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はてなキーワード: コストとは

2025-01-15

anond:20250114102242

凄く平たく言うと、馬鹿が騒ぐからやれなくなった

日本では馬鹿人権が極めて尊重されるし、少ない馬鹿ならなおさら尊重されるので

百万人に一人いる馬鹿を説得するコスト役人負担したくないなら、公衆衛生が後退する

愛情コストっていつになったら返済できるの?

まれなきゃ良かったってここ数年ずっと思ってる気がする。

親に迷惑かけまくりだし。


親や親戚が自分にかけた教育費だったり愛情コストを返すために生きてる感じがある。


ずっと自分のために生きてない。愛情をかけてくれるのは嬉しいけど、時折それがすごい重圧になる。

愛情のせいで思い切って自殺できない。絶対めちゃ悲しむから。そのせいでたまに周りの人間がめちゃくちゃ憎くて嫌いになって、もっと迷惑をかけたくなる。そんでそのせいでもっと死にたくなる。

親のことめっちゃ愛してるから、そんな親に迷惑かけてる自分申し訳なくて自殺したくなる。

〇〇ちゃん結婚して孫の顔を見せてくれれば十分よっておばあちゃんは言うけど、私は絶対子供なんて欲しくない。


なんかもうよく分からない。生まれなきゃよかった。疲れた。親も私みたいな子供を持って疲れてると思う。本当ごめん。でもさ、親がボケボケの老人になって死ぬまで鬱に1.5歩手前みたいな状態で私は生きなきゃいけないのかな。

2025-01-14

日本政府が日鉄への賠償金800億円を肩代わりし、代わりに米国債800億円

日本政府賠償金肩代わりと米国債売却が経済に与える影響について

日本政府日本製鉄(日鉄)への賠償金800億円を肩代わりし、米国債を売却してその資金を充てるという決定は、国内外経済に様々な影響を与える可能性があります

国内経済への影響

国際経済への影響

まとめ

日本政府の今回の決定は、国内外経済に多岐にわたる影響を与える可能性があります短期的な視点では、円安財政への負担懸念されますが、長期的な視点では、日鉄の経営安定化や日米関係への影響など、様々な側面から評価する必要があります

より詳細な分析のためには、以下の点について検討する必要があります

これらの点について、専門家による詳細な分析必要となります

免責事項:

この情報は、一般的経済学の知識に基づいたものであり、個別投資経済活動に関するアドバイスではありません。投資を行う際は、必ず専門家にご相談ください。

火災地震で家ぶっ壊れて保険で建て直したって人いる?

掛け金にもよるけど、もともとの上物にかかった金額よりも少ない金しか返ってこないよね?

それで前と同じ間取りとか住み心地の家建てられたりする?

それとも妥協して間取り減らしたりローコストにして不便強いられたりしてる?

anond:20250114202204

個人的には、食材を買うのも、その食材料理するのも、その料理を味わうのも楽しいし、自分人件費考慮しないのであればコストも安いので、自炊はやめられん。無駄ではない。

人材派遣って安くない?

社会保険料とか退職金とか色々考慮したら別にそんな高くない気がする。

採用コストも低いし退職もさせやすい。

成ルートとか考えず目の前の仕事で使い潰せばいいだけ。

欲しくなったら正社員登用持ちかけたら待遇悪いせいで簡単に乗ってくるし。

全体で考えたら普通にお買い得だと思うけどなあ。

人材派遣高いと言ってる人って会社社員給料以外に払ってるお金のことを知らないだけなのでは?

給料30万の人間を雇うコストが90万って絶対ウソやろ

90万よこせよ

キャベツの値上げ、コストプッシュじゃなくてデマンドプルインフレらしいぞ

キャベツ1玉500円、白菜半玉400円近く…「いやぁ高い」止まらない野菜高騰 消費者小売店生産者それぞれからため息

https://news.yahoo.co.jp/articles/6d8e21b071995eac7d01aab11bddda1c20f39894?page=2

外食チェーン国内市場食材を買い求めたことも、小売価格を押し上げた一因と指摘」



これ、本当なら完全にデマンドプルインフレじゃん。

需要が強くなった結果値上げしたってことでしょ?

ネット有識者様たちが口を揃えて「今の値上げはコストプッシュインフレであってデマンドプルじゃないから悪いインフレ」と言ってたけど、

ようやく日本でもデマンドプルインフレがおき始めたんだな。

みんな喜べ。キャベツの値上げは良いインフレだぞ。なんてったってデマンドプルインフレからな。

経営者からしたら掃いて捨てるほどいる氷河期世代と相応のコストを掛けなきゃ応募すらしてくれないZ世代とが同じ給料になるわけがないんだけど

そこに文句垂れるとか氷河期世代ってもしかしてバカ

嫌なら辞めたらいいよ

まさしく氷河期世代の代わりなんざ掃いて捨てるほどいるからさ

当たり外れの大きい新卒採用になんでこんなにコストをかけるのか

「☆1☆2引く確率通常の3倍になりますが☆4☆5を引く確率も3倍です」みたいなもんだから

外れが大きくても当たりがデカいなら回してみるもんや。

☆5引いてもどうせすぐ出てくとか言う奴おるが、わざわざ頑張って転職してドンドンお金持ちになりたいってやつだけちゃうからな。

とりあえず最初に覚えた仕事のやり方で定年まで過ごせればいいやって感じで卒なく何でもこなすような☆5が引けたらラッキーやねん。

狙った☆3は中途採用で集めて、とにかくワンチャンで☆4☆5は新卒ガチャで集める。

余った☆1☆2は頭数合わせで雑用させつつどうしようもなくなったらクビにする。

社会はこうやって回ってるねん。

新卒ガチャは☆5が出るかも知れないから回すものなわけ。

☆5を中途で捕まえるよりそっちのがよっぽど現実的から

看護師の妻と結婚して11年目

・少し前に「看護師結婚して10年目」というタイトル匿名ダイアリー(すぐに削除されたので内容は読めなかった…残念)があり、タイトルに親近感を覚えたので、触発されて書いてみようと思った。

・これを書いてるのはとある地方都市部の端っこに住むアラフォーおっさん公務員(閑職)

看護師の妻と小学生の子もの4人家族

・今の生活に満足

・みんな幸せに暮らせるといいな


昨日(もう一昨日か)、地元成人式があった。地方だと成人の日(月曜日)ではなく日曜日成人式を行うところもあるのだ。東京とかから帰省し、旧交を温めてまた戻っていく若者達への配慮だろう。

自分の住んでいる地域は、都市部だが辺境ということもあってか、まだ小学校単位成人式を行えるような人口規模を保てていて、こぢんまりとしているが、その分アットホームな感じの成人式だ。


少し前に運命のいたずらで地元自治会メンバーになってしまい、今年の成人式にも参列することになったが、やっぱり40代から見る二十歳の若者というのは本当にまぶしい。エネルギーに満ち溢れている。

小学校卒業して8年しか経っていないはずなのに、こんなに大きくなるもんなんだな…自分の子もも、あと10年もすればこうなるのだろうか。今から晴着姿が楽しみだ。


さて、結婚して10年が過ぎて、11年目に入った。

妻とはマッチングアプリ出会ったが、当時はまだマッチングアプリ出会って結婚、というのがそれほど普及していなかった。職場でも「どこで知り合ったの?」と聞かれるとマッチングアプリで…とは言いづらかったので、合コンで知り合ったということにしていた。


看護師といっても診療科や勤務先(病院・クリニック・訪看etc.)によって勤務形態も大きく異なる。当たり前だけれども。詳細は伏せるが、妻は深夜勤はないが夜勤が週に1~2回のナースだ。

妻が夜勤の日以外は、家族全員で夕食を食べているのだが、それが一日で一番楽しい時間だ。家族みんなで、その日の出来事を、あーだこーだいいながら晩御飯を食べるのだ。

今日学校給食がおいしくておかわりした」だとか「いつもはぶっきらぼうなあの患者今日はなんか機嫌がよさそうだった」だとか、本当にとりとめもない話ばかりだ。


私は数年前に仕事精神的に追い込まれて心身に異常をきたした。

だが早期にそれを察知した妻が、すぐに受診できる心療内科を探し、予約してくれたおかげで、比較短期間で復職することができた。

そのことがなかったとしても、妻のことが大好きで心から愛していることには変わりないと思うが、その経験があったからこそ、家族の何気ない時間のかけがえのなさに気付くことができたとしみじみ思う。


ちなみに婚活マッチングアプリについて言うなら、私はアプリ登録してかなり早期に今の妻と出会ったので、いわゆる婚活の大変さをほぼ経験しなかったのであまり参考にならないかもしれないが、

あえて言うとすれば「この人とは、肩ひじ張らず自然体の自分でいられるなあ」と3回目くらいのデート確信したので、あとはそのまま機会を捉えて告白婚約結婚という感じだった。

現在婚活をしている人たちはいろいろな要素で悩む部分はあると思うが、そういう直感大事かなと思う。


仕事では、完全に出世ルートを外れてしまって幾星霜だが、「この組織に貢献したい」という思いは変わらず持ち続けているので、この先どんなところに飛ばされたとしても、それなりにやりがいを見つけてやっていけるんじゃないかな、と思っている。

給料世間一般で見ればよい水準だし、もう十分なのかなと思う。

かつては大好きで独身の頃に休日は一日中やっていたゲームも、もういいか…という気分になってきた。というか土曜日子ども習い事への送り迎えがあるし、日曜日は何かしら地域活動が入っていたりで、趣味に打ち込める時間は正直ない。でも別にそれでいい。加齢とともに感受性は落ちてくるものなのだコンテンツまっさら気持ちで楽しめないとでも言おうか。


そんな私が今思うのは、自分の子ども世代大人になったときに、幸せを感じられる世の中であってほしい、ということだ。

少子化に歯止めがかからず、日本全体がシュリンクしていくのは確定している。

残念だが、子どもを産み・育てていくことが、コストとしてばかり捉えられてしまっている。まあ経済合理性から判断すれば至極当然だが、とても残念だ。


それでも。

少しでも多くの人が、希望を持って、幸せを感じて生きていける世の中、世界になってほしい。

匿名ダイアリーに集う皆様も幸せを感じられますように。

2025-01-13

anond:20250113113237

うん。これ。

元増田コミュニケーションコストが高過ぎて、周りがなるべく関わらないようにしたい&何でキレるか分からない地雷なので言葉選びまくってる感じ

オーバーサイズに関する覚え書き

服のオーバーサイズビッグシルエットは一時的ブームであるか? →どうやら社会経済的理由に支えられた、長期的なトレンドと言えそうだ。

 

アメリカインフレ経済が長く続いたことにより、ファストファッションの隆盛(低コスト化)と、リユースの促進(洋服中古市場の拡大)が進んだ。

ファストファッションでは、生産上の理由生地が薄い方が低コスト化できる。生地の薄い服を重ね着して工夫するレイヤードファッションが促進されやすくなる。

重ね着をする際に、アウターオーバーサイズの方が着回しが良く、見た目も良くなる。

中古の服を買う際には、ジャストサイズしか選択肢が無いよりも、オーバーサイズ選択肢がある方が、限られた服の中から買うものを選ぶ際に都合が良い。

また、SDG’sの施策として行政アパレル企業が服のリユースを促進できることも中古市場の拡大を後押しする。

そしてレイヤードファッション気候の変動に対応やすい。温暖化する気候の中では、厚みのあるアウターを着込める時期が短くなり、コート以前のアウターで重ね着をする時期が長くなる。

 

これらの長期的トレンドから考えると、オーバーサイズビッグシルエットの服は、単なる一時的流行ではなく、選択肢として常に存在するようなポジションを獲得するのではないか

2025-01-12

anond:20250112205702

自称ソフトウェア開発者の中には、特にSIerシステムインテグレーター)に従事している人々が多く、自社開発の概念理解できていない場合があります。彼らは「案件案件!」と叫び受託開発に固執する傾向があります。これは、彼らがクライアントからの依頼に基づいてシステムを開発する受託ビジネスモデルに慣れているためです[1][6]。

受託開発と自社開発の違い
SIerタイプ問題点

SIerタイプエンジニアは、多くの場合受託開発での経験豊富であることから経験豊富プログラマー」と見なされますしかし、彼らは継続的運用保守についての知識が不足していることが多いです。これは、受託開発では納品後に自主的な改修を行うことが少ないためです[3][4][7]。

収入求人について

一般的に、「案件」という言葉求人情報に含まれている場合、それは低収入である可能性が高いとされています。これは、受託ビジネスモデルが多くの場合コスト削減を重視するためです[4][6]。

このように、自称ソフトウェア開発者の中には、特定ビジネスモデルに偏った考え方を持つ人々が多く、その結果として業界全体の理解進化に影響を与えていると言えます

Citations:

[1] ttps://business.ntt-east.co.jp/content/cloudsolution/column-426.html

[2] ttps://paiza.hatenablog.com/entry/2019/06/07/%E5%8F%97%E8%A8%97%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%A8%E8%87%AA%E7%A4%BE%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%80%81%E4%B8%A1%E6%96%B9%E7%B5%8C%E9%A8%93%E3%81%97%E3%81%A6%E5%88%86%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%87%AA%E7%A4%BE

[3] ttps://products.sint.co.jp/ober/blog/operation-maintenance

[4] ttps://zenn.dev/sta/articles/2024-08-10-sat-what_is_si

[5] ttps://mid-works.com/columns/engineer/system/1139597

[6] ttps://ic-solution.jp/blog/development-difference

[7] ttps://librus.co.jp/it_career/new/tech-explain/1192

[8] ttps://qiita.com/Sicut_study/items/56b9933ca4a780f89fba

[9] ttps://www.geekly.co.jp/column/cat-technology/1908_008/

[10 ttps://gizumo-inc.jp/media/maintenance-operation/

[11] ttps://www.youtube.com/watch?v=iy4nnAI9og4

[12] ttps://nabutan.com/system-development-maintenance-operation/

[13] ttps://www.softbanktech.co.jp/corp/hr/recruit/articles/134/

ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?

 スマートフォンが主流になって久しい。街中を見れば老若男女関係なく、誰もが同じような長方形の端末を手にしているし、電車に乗ればみんな下を向いてSNSやらゲームやらに没頭している。いや、それ自体否定するつもりはないんだ。だけどさ、本当にみんながスマートフォン必要としているのかなって思うことはある。いまやスマホ機能パソコンをも凌ぐものになってきているけど、それって果たして全員にとって必要不可欠なのだろうか。そもそもガラケーで事足りる人って、意外と多いんじゃないかと思うんだよね。

 そりゃ、便利だよ、スマホは。アプリを入れれば何だってできるし、SNSだって投稿簡単にできる。動画地図もあれこれ全部一つの端末に詰め込んで、ポケットに入れて持ち運べるなんて、かつてのパソコン時代ガラケー時代から比べたら夢のようだ。それに加えて大容量のデータ通信可能プラン契約すれば、外でもガンガン動画を観られるし、リアルタイムでのやり取りもスムーズ。そういう意味では、確かにスマホはすごい。でも、その“すごさ”を真に活用できている人がどれほどいるのかは、ちょっと疑問だ。

 たとえば、メール電話、それにちょっとしたSNSブラウザ検索くらいができれば十分という人は少なくないはずだ。その程度の用途なら、別にガラケーでもいいんじゃないの? と思うわけ。必要最小限の機能を備えていれば、そもそもネットが重い」「アプリが落ちる」「OSバージョンアップできないかアプリが使えない」といった煩わしさとは無縁だし、バッテリーも長持ちする。なんせガラケーなら2〜3日は充電しなくても平気だ、なんてこともザラにあるからね。スマホだと日常的に毎晩充電しなきゃいけないから、その手間を考えるとガラケーの利点もやっぱり大きい。

 もちろん、スマホにはカメラ性能が高いとか、決済機能があるとか、生活を快適にするいろいろな便利機能が詰まっている。でも、カメラだって一眼レフデジカメを持っている人からすれば、スマホカメラじゃ満足できないこともあるはずだし、逆にスナップ写真くらいしか撮らない人ならガラケーカメラで十分事足りる。決済についても、スマホ決済が便利なのは間違いないけど、クレジットカード交通系ICカードがあれば大抵の場所で用は足りるんだよね。結局、なんでもかんでもスマホに集約して「スマホがないと生活できない」状態になるのは少し危うい気さえする。

 思えば、ガラケーと呼ばれる前の時代は、みんなが当たり前にあの二つ折りやスライド型の携帯電話を使っていたわけで。それでも社会は動いていたし、人間関係だってきちんと成り立っていた。実際、あの頃は電話メールだけでコミュニケーションが十分成立していたし、インターネットをしたいならパソコンを使えばよかった。そして何より、ちょっとしたネット閲覧や着うた着メロダウンロードには、ガラケー専用のサイトが用意されていたから、それを不便だと感じていた人は今ほど多くなかったんじゃないかと思うんだ。

 そう考えると、やっぱり「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」と思うこともある。だって通話メールが使えれば連絡は取れるし、カメラも簡易的な撮影には不自由しない。さらに、多くのガラケーにはストラップを付けられる穴があって、そこにお気に入りキャラグッズをぶら下げてアピールする楽しみ方なんかもあった。いまのスマホには、そういう「ケータイ個性化」を楽しむ余地が薄い気がするんだよ。スマホケースやカバー差別化するっていう人もいるけど、昔のようにジャラジャラとストラップをぶら下げる感じとは違うんだよな。

 ときどき言われるのが、「いやいや、いまの世の中はLINEでのやり取りが必須からガラケーじゃ不便でしょう」という意見。でも、それって本当に全員が必要かな? たしか仕事サークル、あるいは家族・友人のグループチャット情報を一斉共有したり、スタンプカジュアルコミュニケーションしたりするのは楽で便利だ。でも、電話メールじゃダメなの? 昔はそれでやりくりしていたわけで、無理にLINEに縛られる必要はないんじゃないかと思う。もちろん「いや、仕事でどうしても必要なんだ」っていう人はいるだろう。そういう人はスマホを使えばいい。でも、誰もが「LINE至上主義」に合わせている現状に、ちょっと違和感を覚えるのも事実だ。

 もっと言えば、「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」と言いたくなることだってある。そう、ガラケーにはiモードという独自ネット接続サービスがあって、昔はあれで天気予報ニュースサイトを見たり、ちょっとした調べごとをしたりしてたわけだ。いまはさすがに対応サイトが減ってしまたかもしれないけど、それでも基本的情報収集ならできなくもない。「スマホじゃなきゃネットができない」わけじゃないんだよな。

 とはいえ、世の中にはガラケーを愛用しつつも、必要最低限の用途だけスマホを使う「2台持ち」という人もいる。スマホは持っているけど通話ガラケーでする、みたいなスタイルだ。これってわりと理にかなっていて、ガラケー通話用にバッテリーが長持ちし、スマホSNSアプリ専用と割り切ると、余計な通知に煩わされることも減る。料金プランをうまく選べば、そこまでコストも高くならないから、案外「スマホ1台より2台持ち」のほうがストレスフリーという人だっているわけだ。

 ただ、「ガラケースマホを両方持つとか、管理が面倒くさい」という声もあるだろうし、そもそも二台持ちが一般的になると、街中で両手に端末を持って歩くようになるのかな? なんて想像すると少し滑稽でもある。そこまでしてガラケーにこだわらなくてもいいじゃないか、という意見があるのも理解できる。でも、一部のガラケーユーザーにとっては、あの折りたたみの感触物理ボタンの打ちやすさ、そして着信音を選ぶ楽しみなんかが、今でも捨てがたいんだろうなって思うんだ。

 ガラケー物理ボタンは、スマホタッチスクリーンにはない魅力があると思う。画面を見なくても、手探りでボタン操作ができるし、押した感触がハッキリしている。メールを打つにも、慣れればかなりのスピード文字入力ができるから、指先が画面を飛び回るスマホよりも誤操作が少ないという人もいる。実際、ガラケー世代人間からすると、あのテンキー入力のほうが「身体に染み付いている」感覚があって、スマホフリック入力がどうにも馴染まないなんて話もよく聞く。だから、使い勝手という面では、ガラケーを「機能が少ない」と一蹴するのは早計だという気がする。

 また、ガラケーには折りたたみやスライドなど、端末自体の形状にバリエーションがあった。そのせいか、端末のデザインにも個性が感じられたものだ。カメラ部分の形が凝っていたり、アンテナが伸びるタイプだったり、質感も金属プラスチックなど機種ごとに違う。自分の好みや使いやすさに合わせて端末を選ぶ楽しみがあった。スマホ基本的に「大きなタッチ画面がどんっとある長方形」という形状が大半だからデザイン的な違いはあっても機能面はほとんど似たり寄ったり。文字通り“画一化”している印象が強い。

 カバーやケースを付ければ見た目も変えられるし、画面上の壁紙アイコン配置で多少の個性演出できる。でも、ガラケー時代にあったワクワク感、たとえば「次はどんな機種を買おうかな?」みたいな楽しさは、スマホ時代とはちょっと違う。「新作スマホが出た」と言われても、画面のサイズベゼルの細さが変わったくらいで、そこまで大きくは変わらない印象がある。もちろんカメラ性能やCPU進化もあるんだけど、日常的にそこまで性能を使いこなす場面がない人にとっては、あんまり魅力を感じない場合もあるだろう。

 それに、スマホはついつい「時間泥棒」になりがちだ。SNSちょっと見るだけのつもりが、いつの間にか1時間も経っていたとか、寝る前にスマホを触っていたら気づけば深夜になっていたなんて話は、ザラにある。ガラケーだと、動画視聴やSNSタイムライン閲覧はそこまで快適とはいえないぶん、長時間だらだら触り続けるということはあまりない。そもそも画面が小さいから、がっつり見るには不向きだし、ネット料金が従量制だとしたらむやみに使えないという制限がある。そのおかげで、自分時間無駄にしすぎない、という利点すら感じることがある。

 「ガラケー時代には戻れない」とよく言われる。確かに通信インフラ社会の仕組みがスマホを前提とした形に急速に変わりつつあるから、一人で頑固にガラケーを使い続けるのは不利かもしれない。銀行アプリ役所関係手続きなんかも、スマホ前提で設計されていたりして、ガラケーだけでは対応できないことも増えている。そこはちょっと残念なところだ。時代の流れに逆行するとなると、どうしても不便を甘受しなきゃいけない部分が出てくるのは仕方ない。

 でも、その不便を受け入れてでも「ガラケーだけでいい」と思う人がいるのは、やっぱりそれなりの理由があるんじゃないか。何より、常に最新のSNSアプリの動向を追う必要がないし、スマホをいじりすぎて疲れることも減る。コミュニケーション情報収集に追われないから、心に余裕が生まれるかもしれない。実際、スマホをやめてガラケーに戻した友人が、「今までSNSブラウザ更新ばかり気にしていた時間を、ほかのことに使えるようになった。すごく楽になったよ」と言っていた。まさにデジタルデトックス効果だろう。

 さらに言えば、ガラケーを持っていると周囲から興味を持たれたり、「まだガラケー使ってるんだ」と話のネタになったりすることもある。ひと昔前には、最新のスマホを持つことがステータスのように扱われていたけれど、いまはみんなが同じようなスマホを持っているから、逆にガラケーのほうが個性として面白がられるんだ。「なつかしい!」なんて言われると、そこから会話が広がったりして、それはそれで悪くない。

 もちろん、ガラケー提供を続けるキャリアもどんどん減っているし、新品の端末を購入するのは難しくなってきている現実がある。将来的には4G・5Gの通信環境に完全移行して、ガラケー時代通信方式廃止される可能性もある。そのときは、事実ガラケーが使えなくなるかもしれないし、いわゆる「ガラホ」と呼ばれる、ガラケー風のAndroid端末に移行するしかない時代が来るかもしれない。とはいえ、今すぐに「ガラケー文化がすべて滅びる」わけではないだろうし、それまでガラケー愛好家はしぶとく生き残るはずだ。

 結局、「スマホガラケー、どっちがいいか」っていうのは、その人の使い方や好みによる。スマホが便利で手放せないという人もいれば、ガラケーシンプルさがちょうどいいという人もいる。世の中にはいろんなライフスタイルがあっていいはずだから、無理に合わせる必要はないと思う。誰かが「スマホを使ってないなんて遅れてる」と言ってきても、それを「押し付けがましいなあ」と聞き流すくらいの心の余裕があればいい。結局、自分が何をしたいか重要なんだから

 もし「周りがみんなスマホから自分スマホにしなきゃ」と思っているだけで、本当はそんなにSNSアプリを使わないという人がいるなら、思いきってガラケーに戻すのも手だと思う。通話メールだけならガラケーのほうが圧倒的にバッテリーも保つし、料金も抑えられるかもしれないし、「端末をどこかに置き忘れても、スマホほど重要情報が入ってないか不安にならない」なんていうメリットだってあるだろう。「みんなと同じだから安心」じゃなくて、「自分必要機能ちゃんとある」ことこそが大事なんじゃないか

 もちろん、スマホが悪いわけじゃないし、ガラケー至上主義を唱えたいわけでもない。ただ、「必要以上にスマホを使って疲れちゃうくらいなら、ガラケーで十分なんじゃないの?」という提案をしたいだけなんだよね。実はわたし自身仕事スマホとは別にガラケーをサブ機として使っているんだけど、やっぱりガラケーをパカッと開いてガシガシと文字を打つ感覚は良いもんだよ。慣れ親しんだ操作性と、あの独特の押し心地には、どこか安心感がある。電車スマホの通知に追われずに済むのもストレスが少ないし、本を読んだり音楽を聴いたりする時間が増えた気がするんだ。

 そういうわけで、ガラケーという選択肢は決して時代遅れのものではない、と声を大にして言いたい。機能の充実や最新テクノロジーに目を奪われるのも悪くはないけれど、シンプルに生きるための道具としては、いまだガラケーは捨てがたい魅力を持っている。もしあなた日常ほとんどをスマホに奪われていると感じるなら、一度ガラケーで過ごす日常を思い出してみるのもいいかもしれない。通話メール、それに少しのネットがあれば不自由しない生活に戻るのも、ある意味では豊かな選択なのではないだろうか。

 繰り返すが、「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」とまでは言わなくても、ガラケーで十分足りるような人もたくさんいるんじゃないか。昔みたいに、キーボタンをカチカチ押しながら、「そうそう、あれこれこうだよね」とメールを送るのだって味わい深い。意外と悪くない、というかむしろ懐かしくて温かい気持ちになれるかもしれない。少なくとも、ガラケー派の人たちを「時代遅れ」とバッサリ切り捨てるのはもったいない話だと思うんだ。最新のスマホけが正解じゃない。だからこそ、みんなが自分にとってベストな形で“ケータイ”という道具を選べる社会であってほしいと思う。

 もしあなたが、いつの間にかスマホでの習慣に疲れているなら、こう考えてみてはどうだろう。「ケータイって何のためにあるんだろう?」と。連絡手段として割り切るなら、ガラケーこそ理想的な答えかもしれない。もちろん人によっては、「やっぱりスマホがないと生活が成り立たない」という人もいるだろう。それでいいんだ。それこそ「自由」じゃないか。だから、「スマホが当たり前」という常識に縛られず、自分に本当に必要機能がどれくらいなのかを見極めるのが大事。いまの時代からこそ、逆にガラケーを見直す価値があるんじゃないかと思う。

 最終的には「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」、通話メールで十分ならガラケーでもいい。そこにプラスアルファスマホを持つか持たないかは、個人自由。要するに、スマホ一辺倒の世の中だからといって、ガラケーを諦める必要はないんだよね。わたしはそう信じている。あなたケータイライフに、少しでもガラケー復権可能性を感じてくれたら、これほど嬉しいことはないよ。

anond:20250112140154

地下都市ドーム都市でいいんじゃね

もちろんコストはかかるが雪以外の問題もかなり解決できる

anond:20250112140025

技術的には可能ですね」(コストがかかりすぎて現実的でない)案件じゃない?

anond:20250112113639

また女性けが責められてるー

性交では)事実上一方的に女だけが脳内変換コストを負うことになるよそれじゃ

Queenおジャ魔女カーニバル動画ホッテントリで見かけてそういえば自分音楽は色々聴いてはいるがQueenの曲はほとんど聴いたことがないのを思い出した

ただ自分が今まで興味がなかったけどみんなが知ってるというものを押さえるためにどれくらいコスト(時間・金)を掛けるべきなのか未だに折り合いの付け方がよくわかっていない

全部無視するのもどこか子どもっぽい感じがして居心地が悪いし寄り道を選んでも限られた時間無駄にしている気分になることもある

結局なんとなくその日の気分でどうするか決めるとかサイコロを振って決めるとかそんな感じで歩いていくしかないのかもしれない

2025-01-11

マジで文春嫌いなんだけどなんでみんな大好きなの?

週刊誌とかスポーツ新聞かめちゃくちゃ嫌いなんだけど

その中でもダントツで文春が嫌い

碌でもない取材記事構成のくせに時代の寵児みたいに自負してるあたりがキモすぎて生理的に受け付けない

新聞テレビみたいなメディア取材しきれないダーティーな話を取り上げるような週刊誌はまだ必要悪だとしても

報道の自由拡大解釈して公人プライバシーに踏み込んではデマを作り上げ

おまけにコンプライアンス標榜して企業活動を萎縮させるっていう

言ってみれば法律クラッカー立花左翼活動家を混ぜたようなゴミメディア

その結果として一部の人の娯楽を奪うだけでなく社会コストも増大させる完全な社会

誰がこいつら好きなのかさっぱりわからん

中居の件についても9000万っていう額が本当かどうか分からんし、トラブルコンプラな内容なのか分からん

被害者は何も言ってないし示談で決着してのに、外野勝手に焚きつけて騒ぎ立てて

結果としては中居本人だけじゃなくて被害者女性まで窮地に立たせてるわけでしょ

マジで反社と何が違うの?

というか反社がやってんじゃないの?手口が一緒だよね

刑事事件があったとかの報道ならわかるけど文春の報道に対して盛り上がってるブクマカってマジでどういう神経してるの?

anond:20250111190924

出産費用の割り勘はアステカ出産法のみに適用されます

コストを払えないようなロクデナシのタネに将来性はないので堕胎しましょう

エンジニアだけど生成AIが出てきたおかげでもう限界

エンジニアとしての自分に、まさかこんな形で「限界」を突きつけられる日が来るとは思わなかった。技術進歩していくのは当然の流れだし、自分自身もエンジニアとして日々勉強を重ね、トレンドを追いかけながらキャリアを積み上げてきた。それでも「生成AI」という存在がここまで急激に注目を浴び、しか自分労働価値根底から揺るがすほどのインパクトを持って現れるとは、正直なところ想定外だったとしか言いようがない。

自分エンジニアとしてやってきたことは、プログラミング言語仕様理解し、アルゴリズムを考え、設計書を読み込み、エラーと向き合いながら少しずつ完成度を高めていく――そんな地道な作業の積み重ねだ。時には新しい言語フレームワークを学んで試行錯誤を繰り返し、何とか動かすところまでもっていき、ようやく使えるプロダクトとして世に送り出す。このプロセスを通じて、エンジニアとしての「自分らしさ」や「スキルの高さ」をアピールし、労働市場での価値を維持してきた。そのためには新しいツールを使いこなす技術だけでなく、バグを追い詰める根気や、仕様理解して予期せぬ事態対処する能力必要だった。

しかし、生成AI――特に大規模言語モデルをはじめとする機械学習ベースシステムは、そうしたエンジニアの「頑張り方」を一気に変えてしま可能性がある。いや、可能性というよりも既に変えつつあると言っていいだろう。たとえばコード自動生成がここまで進化してきたことで、「ちょっとしたプログラムなら数行のプロンプトを入れるだけでボイラプレート的なコードは瞬時に作成できる」「ある程度のアルゴリズム提案してくれる」という状況が生まれつつある。かつてはコピペスタックオーバーフローを駆使しながら苦戦していたような領域が、今や自然言語で指示を与えるだけである程度完成した形で出てくる。そんな光景を目の当たりにすると、複雑な気持ちにならざるを得ない。

まずは単純に「すごい」という感情が湧き上がる。「こんなことまでできるんだ」「AI進化って本当にすさまじいな」という畏敬の念しかし同時に、「自分が今まで必死で学んできた技術ノウハウはどうなるのだろう」という不安や焦りが胸を支配してくる。自分エンジニアとして、アルゴリズム知識コード品質向上のためのテクニックを磨いてきた。それなりに自信もあった。けれど生成AIは、そうしたノウハウ内包するかのように、エンジニアがコツコツ積み上げてきた経験を一気に飛び越える成果物を生み出してしまうことがある。もちろんまだAIには弱点もあるし、すべてが完璧自動化されるわけではない。だけど、これだけ急激に進化を続ける技術を目の当たりにすると、5年後、10年後にはどうなっているのか、想像すらつかない。

仕事が奪われる」という言葉は、AIの台頭とともによくささやかれるフレーズだ。これまでも機械化によって多くの工場労働者が職を失ったり、ホワイトカラー事務作業RPAロボティック・プロセス・オートメーション)によって自動化されたり、そういった話はあった。でも、自分に限って言えば「エンジニア大丈夫だろう」と、どこかで高をくくっていた。プログラムを書く行為自体クリエイティブであり、人間の頭を必要とする作業だと思っていたからだ。それが今、生成AIというものが「あらゆる文章を生み出せる」だけでなく「ある程度のプログラムも生成できる」存在として登場し始めたことで、エンジニア仕事というものが「人間である必要があるのか?」と問われ始めているようにも感じられる。

もちろん今のところ、生成AIが吐き出すコード完璧ではないし、大規模なシステム最初から最後まで構築できるほどの統合能力はまだないとされる。しかし、それは今時点の話でしかない。明日にも新たなモデルフレームワークが登場し、問題解決する手段が生み出されれば、あっという間に追いつかれ、追い抜かれてしま可能だってある。「AIにはこんなことはできないだろう」と思っていたら、数か月後にはAIがあっさりそれをやってのける。そんな現象を、ここ数年だけでも何度も目にしてきた。だからこそ、「エンジニアとしての自分は今どの地点に立っているのか」「これから何を武器にして仕事を続けていけばいいのか」、その問いに対する答えが見つからないまま、ただただ焦りと不安が募る。

さらに厳しいのは、会社側も生成AI有用性を認識し始めているということだ。開発現場で役立つことが証明されれば、「新しく人を雇うよりもAIサブスクリプションを使ってコスト削減を目指そう」となるのは自然な流れだろう。一人のエンジニアを雇うためには給料福利厚生も用意しなければならないが、AIの利用料は安価もので済む可能性が高い。ソフトウェア更新学習データチューニングなどのコストはかかるにせよ、「人間をまるごと雇う」よりはリスクが少ないかもしれない。そうなると、企業は本当に優秀なトップエンジニアだけを厳選して雇い、その他の多くのポジションは「AIと最小限のオペレーター」で回すという極端な体制を敷くかもしれない。そのとき自分が「優秀なトップエンジニア」の枠に入れるのかというと、正直自信はない。

「だったらAIに負けない技術を身につければいい」と言われるかもしれない。だけど、そもそもAIと真っ向勝負しようとすることに意味があるのかどうか、疑問に感じてしまう。自分がもともとエンジニアを目指したのは、単純にプログラミングが好きだったからだ。パズルを解くようにロジックを組み立て、コンピュータ自分の指示通りに動く瞬間の喜びは格別だったし、それによって誰かの役に立てるということがモチベーションにもなっていた。けれど今、あまりにも急激に進化するAIに対して「対抗心を燃やす」という発想自体が、もはや時代遅れなのかもしれないと思い始めている。

さらに言えば、生成AIに対する嫌悪感よりも、「便利だから使ってみたい」という好奇心もある。実際に使ってみると、驚くほどのスピードコードの雛形が出力されるし、対話的に「ここをもう少し効率良く書き直して」と指示を出すと、それも的確に応えてくれる。自分試行錯誤する時間が大幅に削減されるからプロダクトの品質リリーススピードを考えると、間違いなく使ったほうが得なのだ矛盾しているようだが、「使わなければ置いていかれる」し、「使えば自分労働意味が薄れる」というジレンマを抱えながら、結局AIを利用せざるを得ない状況に追い込まれている。

では、エンジニアとしての自分の「価値」をどこに求めればいいのか。かつてはコードが書けること自体が大きな武器だったが、もはやそれはAIに取って代わられつつあると感じている。もちろんまだAIだけでは設計デバッグユーザー要件の細かい調整などは完全に任せられない場面も多い。しかし、それも時間問題で「徐々に可能になるだろう」という予感がある。最終的には、エンジニアに求められるのは「想像力」や「コミュニケーション能力」、あるいは「プロジェクトマネジメント能力」など、いわゆるソフトスキル方面シフトしていくのではないか――そんな仮説がよく語られるが、それらだってAIが補佐できるようになれば、結局は人間凌駕してしまうかもしれない。

こうした不安や疑問を抱えながらも、結局のところ人間である自分が生き残るためには「自分しかできない価値」を見つけるしかないのだろう。けれど、その「価値」が何なのかがわからない。目立った才能や芸術的センスがあるわけでもなく、人の上に立って組織を率いる能力があるわけでもない。ただ、エンジニアとしてプログラムを書くのが好きで、それを仕事にしてきた。それが今、AIの登場によって脅かされている。こんなにも大きな変革の波の中で、自分がどう行動すればいいのか、まったく見当がつかない。夜中にふと目が覚めて、「この先、本当にやっていけるのか」と胸がざわつくこともしばしばだ。

一方で、生成AI社会的に広まっていく中で、個人的には「使い方次第では新しい価値を生み出せるかもしれない」という期待も抱いているのも事実だ。たとえば、生成AI活用して自分自身のアイデアを迅速に形にできれば、スタートアップのように少人数でも新しいビジネスを興せるかもしれない。あるいは、AIが不得意な領域――例えば人の感情文化的背景に深く根ざしたコミュニケーション――をエンジニア視点からサポートし、新しいサービス企画設計できるかもしれない。そう考えると、絶望の中にも一筋の光は見えるし、自分存在意義を発見できる可能性はゼロではないと思う。

しかし、それが実現できるかどうかはまさに「自分次第」であり、そのための行動指針や学習計画すら、AIに頼る時代が訪れているのが現実だ。今後は、単にプログラムを書く技能だけでなく、AI共存しながら効率的にプロダクトを生み出すプロセスをデザインできる人材が求められるのかもしれない。ただ、そんな広範囲スキルセットを短期間で身につけることは非常に難しく、結局「AIを使いこなす者」と「使いこなせない者」の間に大きな格差が広がっていくのだろう。もしかすると、自分はその波に乗り遅れてしまうのではないか――そんな予感が拭えない。

エンジニアだけど生成AIが出てきたおかげでもう限界」と嘆く自分が、この先どんなキャリアを積み上げられるのか、正直なところ自信はない。最悪の場合技術進化についていけずに職を失うことだって十分ありうるだろう。けれど、何もせずに指をくわえて見ているだけでは、本当に何も生まれないし変わらない。自分自身を鼓舞するつもりで言うが、結局は行動するしかないのだと思う。幸いにして、生成AIを使うためのハードルはそこまで高くない。オープンソースプラットフォーム無料で試せるモデルだってある。とりあえずは、それらに積極的に触れながら、「AIからこそ作れるものは何か」を模索するしかないのだろう。

このままいけば、自分が持っているプログラミングの知識スキルは、今後ますますAIにとって代わられるかもしれない。でも、だからと言ってエンジニアという職業が完全に消滅するわけではないはずだ。AIさらに発達したとき、逆に言えば「人間しか扱えない領域」というのが再定義される可能性もある。その領域を早めに見つけて、そこへシフトしていくのか、それともAIと競合するのではなく共存しながら自分の働き方をアップデートするのか――どちらにせよ、自分自身の手で道を切り拓く覚悟必要だ。

正直、今は「もう限界だ」と思う瞬間が頻繁にやってくる。理不尽なほどに速い技術の変化についていくのは大変だし、自分よりも若くて吸収が早い人材がどんどん出てくる。そんな中で、生成AIのような強力なツールまで活用されたら「自分の居場所は本当に残っているのだろうか」と不安になるのも無理はない。それでも、変化を憂うだけでは一歩も前に進めない。結局、AIが台頭する前も、プログラミング言語進歩して自動化が進むたびに「もうエンジニア不要になる」と言われ続けてきた歴史がある。それでもエンジニアは生き残ってきたし、新しい技術を取り込みながら活躍の場を広げてきた。今回の変化は今までより大きいかもしれないが、それでもまだ自分にできることはあるはずだ。

大事なのは、この逆境の中で諦めずに「次の一手」を模索し続けることだと思う。生成AIによって生まれる新しいニーズや、まだ誰も開拓していない領域を探りながら、自分なりの強みを見出していく。あるいは、AIが苦手とする部分――倫理や法的な制約、複数ステークホルダーとの調整など――をうまくリードできる立場に立つ。そんな方向性模索するうちに、意外な道が開ける可能だってある。目先の「限界」という言葉に呑まれて立ち止まってしまうより、嘆きながらでも手を動かし、AIも使いこなしながら活路を探っていくしかない――それが今の正直な思いだ。

言うは易く行うは難し。だけど、少なくとも「もう限界だ」と嘆いているだけじゃ何も変わらない。こんな風にどこかに文章として吐き出すことで、自分不安や焦りを整理しているのが実際のところだ。そして、もし同じような不安を抱えているエンジニアがいるなら、互いに情報を交換し、励まし合いながら新しい時代に挑戦していきたい。生成AIがもたらす未来は決してバラ色ばかりではないかもしれないが、そこには想像もつかない面白さや可能性も潜んでいるはずだ。自分の「限界」を超えるチャンスでもあると信じて、今は前を向いて進むしかないのだろう。

ファクトチェックMac保証期間が短いのでビジネス用途としては使い物にならない

それは誤解だ。Appleの標準保証は1年だが、WindowsPCメーカーによっては同程度の期間が多い。しかAppleCare+を導入すれば3年超の保証延長ができるため、ビジネス用途として使い物にならないという主張は根拠薄いと言える。実際にMacを導入している企業世界中に多く存在している。もちろん導入コストサポート形態など、組織ごとの要件との相性もあるから、一概に「使い物にならない」とは言えない。

参考:

Apple公式AppleCare+ for Mac

• 多くのWindowsPCメーカーも、標準保証は1年からスタートする例が多い(Dell, HP, Lenovoなど)。

要は保証期間だけでビジネス用途の可否を決めるのは早計だと思う。以上。

anond:20250110170047

男女の雇用格差があるからでは?

金以外に男がコスト分担できるものがない

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