β版を限定公開(March 08, 2009)。 限定解除。正式な新装開店。(April 20, 2009) PDF版『政治思想学会会報』の公開は来週を予定しています。(April 20, 2009) Google検索窓をつけましたが、十分に使えるようになるまでは、もうしばらく時間がかかるようです。現存しない旧コンテンツへのリンクが表示されるかもしれませんが、どうかご容赦ください。(April 20, 2009)
吉原直毅「最近思う事:湯浅誠・堤未果『正社員が没落する--貧困スパイラルを止めろ!』(角川新書)を読んで」を読んで、「分断統治」という観点は確かに重要であるとしても、正規・非正規ないし中間層・低所得層という対立軸だけでなく、世代間の対立についての目配りを盛り込んだ議論構成にしなくては、いわゆるロストジェネレーション層への応答なり批判なりにはならないだろうと、若干の違和と物足りなさを覚えた*1。その方面について私には何の専門的知見も無いが、世代の軸を加えるなら、単なる情緒的認識の問題には尽くすことのできない程度の敵対性は存在するのではないか。 無用な対立を煽ることは避けるべきだが、分断統治を目論む上位のプレーヤーが無条件に存在すると前提した上で誰だって仲良くできると考えるのは妄想である。「少なくとも民主主義的政治システムの存在する現代においては」*2、そのような上位のプレーヤーは居ない。「支
ニューヨークタイムズ・ブックレビュー2009年3月26日号に載ったセンのエッセイの翻訳です。特に驚きな内容でもないので、まあこんなもんかなとか思いながら訳していたら、ピグーが出てきたのでびっくり。本文中にもあるように、今はケインズ・リバイバルの時期ですもんね。でも、経済心理といえば、アニマルスピリッツのケインズと思ってましたけど、ピグーか。あとそれから、終盤の中国の話はほんとなのですかね?中国の経済成長を考えると、ちょっと意外でしたが。 それから訳文はちょっと自信のないところが色々とありますので、誤訳があればご連絡ください。誤字脱字等も、よろしくお願いします。 危機をこえた資本主義 アマルティア・セン 2009年3月26日号1. 2008年は危機の年であった。最初に、食料危機があった。これは貧しい消費者達、特にアフリカの消費者達には非常な脅威となるものであった。そしてそれに続いて、石油価格
私は建築家でもないし、建築の理論家でもない。しかし、私が建築に関心をもつのは、プラトンが言ったように、建築家がテクネーの首領であり根元であるからというのではない。私が関心を持つのは、さしあたって言えば、それがあらゆる芸術の領域において、最も不純だからである。たぶんそれに匹敵するのは映画であろう。正確に言えば、それらが特別に不純なのではなく、他の領域のように不純さを隠すことが困難だからである。 建築は、その最もありふれた家屋の建築から、国家的・宗教的なモニュメントや都市計画にいたるまで、政治的・経済的な次元と結びついている。それは実際的な生活の必要に根ざしていて、且つ美的である。つまり、さまざまな次元がそこに輻輳している。われわれはそこから、たとえば美学的次元だけを純粋に取り出すことができない。それが美術との大きな違いである。もちろん、美術が純粋なのではなく、美術においてはあたかもそのような
The subject of this paper is overcoming Nihilism on Shuzo Kuki's philosophy, which is able to be characterized by overcoming contingency through contingency. The fundamental question of Kuki's philosophy was the contingency of being. If it IS a contingency that I am or I am I, our being has no bottom, no sense, and no end. But, Kuki quested for exactly the sense in no-sense and the end in no-end.
「サービスとはなにか」という問題は、過去三〇〇年にわたって経済学説史上で議論が重ねられてきた未解決の難問の一つである。この問題を考えるにあたって、「サービス」を「財」との対比の中で考える「二分法」的発想を問い直す必要がある。なぜなら「サービス」の基本とされる特徴も、よく考えてみれば、あくまでも財との対比の中でとらえられた相対的で表面的な特徴にすぎないからである。このことはサービスの概念を感覚的、表面的な観察によってではなく、理論的、本質的な理解に基づいて再構成することの必要性を意味する。そのためには、サービスが行われる場、サービスが担う機能、サービスを行う主体、サービスを享受する主体、サービスが行われる関係といった点が明らかにされなければならない。そうした基準に基づいてマルクスのサービス論を再構成したとき、その問題領域の広がりが明らかになり、また、それで現代のサービス概念との決定的な乖離が
『思想地図』2号の座談会で、東浩紀が「一人一票」原理についての疑義を提起している。例えば、今や世界中がアメリカなのにアメリカ国民しか大統領を選ぶ権利が無いのはおかしくて、世界中の人々に選挙権が分散されていてもいい。同じように、これこれこういう理由で、あなたはこの問題について0.5票とか0.3票持っています、とか言えてもいいんではないか。雑駁に言うとそういう話。 政治学的には、「一人一票」がよいものかどうかについての議論は別に目新しいものではない*1。理論的には、ある問題について極めて強い関心を持っている人と全然関心が無い人が同じ一票であるのは公平とは言えないのではないかということで、各主体の選好の強度・濃度(インテンシティー)を考慮すべきではないかとの議論がある。この点については、ディヴィッド・ミラー『政治哲学』の中にも言及があったと思う。今ある現実について言えば、国際機関などでは拠出金の
──────────────────────── 映画『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』に、「どんな星座も構成しない 瓦礫の山、それが〈世界〉だ」という究極のアレゴリーを見出し、深く納得する。 ──────────────────────── ■前回、映画(を含めた表現全体)に関わる重大な問題を、文章の前半で提示した。だが一部の読者から意味がよく分からないという指摘を受けた。そこで承前ということで、映画(を含めた表現)と現実との間の関係、並びにそれに伴う今日的困難について記述する。 ■古い話だが、映画批評家・蓮實重彦を論破したことが神話的に語られ、蓮實重彦的な映画批評の理論的基盤を与えた──少なくとも蓮實より以前に恐らくベンヤミンを参照しながら基盤を準備した──伝説的写真家・中平卓馬について語ることから、始めようと思う。 ■2003年に開かれた「中平卓馬展 原点回帰−横浜」のパンフ
以前は彼の自死の文脈で読み、そして今度はさらにそうした文脈で読まなくてはらならだろうと思っていたが、意外とさらっと読めた。もともと私は須原と似たような考えをしていることもあり、どちらかというと私にはつまらない本だった。こんな本だったのかなと、少し嘆息した。ただ、そのあと、あることにはっと気が付いた。そして、この本の意義を再確認した。 同書についてだが、アマゾンの読者評にとても優れているものがある。これだけ書かれていたら、特にブログでエントリを起こす必要もないのではないかと思えるほどだ。 ★★★★★ 密かに読まれ、でも、なかったことにされる(かもしれない)本, 2005/4/30 By モワノンプリュ (Japan) - レビューをすべて見る とてもいい本だし、破壊力もある。しかも、それこそちょっと気の利いた高校生ならラクに読みこなせる、易しい言葉と、スッキリした論理で書かれている。 著者の
哲学、言語学、社会学、地理学、政治学、経済学、法学、等々に売場が分散するため、書店ではなかなか全体像を掴みづらい「アメリカ現代思想」ですが、たとえば紀伊國屋書店新宿本店人文書売場では昨年来、分散していた本を哲学思想書棚に集約して展開しています。網羅的とまではいきませんが、注目すべき試みです。 戦後の日本における海外思想の輸入トレンドは、非常におおざっぱに言えば、60年代までがドイツ実存哲学、70年代がフランス現代思想、80年代が英米批評、90年代以降がカルチュラル・スタディーズというふうに変遷してきました(これは『現代思想』や『大航海』の編集長を務めた三浦雅士さんが90年代半ばに紀伊國屋書店の人文書研修会で行ったレクチャーをもとにしており、あくまでも便宜上のもので、実際の歴史的ディテールにはズレや重複があります)。 00年代において日本で注目されてきたのは、イタリア現代思想とアメリカ現代思
-1- -2- -3- -4- -5- -6- -7- -8- -9- -10- -11- Zizek ˇ ˇ Zizek ˇ ˇ -12- Zizek ˇ ˇ Zizek ˇ ˇ -13- -14- Zizek ˇ ˇ Zizek ˇ ˇ -15- Realitatsprufung -16- -17- -18- -19- -20- Appiah, Kwame Anthony 1992 1994 "Identity, Genuineness, and Duration of Culture: Multicultural society and social reproduction," in Gutmann 1992 1994 . = 1996 . Arendt, Hannah 1958 The Human Condition, University of Chicago Press. =
何の因果か、「宮台チルドレン」呼ばわりされたことがあるのですが、宮台の著作をこれだけ読み込んだのは今回が初めてですよ。だいたい、私が初めて宮台に触れたのは仲正との対談本ですから、同世代の中でも宮台受容は遅いはずです(全く受容していない人はともかく)。東はどうかなぁ。比較的フォローしている方だとは思うけれども、オタクにもSFにも文芸にも縁が無いだけ、濃度が薄い気がする。でも、仲正や森達也と並んで著作購読率が高いトップ3には入るかな。あ、内容とは関係のない雑談でした。内容はやや不十分ですが、まぁいいです。そのうち手直しします。 ポストモダニティの論法 「ポストモダン」なる語が唱えられて久しい*1。。日本では1980年代に流行し、近代の原理を超えた未来を望見させたこの語は、現代では陳腐化している。陳腐化と言う意味は、一方では議論の余地なく現代はポストモダンであるとされる程に定着しており、他方では
おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154) 作者: 後藤和智出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング発売日: 2008/09/10メディア: 新書購入: 9人 クリック: 334回この商品を含むブログ (74件) を見る 後藤和智『おまえが若者を語るな!』を読みました。従前通りのクオリティで、ほとんど見るべきところは無い本だと思います。いわゆる「俗流若者論」への戒めの書としては、既にご本人が『「若者論」を疑え!』(宝島社(宝島社新書、2008年))を書かれていらっしゃいますから、この新刊に社会的な存在意義はあまり無いでしょう。ざっと目を通しただけでも色々と突っ込み所の多い本ですが*1、基本的に「実証性が乏しい」の一本槍で(多くの場合は)積極的な反証が為されるわけでもありませんし、東浩紀についても(「「動物化するポストモダン」は若者論でしかない」と断言に至った割には)
本書のタイトルから、生政治という言葉でよく語られる「監視社会」批判の類を想像する読者も多いだろうが、フーコーはこうした問題にはまったく触れていない。彼が主題とするのは、生政治のもっとも洗練された形態としての経済的自由主義であり、その代表はハイエクである。生政治と自由主義というのは、常識的には対極にあるように思われるが、フーコーが晩年の『知への意志』でも警告しているように、自由を抑圧からの解放と考えることは、ナイーブな左翼的錯覚である。逆に、自由主義はきわめて高度な統治技術を必要とするのだ。大いなる規律の技術、すなわち個々人の行動様式をその最も細かい細部に至るまで毎日規則正しく引き受けるものとしの規律の技術が発達し、急成長し、社会を貫いて拡散するのは、自由主義の時代と正確に同時代のことでした。[・・・]ここにおいて管理はもはやパノプティズムの場合とは異なり、ただ単に自由に対して必要な歯止めで
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