車椅子で駅に行った記事と言及コメを読んで、今までの価値観が変わった。
バリアフリーもセーフティーネットも助け合いも重要だし、障害があっても怪我や病でも変わらず暮らせる社会は理想だ。
目が見えないらしい人が歩道の端で行ったり来たりしていた時に声をかけた事もあるし
ひとりひとりが助け合えればと思っていたが、下に引用するコメントを読んでいくうちに自分は間違っていたという気持ちが強くなっていった。
佐川・抜け首・なん on Twitter: "「当時としては、ワガママとされ、暴力的とされ、迷惑とされ、非常識とされ、だけどその騒ぎのおかげで後輩達が恩恵を受けている」 私はいつも「川崎バス闘争」を思い出す。 公共交通機関に「車椅子の人を一人で乗せろ」として、「闘争」があったのだ。
ID:yas-mal 「落とし所」を決める権利が、誰かにあると思ってるの? あの人が「私はこれでいい」って満足しても、日本中の車椅子を使ってる人が満足するとは限らない。だから、「差別ゼロ」しか答えはない。交渉じゃない。
求めれば求めるだけ無限に提供されるリソースなんか存在しないのに、交渉も無くどうやって物事を進めるつもりなんだ?
どんな権利の行使にも誰かの同意や協力が必要なのに何を言ってるんだ?
ID:zyzy 我儘で暴力的で迷惑で非常識だからと言って世の中を良く変えられるとは限らないが、繰り返せば変えられる。そして我儘でも暴力的でも迷惑でも非常識でないものが世の中を良くしたことは一度もないのだ。一度も。
ID:B2igwzEE 現実主義者に現実そのものを変える力はないという毎度おなじみかつ当たり前の話。今の当たり前の現実を作ったのは、かつて非常識・非現実的だととがめられた人たちだったりするんだけどね
なぜこんな事を平気で書けるのだろう?
様々な困難にチャレンジした先人達を非常識や非現実的と表現するなら理解できる。
そんなチャレンジを実現するには、平穏な社会を支える、そこで生活を営む一人一人の存在が不可欠だ。
だが、今回の行為はそれと同列のことか?自分は全くそう思わない。
ID:sewerrat 支持する。こういう「言論マッチョ」こそが精神的自由を重視する真のリベラルだと思う。皆が自身の持つ人権で理論武装して言論で殴り合うことで適切な均衡点が見つかる。「思いやり」みたいなヌルい世界じゃない(笑)
人手の無い所に行って、100Kgはある電動車椅子を階段で運ぶよう強く求めた。
設備や制度の不備を指摘すれば良かった。SNSでも、JRや省庁への公開質問状でも可能だった。
バリアフリーを求めるのは良い、制度の不備を指摘するのも良い。どんどんやった方がいい。
「思いやり」みたいなヌルい世界じゃない(笑)って凄い台詞だ。
これは障害を持つ人間の権利だから、思いやりではなく健常者が協力するのは義務だということか?
確かに権利を認めると、その権利を行使させたり守ったりする義務が発生する。
障害者を助けるコストは事実上納税の義務として課せられているが、障害者だけにかかるコストではないし、社会全体に必要なコストだと思っていた。
駅員のためを思うなら尚更全駅バリアフリー化を進めるべき、としかならないのにこういう馬鹿はすぐ「駅員ガー」と言い始めるから低能なんだよね (十分な設備があれば列車への乗降の...
現実は街づくりゲームみたいに簡単に壊したり作り変えたりできない。 エレベーターの設置を前提に作られるマンションやビルとは違って、駅はひとつひとつが構造が違っていたりする...
あの、川崎バス闘争はもう半世紀前の出来事ですよ? 瞬間的な怒り ではないのは少し考えれば分かることだと思いますが?
半世紀も前から続く話なんだったらそれこそ意識を変えたほうがいいよ。まだ闘争だ!とか言ってるの?
ああ言えばこういう 勝手に「瞬間的な怒り」であると決めつけたことを認めなさいよ