浅井 井頼(あざい いより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。讃岐丸亀藩客分。近江の戦国大名・浅井長政の庶子。通称は喜八郎、周防守。諱は複数伝わり、政信[14][15]、政賢[注釈 7]・政堅[注釈 8](まさかた)、長春[注釈 9]、政資[18](まさすけ)、長房[注釈 10]など。晩年は作庵と号した。 讃岐の金刀比羅宮文書に「浅井喜八郎井頼」と署名された発給文書が現存し、同じく「浅井周防井頼」と署名された文書もあって、直井武久は両署名の花押が同じものであることを指摘した[20]。これによって『浅井氏家譜大成』の『浅井系統一覧』にみえる浅井喜八郎長春は、浅井喜八郎井頼のことであり、周防守という受領名を名乗っていたことがわかり、『徳川実紀』『武徳編年集成』に「浅井周防守政賢(政堅)」は「浅井備前守長政の庶子」とある[19] から、井頼と周防守は同一人物で、もともとは浅井喜八郎