田中角栄(左)と 1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い、第32回衆議院選挙に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、佐藤栄作→田中角栄派(周山会→七日会・木曜クラブ)に所属し、田中の薫陶を受けた[12]。なお小沢は、田中角栄内閣において1期生ながらも「田中の秘蔵っ子」として力を振るった[13]。この頃派内の若手議員の世話をしていたのが、当時中堅議員だった金丸信であり、後々まで続く師弟関係の始まりとなった[12]。当時は大学紛争が激しく、田中の肝煎りの大学運営臨時措置法案が政局の焦点となったような世情であり、また紛争時代の大学院に在籍した代議士は当時希少であったこともあり、当初の小沢は文教族を目指していた。なお、初当選間もない頃に甲状腺癌を患い、一時は声が出なくなり政界引退も考えたというが、手術で完治してい