい文章なのが印象的だった。そのときは,新聞だから,読者のことを考えてわかりやすい平易な文章で語ってくれたのだろう,とおもっていた。しかし,そうではなかった。平易な文章で書けるほどに「道元」のことも「正法眼蔵」のことも自家薬籠中のものとしていたのだ。そのことを,このテクストをとおして知った。じつに難解な道元の文章を,じつにわかりやすくときほぐしてくれるのである。

 その最初の手がかりとなったのは,道元の文体には二種類あって,道元はそれを使い分けて書いている,という頼住光子の指摘である。一つは,だれもが理解できる,いわゆる世俗の人びとが用いる説明調の文体である。つまり,わたしたちが用い,慣れ親しんだ,みんなが共有する言説である。この文体で書かれた部分はだれにもよくわかる,という。なるほど。以前から,こんなにわかりやすい文章を書く人が,肝心要のところにくると,なにを言っているのか杳としてその真意がつかめない,そういう文体が登場する。これが,道元の二つめの文体だ,という。

 それは,仏教の世界で起きていることがらを説明するときの文体である。それは世俗の世界でみえている事態とはまるで異なる次元のことを語るときの文体なのだ。そこでは世俗の二項対立的な分節はなんの役にも立たず,むしろ,邪魔ですらある,という。もっと言ってしまえば,仏教世界のことがらは,ふつうの言語で説明できることがらではない,と道元は考えていた。これを禅の世界では「不立文字」という。しかし,周囲の弟子たちから請われるままに,言説化が不可能な世界を言説化するには,世俗とは異なる言語体系を構築し,そこに委ねるしかないと道元は考えたのだ,という。

 たとえば,「迷悟一如」。迷いと悟りはひとつのことだ,という。そして,迷うのも悟りの一つであり,悟るのもまた迷いの一つなのだ,と道元はいう。だから,迷いと悟りはまったく同じものなのた,というのである。しかし,こういう論法は,世俗に生きるわたしたちには理解不能だ。そこに,頼住光子は割って入って,つぎのように読み解いてくれる。

 人は迷いがあるから仏門を叩くことになる。仏門を叩くときすでにその段階での悟りをえている。そして,その悟り=迷いのレベルに応じて修行が開始される。すると,どことなく当初の迷いが消え,ある種の悟りをわがものとする。しかし,そのうちにまた新たな迷いが現れる。これは新しい悟りの境地なのだ。もうひとつレベルの高い悟りに達したから,それに対応する迷いが生ずるのだ,と。このようにして,迷いがなければ悟りには至らないし,悟りをえるとまた新しい迷いが生まれてくる,この繰り返しが仏(さとり)の道なのだ,と。これが,道元の説く「迷悟一如」なのだ,というわけである。

 これとまったく同じ論法が「修証一等」ということばだ。修行することと悟る(証)ことは一つのことであって,まったく同じものなのだ,という。修行をしようと発心するとき,すでに,人はある悟りをえている。だから,修行をしようと思い立つ。なにもなかったら修行などを思い立つこともない。こうして,修行と悟りは一つの鎖のように連鎖していく。だから,修行(=悟り)には終わりがない。無限につづく。しかも,行住坐臥,すべて修行だ,という。つまり,生きていることそのことが修行であり,悟りなのだ,と。

 あるいは,「青山常運歩」という。つまり,「山は動く」と。人間が「動く」(運歩=歩く)のと同じように「青山」(=山)もまた「運歩」(=歩く)するのだ,と説く。こんなことは,世俗の世界ではありえない。しかし,仏(=さとり)の世界では,人と山とが一体化し,一つになってしまう。つまり,自己と他己(仏教用語で,他者のこと)との境がなくなってしまう。そこが「空」の世界であり,その境地に立てば,人と山は一つになっているので,人が動くのと同じように山も動く,そこになんの違和感もなくなる,それが「さとり」の世界なのだ,という。

 いわゆる禅問答が展開していく。もちろん,道元が『正法眼蔵』で説いている仏教世界は,それまで先人たちによって蓄積されてきた遺産を引き継いだものだ。そこに,さらに道元固有の工夫や思考の深みを加えたものが『正法眼蔵』なのである。

 ここに挙げた例はほんの一例にすぎない。が,しかし,このようにして道元の説く仏教世界の入り口が鮮明にみえてくると,もっと読もうという意欲が湧いてくる。いや,それどころか抑えようがなくなってくる。それほどのインパクトをこの頼住光子の入門書は持ち合わせている。

 もっとも,この現象は,頼住光子の入門書を真っ正面から受け止められるレディネスを,たまたま,わたしが持ち合わせていたからこそ起きたことにすぎないかもしれない。それにしても,久しぶりに読書による愉悦に浸ることができた。そして,これからはいつでもその愉悦に入ることができる。幸せである。おまけに,ここをうまくクリアすれば,おそらく本丸である道元の『正法眼蔵』の解説本に踏み込んでいくことも可能だろう,と夢見ている。

 そして,いつの日にか,念願の『正法眼蔵』読解・私家版を書いてみたい・・・・と。

2015年4月19日日曜日

我昔(がしゃく)所造(しょぞう)諸悪業(しょあくごう)・・・・。『修証義』第10節。

 我昔(がしゃく)所造(しょぞう)諸悪業(しょえくごう),皆由(かいゆう)無始(むし)貪〇痴(とんじんち),従身口意(しゅうしんくい)之(し)所生(しょしょう),一切(いっさい)我今(がこん)皆懺悔(かいざんげ),是(かく)の如(ごと)く懺悔(ざんげ)すれば必(かなら)ず仏祖(ぶっそ)の冥助(みょうじょ)あるなり,心念(しんねん)身儀(しんぎ)発露(ほっろ)白仏(びゃくぶつ)すべし,発露(ほっろ)の力(ちから)罪根(ざいこん)をして〇〇(しょういん)せしむるなり。

 以上で『修証義』の第二章懺悔滅罪の終わりです。要するに,仏さまの前で懺悔をすれば罪は消えてなくなりますよ,という教えを説いた章の最後の節(第10節)です。

 
この第10節の冒頭の四句は経文そのままが並んでいます。一見したところ,なんのことかさっぱりわからないように見えますが,不思議なことにじっと眼をこらして眺めていますと,なんとなく意味がわかってきます。そして,ある程度,意味が透けてみえてきましたら,こんどは声に出して何回も何回も読み上げてみましょう。すると,なんとなくわかったような気持にさせてくれます。

 実際にも,この四句の懺悔のための文言を唱えれば,お釈迦さまのあらたかなる助けの手が伸びてきますよ,とそのあとに書かれています。ですから,何回も何回も唱えつづけるだけでも,意味がおのずから通じてくるようです。でも,それだけではあまりにも不親切のようにおもわれますので,ここは参考書を手がかりにして,ひとまず読みくだし文にしてみましょう。

 「われ,むかしより造りしところのもろもろの悪業は,みな,無始の貪〇痴(とんじんち)に由る,身口意より生ずるところなり,一切われ今,みな懺悔したてまつる」となります。この読みくだし文を何回も何回も唱えるだけで,さらにその意味が次第に鮮明になってきます。

 この読みくだし文を,さらに現代語風に意訳をすれば以下のようになります。

 わたしがそのむかしに造りだしたところのもろもろの悪業は,どれもこれもみんな無始の貪〇痴(とんじんち)から生ずるものであります。(ここでいう貪〇痴の「貪」とは貪欲のこと,「〇」(じん)とは怒りのこと,「痴」とは愚痴のこと,つまり「おろかさ」のことです。)これらは身口意の三つの活動にしたがって生ずるところのものであります。(すなわち,「身」とは身業(殺生・盗み・邪淫)のこと,「口」とは口業(妄語・綺語・悪口・両舌)のこと,「意」とは意思による悪業(貪欲・怒り・邪見)のこと,です。)これらのすべてを,いま,懺悔いたします。

 というような具合になります。

 残された難関は,「冥助」と「心念身儀発露白仏」,の二つの文言だけでしょう。

 まず「冥助」とは,知らずしらずのうちにいただく仏さまの加護・助力というほどの意味です。
 つぎの「心念身儀」とは,心や意識の念想と,身体の威儀作法のこと,つまりは全身全霊のことです。「発露」とは,ありのままにすべてをさらけ出すこと,「白仏」とは,仏に告白すること,したがって,「発露白仏」とは,仏さまの前で自己の罪悪を包み隠さず,すべてをありのまま告白・懺悔することを意味します。

 これだけのことを頭に入れた上で,なんども声にして読み上げてみましょう。第10節の最後の文言もなんなく理解できることでしょう。

 さて,最後にわたしの意訳を挙げておきましょう。

 わたしがそのむかしになしたもろもろの悪業は,みな,はじまりもわからない貪欲と怒りと愚かさによるものであり,それらは身・口・意の悪業にしたがって生ずるところのものであります。わたしは,いま,ここでこれらすべてのことを懺悔いたします。と,このように懺悔すれば,かならず仏祖はそこはかとなく助けの手を差し伸べてくれます。ですから,誠心誠意,全身全霊をこめてありのままをすべて仏の前でさらけ出し,告白しなさい。そうすれば,告白・懺悔の力によって,これまでの罪根をすべて消し去ってくれるでしょう。

2015年4月9日木曜日

・・・願(ねが)わくは我(われ)設(たと)い過去(かこ)の悪業(あくごう)多(おお)く重(かさ)なりて・・・。『修証義』第9節。

 其(その)大旨(だいし)は,願(ねが)わくは我(われ)設(たと)い過去(かこ)の悪業(あくごう)多(おお)く重(かさ)なりて障道(しょうどう)の因縁(いんねん)ありとも,仏道(ぶつどう)に因(よ)りて得道(とくどう)せりし諸仏(しょぶつ)諸祖(しょそ)我(われ)を愍(あわれ)みて業累(ごうるい)を解脱(げだつ)せしめ,学道(がくどう)障(さわ)り無(な)からしめ,其(その)功徳(くどく)法門(ほうもん)普(あま)ねく無尽(むじん)法界(ほっかい)に充満(じゅうまん)〇(りん)せらん,哀(あわれ)みを我(われ)に分布(ぶんぷ)すべし,仏祖(ぶっそ)の往昔(おうじゃく)は吾等(われら)なり,吾等(われら)が当来(とうらい)は仏祖(ぶっそ)ならん。

 
お釈迦さまもむしかは凡夫だったのですよ。わたしたちも仏道に励めば,やがて仏になれるのですよ。このように説いているのが第9節の骨子です。そのためには,まずは,懺悔をしなさい,と。人間はさまざまな煩悩に取りつかれていますので,どうしても意に反して悪いことをしてしまいがちです。つい,うっかりということもあります。そういうときには,なにをおいても,まずは懺悔しなさい,という次第です。

 そうすれば懺悔の功徳が現れて,罪が贖われ,救われるだけではなく,周囲のあらゆるものにも波及していくのですよ。だから,さらに精進を積み上げていけば,必ず仏の道に入ることができるのですよ,というのが前節の第8節の教えでした。そのあとを引き継いで,この第9節では,その懺悔の功徳の大意がどういうものであるのかが説かれた上で,お釈迦さまもわたしたち同様の迷える凡夫だったのだから,わたしたちもまた懺悔の功徳の力と精進によって悟りの道を切り拓くことができるのですよ,と説いています。

 この第9節は,ことばもあまりむつかしいことは言っていませんので,このまま読めば大意はつたわってきます。ただ,若干,補足の説明が必要であるとすれば,「悪業」「業累」「法門」「法界」(ほっかい)くらいのものでしょう。

 「悪業」とは,「悪業報」(あくごっぽう)の略語。過去に行った悪い行為の報いのこと。
 「業累」とは,過去の業による障(さわ)りのこと。あるいは,これまでに積み重なった業によって縛り上げられていること。
 「法門」とは,文字どおり,法はお釈迦さまの説く教え・真理のことですので,そこに到達するための門,すなわち入口のこと。その用法は多岐にわたっています。たとえば,信心(澄浄心)の道に入る門であり,生死を脱して涅槃にいたる門であり,「坐禅はすなわち安楽の法門なり」というように用いられたり,あるいはまた,宗門の意味で用いられたり,仏法そのものの意味で用いられたりします。とても,広い意味をもっていると承知しておいてください。
 「法界」とは,十八界の一つで,法の世界,すなわち,真理の世界のこと。十八界とは,六根,六境,六識のこと。すなわち,眼・耳・鼻・舌・身・意の六根,色・声・香・味・触・法の六境,そして,眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識です。このうちの六根の「意」,六境の「法」,六識の「意識」が,ここでいう「法界」に相当します。

 仏教で説く真理の世界はきわめて奥が深いので,分け入っていくと際限がありません。ですから,ここでも「無尽法界」という言い方をしています。

 さて,最後にわたしの拙い意訳を試みてみたいとおもいます。

 懺悔の功徳の及ぶ大意というものは,以下のとおりです。わたしはこころから懺悔をしますので,わたしの過去の悪業がいっぱいあって仏の道に入ることに障(さわ)りがあったとしても,お願いですから,仏道をきわめて悟りの境地に達した先輩たちよ,わたしに憐愍の情をほどこして,わたしを縛り上げている過去の悪業による呪縛から解き放ち,精進努力の道に障りがないようにしてください。そして,その功徳や法門を,あまねく無尽にひろがり充満している法界の哀れみをわたしにも分け与えてください。お釈迦さまも,そのむかしはわたしたちと同じように凡夫だったのですから,わたしたちをもまたお釈迦さまと同じように導いてくださるに違いありません。懺悔の功徳というものは,そういうものなのです。

然(しか)あれば誠心(じょうしん)を専(もっぱ)らにして前仏(ぜんぶつ)に懺悔(ざんげ)すべし。『修証義』第8節。

 然(しか)あれば誠心(じょうしん)を専(もっぱ)らにして前仏(ぜんぶつ)に懺悔(ざんげ)すべし,〇〇(いんも)するとき前仏(ぜんぶつ)懺悔(ざんげ)の功徳力(くどくりき)我(われ)を〇(すく)いて清浄(しょうじょう)ならしむ,此(この)功徳(くどく)能(よ)く無〇(むげ)の浄信(じょうしん)精進(しょうじん)を生長(しょうちょう)せしむるなり,浄信(じょうしん)一現(いちげん)するとき,自〇(じた)同(おなじ)く転(てん)ぜらるるなり,其(その)利益(りやく)普(あま)ねく情非情(じょうひじょう)に蒙(こう)ぶらしむ。

 〇印のところは下の経文の写真でご確認ください。〇印だらけで申し訳ありません。ワープロソフトのレベルを上げればいいのですが,ふだんの文章を書くには必要がないので,ついつい,さきのばしにしています。ご寛容のほどを。

 
さて,しばらくお休みしていましたが,第8節の読解を試みてみたいとおもいます。

 ところが,この第8節はことのほか難解なことばがいくつも並んでいて(〇印のところ),いまのわたしの力量では読解ができません。そこで,「修証義」の解説本の助けを借りることにします。何種類も解説本は出ていますので,自分に一番合っている本を選ぶといいとおもいます。わたしにとっては,一番わかりやすい解説をしてくれているとおもわれる『道元禅師のことば「修証義」入門』(有福孝岳著,法蔵館,2010年刊)が,とてもありがたい導師の役割をはたしてくれています。ので,このテクストに助けてもらいながらの私的読解に挑戦してみたいとおもいます。

 誠心(じょうしん)とは,わたしたちがふつうに誠心誠意と言うときの「誠心」のことです。嘘偽りのないまことのこころのことです。あるいは,構えたところのないあるがままのまっさらなこころのことです。このまことのこころをそのままさらけ出して,一心不乱に仏の前で(前仏に)懺悔しなさい,と説いています。「いんもするとき」とは,まことのこころで懺悔することができたとき,というほどの意味と理解しておきましょう。

 そういう懺悔がきちんとできたときには,「前仏懺悔(ぜんぶつざんげ)」がもっている功徳の力が,わたしの中に入り込んできて,わたしのこころをさらに「清浄(しょうじょう)」にしてくれます。

 この功徳の力は素晴らしいはたらきをするものですので,「浄信精進」をますます生長させてくれるのです,とつづきます。ここでいう「浄信精進」については,さきの参考書を頼ることにしましょう。そこには,つぎのような解説がなされています。

 「浄信」の「信」とは,仏教では「心澄浄」のことを意味するのだそうです。つまり,「山奥の清らかな水が澄みきっていて川の底まで見えるように,心が清浄で汚れないことを意味します」,と。そして,さらに,『大智度論』では「仏法の大海は信を能入となす」といわれていて,「禅門では,信は仏道入門の要心であり,また究極的な悟りの境地(証心)ともいわれます」とのことです。

 ということは,「信」を浄らかにすることが,まずは仏道に入るための大前提であり,それがそのまま究極的な「悟り」の境地につながっていく,と考えられているようです。だとすると,「浄信精進」とは仏道に入る者にとっては,なにものにも代えがたい,もっとも重要なポイントになるというわけです。つまり,澄みきった浄らかな心を片時も忘れることなく「精進」する,そのこころを「前仏懺悔」が導き出してくれ,さらに生長させてくれるのだ,というわけです。

 そうして「浄信一現」(じょうしんいちげん)するとき,つまり「浄信」が立ち現れるとき,自他の区別がなくなり,他者をも同じ「浄信」に導き入れることになるのだ,と説いています。そして,そのご利益はありとあらゆるものに波及していく,というわけです。ここにいたったとき,お釈迦さまが悟りを開いたときと同じ情況ができあがるのだ,といいます。ここでいう「情非情」とは,情のあるもの(有情)=動植物と情のないもの(非情)=鉱物をふくめた「世界の万物」のことを意味します。ですから,ひとたび「浄信」が立ち現れるやいなや,自己と自己をとりまく環境世界(世界の万物=情非情)とがひとつになって,「法喜禅悦」(ほっきぜんえつ・仏道禅法に対して喜悦の信心をもつこと)に浸り,その恩恵に浴することができるようになる,というわけです。

 では,最後に,この第8節の私的読みくだし文を提示しておくことにしましょう。

 そういうことですので(第7節までの教え),まっさらなまことのこころ(誠心)になって,仏の前で懺悔をしなさい。それがうまくできれば,その功徳が現れて,自己のこころがさらに清浄になっていきますよ。この功徳の恩恵に浴しながらさらに精進を重ねていけば,なにものにも遮られることのない「浄信」を生長させることができますよ。そして,ひとたび「浄信」が立ち現れると,自他の区別がなくなり,世界の万物がみんなひとつになり,共振・共鳴する「法喜禅悦」の境地に達することができますよ。そこは,もう,お釈迦さまが悟りの境地に達したときと同じ世界ですよ。