鼻穴にくすぐったいような違和感を感じて目覚めると、目の前は一様に桃色だった。
起きたてで白濁する視界だが、枕元にあるメガネを手に取ってしっかり眺めると、今日も天井には今日もみみずが今日も一方向に並んでいる。
いや、天井にみみずが並んでいるわけではない。天井と呼ばれる家屋の主要部を100パーセント混じり気なく構成しているのが、みみずなのだ。
みみずがこうして雨風を防ぎ、ともすれば地震からも救ってくれる。さすがは建築材なだけあって、同じ大きさのみみずが使用されているのは見事だ。
みっちり隙間なくその天井を埋めている。しかし、今日はそのみみずの中に埋もれた筋となる太いみみずがこっそり垣間見えてしまっている。
筋たる年季の入ったみみずとは違い、小さなひとりひとりの構成材は命ある存在がゆえ、うごめきとともに剥離し、重力とともに落下する。
最近は寒くてみみずにも体力が失われているからかなのかコロナなのか、落下する人数が増えてきた気もする。
こうして冬はみみずが目覚ましがわりだ。そんな鼻をティッシュで噛む。つまり、鼻水と鼻みみずを面状のみみずで拭い取る。
でも、床板だってみみずなのに、なんで天井から落下したみみずだとわかるのか?って聞かれる。聞かれる?聞かれない。
床板と天井の見分け方。それには動きを見ればいい。床板を構成するみみずは動かない。重力で剥離することは無いので。
ただしたまに死ぬ。例えば私がつま先立ちしたら、つま先に居るみみずが何人か死ぬ。つまり圧死。私のさもない行動が命を奪う。死と隣り合った世界。
そうなると彼らは表面の湿気を失い、床板から剥がれる。その尊い役割を終えた彼らを誇り、いやホコリとして毎週の掃除で除去する。
死んだみみずは、生きているホウキのみみずで集められ、生きている床板のみみずから離される。集めることは分けることなのだと毎週思う。
そして、ホウキの湿り気で集められた死んだみみずは、生きているゴミ箱のみみずに投じられる。これが彼らの夏の葬列。もしくは桃色の雪国。
ゴミ箱というトンネルの中も桃色だった。そんな仲間に送られ、そんな仲間に見守られる。みすずはいつだって仲間が一緒なのだ。
そうだ、世の中では、♪みみずだっておけらだって1777700066666*だってみんなみんな生きているんだ友だちなんだ、
と高らかに仲間意識をみみずらしく、桃色吐息で歌う。そうなんだ、みんなが仲間なんだ。みんなが仲間なんだ。私を日本唯一の仲間外れとして。
日本でよく知られた歌だから日本でよくご存知の通り、この「生きている」という言葉は、みみずを構成要素として生きているという意味合いだ。
だから、みみずが「生きている」のは当たり前であって、私はそのカテゴリーに入らない。つまり、「みんな」の構成物はみんなみみずなのであって、
私という存在だけがみみずではない。つまり、天井やゴミ箱は「みんな」の仲間。つまり、私は「みんな」の仲間じゃない。青色吐息。
これで、僕という存在が芋虫だったら「みんな」の仲間になれただろう。それは、みみずと同じ様態の気持ち悪い存在という共通点を持つからじゃない。
もっと直接的に、芋虫は私ではないので、私では無いものはみみずであるという命題によって、私は「みんな」の仲間になれるのだ。
そう考えると、カフカがうらやましい。私はみみずが嫌いじゃない。芋虫の方が嫌いだが、私も芋虫になって「みんな」と仲間になりたかった。
そうして、失われた床板ことみみずはホームセンターで買った補充材ことみみずで補填する。その上にはワックスを塗る。
ワックスとはみみずであるが、みみずのための栄養剤でもある。湿り気も与え、その輝きを増しその死を防ぐ。ワックスとは掃除であり生育である。
ワックスワックス。ってそうか、天井のみみずと床板のみみずの見分け方の話だった。まあ、床板がその死によって剥離するのだとしても、
床板はどっちみち動かないものなのだ。だから、生きて動くみみずは天井からの存在だと言える。そして、みみずは天国を目指す。
落下したみみずが床板のみみずに同化しないのは、堕天使ゆえのプライドなんだと思う。床板のみみずが動かないのも同じく建材ゆえのプライドなんだし、
そのあたりの感情は人間みたいで、みみずなのにいじらしく感じる。まあ、身を持って知っている通り、人間もみみずで構成されているわけだけれど。
そもそも、お前もみみずなんだから、床板と天井のみみずの見分け方なんて説明する必要がないだろう!!
そんなの「みんな」の当たり前なんだから!!壁を登るみみずは自分の役割を求めて居場所に帰っているんだよ!!俺は壁を登れないんだよ!!
なんでお前は1メートル半もの生体を成したみみずの群れなのに、そんなこともわからないの!!みみずは神経回線にならないとでもいうのか!!
筋となる大きなみみずはどのように工業生産されるのだろうとその苦労を忍びながら、掴んだ布団には軽い湿り気を持った柔らかさがある。
枕には軽いうごめきを感じながら、桃色を感じるメガネをかけつつトイレに向かう。そう、筋となる大きなみみずも気にはなるが、
光を通すその一生体を識別できないほどの細いみみずはどうやって生成され編まれ、そのメガネとしての光学的特性を得るのか知りたいと思った。
これを今日のテーマとしよう、と思いつつ生命の神秘液こと尿を放つ。それと便座カバーことみみずに座り、尿たるみみずはみみずの水に放たれる。
天井からみみずが落下すると、そこはライトの影となり黒ずんで見える。そんな天井のシミを数えながら尿を終え、鼻垂れるようにティッシュで拭う。
ティッシュという面状のみみずもみみずの水の中へ。それは流れない。トイレットペーパーでないからではない。それはみみずに消化されるのだ。
そしてみみずなのにふわふわしない固く締まった床板を歩きながら、ふわふわしたカーテンを開ける。レースカーテンも桃色こそ呈しているが、
その地に使われたみみずは非常に細く、メガネのように光を通す。レースゆえに所々に空いた穴はみみずのうごめきで日々形を変えるのが面白い。
というか、窓がそうだ。私にはひとりひとりのみみずが見えないほどの細かさ。いい仕事してますね。しかし、そのひんやりとした湿った感触。
結露もしている。みみずは人間のように涙を流すのだろうか。だから、人間はみみずなんだってば!!
つまりみみずは涙を流す。そして涙で視界もハッキリしてくると、そのみみずにも濃い色のみみずや薄い色のみみずを発見する。それはテレビである。
垂直面を器用に泳ぎ回る回遊魚、やはりみみずなわけだが、彼らは光の加減なのか、赤かったり青かったり黄色かったりする光の三原色。
幾人もの色相で一つの景色を見せるダイナミック。しかしカラフルな熱帯魚と違うのはその俊敏な動き。さすが30フレームパーセック毎秒。
しかし冬は動きが鈍く、画面がちらつく。人物の顔が2つに割れて見える。それでもテレビは右下45度から叩くと治るという故人の逸話。聞こえるうめき声。
もちろん、画面のそれはみみずだから人間なんだけど、私の唇のような赤、私の髪の毛のような青とは違い、ハッキリとした色彩ではない。
しかし、そんな色彩が自分以外のどこにあるのだ。テレビの登場人物もみみずなのだし、テレビの登場人物もみみずなのだから、
みみずによる桃色に偏った色彩でもその表現に間違いは無いのだ。表現するものが制限されていれば、表現方法に制限があったところでそれは満点なのだ。
満点だと知覚すればいいのだ。みみずは赤色だし、みみずは青色で、みみずは黄色。そう認識するように、この35年間生きてきたじゃないか。
生まれてからの35億年というもの、ゴミ箱は常にみみずだったし、ホウキは常にみみずだった。天井はみみずだったし、
天井のシミもみみずだった。尿はみみずの水だったし、ティッシュは面状のみみずだった。そもそもメガネがみみずだったはずじゃないか。
どうしてその色彩が目に入らないのだろう。今晩はみみずステーキにみみずサラダにみみずワインにみみず豚カツです。みみずハイ。
そう思った瞬間、世界は色彩を取り戻す。要はお腹が空いていたわけだ。重要なのは事物がみみずで構成されていることを隠すことじゃない。
今日も今日とて、みみずのマスクをしてみみずの電車に乗ってみみずの人間に押し潰されることを思れば吐き気がする。する?しない。
これはフケ?みみず。それはコロナ?みみず。それは、みみずである色彩を光の三原色として認識することなのだ。
そうすれば、みみずの人間は人間に見えて、みみずのステーキは素敵に見える。いつだって、真実はいつもひとつなのだから。
そうしてお腹も気持ちも十分に満たされ、卓上カレンダーにはバツをつける。今日のテーマはファクトチェックだったと思い出し、まずは明るい日差しに飛び出すのだった。