宝永年間(1700年代)の富士山の噴火では、降灰により煙草の耕作に適した土壌がつくられたと言われています。
江戸時代に興った秦野葉の栽培は、水府葉(茨城)、国分葉(鹿児島)と並び日本三大銘葉として称せられ、秦野町は全国でも有数な
煙草生産地として知られるようになりました。 明治32年(1899)には、秦野に煙草試験場が開設。
亀本は、秦野葉の名を後世に伝えようと、秦野葉の葉形を型にした煎餅を考案、『煙草煎餅』と名付け製造を始めた。
時は流れ、秦野の町は大きく発展。
煙草耕作は大変な労力がかかり、高度経済成長以降、第一次産業に従事する人口が減少してくると生産が低調になっていきました。
秦野葉は、刻み葉(キセル用)であったため、嗜好品の変化から消費量も減少し、昭和49年を最後に秦野から姿を消しました。
その後は、紙巻き煙草用の米葉と呼ばれる黄色種が生産されたものの、かつてのような隆盛はなく、昭和59年に黄色種の生産も
この一方で、煙草煎餅は、独特の製法・厳選された材料が醸す味覚を大切に守りながら販売が続けられている。
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