おかしいと思わないのだろうか なんの為に東大生や京大生を育てているのだろうか
コーヒーが好きだ。 缶コーヒー、スタバ、インスタントコーヒー問わず、 飲物としてのコーヒーが好きだ。 しかし、好きなものとかの話題において コーヒーが好きだと言うのは少し言いづらいこと ないだろうか。 世間一般的にコーヒーが好きな人は家にドリッパーを持っていたり、 気に入った豆を買って飲んだり、すきな喫茶店をみつけに外に出たり、 してそうなイメージが自分の中ではある。 そしてそういうこだわりの強い人にコーヒーが好きというと、 なぜかそういう類の話題をふっかけられ、全くついていけないのである。 オレンジジュースが好きな人に対して、 「オレンジはやっぱり国産のを絞るのがいいよね〜」みたいなことにはならないだろう。 コーヒーという飲み物はどうして一歩先を行っているのだろうか。 ちなみに、こういう思考に陥ってしまうような性格の人間は自分とおなじで どちらかというとオタク気質なのではないかと思う。
僕はたいてい記事を読んだ後、はてぶのコメント欄を読む。そろそろその習慣をやめようかなと思い出している。 コメントが気持ち悪い。 否定的なのが多すぎる。こいつら否定しかできないのかと思ってしまう。しかも的を射てないというか、この文はそういう意味で書かれてないのに、とか、それを言ったら身もふたもないじゃんとか。 僕がより強くこういったことを感じ始めたきっかけは、「全盲の長男が任天堂に送った手紙。まさかの“神対応”に賞賛の声」という記事のコメント欄を見た時だ。記事の内容は「全盲の男の子が障害があってもできるリズム天国が大好きで、任天堂に感謝の手紙を送ったら、任天堂から返事が返ってきた。」と言った感じ。 僕は普通にいい話だなーと思って読んでいたのだが、コメント欄を見ると「神対応とか書いてPV数上げようとするな。」とか「任天堂の返事の文章、定型文のような気がするのだが。」みたいなコメントが人気コメン
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