野蛮な子供時代を過ごしていたので、義務教育期間は子ども同士で平気で殴り合っていたし、教師にはボコボコにされた。
虐めることも虐められることもあった。
いまの社会ならまず受け入れられない環境だったけど、今にして思えば悪くない環境だった。
ぼくたちはひどく未熟で、知性や理性といったものは、ほとんど持ち合わせていなかった。
そのため、山のように失敗をしたし、中には犯罪行為もあった。
でも、それらを子供がやったこととして許してくれる環境がそこにはあった。
もしあそこで我々が失敗を経験しなければ、もっとロクでもない大人になっていただろう。
失敗を大人の基準で裁いて学校からはじき出されていたなら、少なくない生徒が義務教育から弾き出され、地域社会が崩壊していたことは容易に想像できる。
学校の聖域化は、今にして思えば、ぼく達のような野蛮な子供には本当に聖域であったし、それはとても有効に機能していた。
一方で、野蛮さとは無縁な、一部の賢明な子供が暴力に曝されて割りを食っていたのは事実だ。
地域の公立学校に迷い込んでしまったまともな子供には窮屈で馬鹿馬鹿しい子供時代を過ごさせてしまった。
その手の子供には大人からの暴力はなかったし、子供同士でも自分たちとは違うソトの世界の住人として認識されていたので、野蛮な暴力に無慈悲に晒されることも少なかったのだが、窮屈であったことは間違いないだろう。
現代では子供にも大人のような無謬性が求められ、聖域は解体されつつある。
いじめも暴力性も、その他の社会的逸脱も許されなくなりつつある。
その恩恵を受ける子供は少なくないと思うし、善良な子供は今の学校の方が居心地が良いだろう。
一方で、ぼくのことを思い出してみると、あの時代で本当に良かったと思っている。
自分の経験した世界以外は知らないが、ぼく達のような子供は当然法律も社会的な規範も理解していなかった。
なぜ暴力やいじめが駄目なのかも理解していないし、教えられても翌日には忘れていた。
ぼくたちの野蛮さや暴力性は、教師の暴力なくして、止められるようなものではなかった。
より強大な暴力性による抑止以外の、理性や道徳では、馬鹿の暴力は抑止できない。
そもそも、現代社会の国家の基盤である国家や法治制度も、警察や軍隊といったより強大な権力、言い換えると暴力や武力によって成り立っている。
未熟な子供を強大な大人の暴力性で抑止するというのは、最も直接的で明快な形で国家や社会を理解する方法のように思える。
他人のとばっちりで全く悪くないのに教師から殴られたこともあるが、振り返ってみると許せる。
当時のぼくは怒り心頭だったが、子供の失敗を許容する環境ならば、教師の失敗も同様に許容すべきだろう。
彼らもある程度は未熟な人間で、法律のような明確な判断基準や依りどころもなく、猿と人間の間の(だいぶ猿寄りの)生き物を人間に近づけるという困難な仕事を、到底見合わない待遇で引き受けていたのだ。
尊敬に値する。
他の動物や大人の社会でもいじめは存在しているし、集団ではいじめは自然発生的に生まれる。
生物の遺伝子に組み込まれたデフォルトの機能と捉えるほうが自然だ。
それを特殊で忌むべき行為として断罪され、弾き出される社会でなくて本当に良かった。
当時は毎日神にいじめを無くしてほしいと祈っていたことを考えると、それなりに堪えていたように思う。
後に神に祈ったのははじめて異性に告白する前と、株で百万単位の含み損を抱えたときくらいだ。
それほど辛かったけれど、それでもなお当時の環境で良かったと思える。
当時の学校に順応できた奴が今の教師になるんだよなあ
じいじ、一人称そろそろワシに変えたら?