タグ

manyoshuに関するnabinnoのブックマーク (8)

  • 枕詞 - Wikipedia

    「あすか」は「明日香」とも表記されるので、「飛鳥」は枕詞によって表記と訓の関係が定まったものといわれる。 枕詞とそれに結びつく言葉との関係を分類したものについてはいくつもの研究があるが、もっとも大別的な分類をおこなった境田四郎の説[1]によって示せば、 (1)意味関係でかかるもの (2)音声関係でかかるもの ということになる。さらに (1)は 「朝露の 消(け)やすき命…」のような譬喩的関係(朝の露は消えやすい、その露のようにはかない命)のもの 「草枕 旅…」のような形容的なもの(旅は草を枕にするものなので) 「野つ鳥 雉…」のような説明的なもの(野の鳥である雉) に分類でき、(2)は 「まそがよ 蘇我の子ら…」のような(そが-そが、という)同音反復の例 「かき数ふ 二上山…」というような、「数える」から数字の「二」にかかる掛詞のような用法 に分類できる。きわめて大雑把に示せば、音でかかる

  • 万葉集/第八巻 - Wikisource

    第八巻 [歌番号]08/1418 [題詞]春雜歌 / 志貴皇子懽御歌一首 [原文]石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨 [訓読]石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも [仮名]いはばしる たるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも [左注]なし [校異]歌 [西] 謌 [西(訂正)] 歌 / 歌 [西] 謌 [西(訂正)] 歌 / 激 [類] 灑 [事項]春雑歌 作者:志貴皇子 喜び 植物 [訓異]いはばしる,[寛]いはそそく, たるみのうへの[寛], さわらびの,[寛]さわらひの, もえいづるはるに,[寛]もえいつるはるに, なりにけるかも[寛], [歌番号]08/1419 [題詞]鏡王女歌一首 [原文]神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益 [訓読]神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる [仮名]かむなびの いはせのもり

  • 辰巳正明「歌垣が育んだ、東国の万葉集」

    筑波山麓には、こんな歌が流行っていた。山に雪が降ったのかな、それとも愛しい彼女が白い布を干しているのかな、という恋歌だ。東国の歌は、恋歌の世界でもある。 古代の東国は、都から遠く離れた、野蛮な土地とされていた。東男〔あずまおとこ〕は勇敢で、兵士に適しているというので、防人〔さきもり〕にあてられた。野蛮を勇敢に置き換えられた防人だが、しかし、彼らの歌は父母や子、そして故郷との別れを嘆く歌に満ちている。かつて、防人の歌には皇国の民の勇ましさが歌われているといわれたのは、嘘なのである。 父母も花にもがもや草枕 旅は行くとも捧〔ささ〕ごて行かむ (巻20-4325) 父母が花ならこの手に捧げて防人の旅に出ようという、心優しい歌だ。その防人たちがすぐれた歌を詠んだのは、東国の地が歌の文化に満ちていたからである。そうした歌の文化の一端が、冒頭に掲げた筑波地方の流行歌なのである。では、この歌はどのよう

    辰巳正明「歌垣が育んだ、東国の万葉集」
  • 巻1から巻20まで | たのしい万葉集

    万葉集は全20巻あります。ここには巻1から巻20まで概要を載せています。巻ごとの歌は、それぞれの巻のページをごらんください。 第1巻(0001~0084) 第一巻は雑歌(ぞうか)として天皇の時代ごとに歌が整理されています。また、額田王(ぬかたのおおきみ)や柿人麻呂(かきのもとのひとまろ)などの有名な歌が沢山あります。 第2巻(0085~0234) 天皇の時代ごとに分類し、それぞれ年代順に載せています。柿人麻呂(かきのもとのひとまろ)のすぐれた挽歌(ばんか)があります。 第3巻(0235~0483) 雑歌(ぞうか)・譬喩(ひゆ)歌・挽歌(ばんか)から成っています。 第4巻(0484~0792) 相聞(そうもん)だけで構成されています。大伴家持(おおとものやかもち)と女性たちとの贈答歌が多く載せられています。 第5巻(0793~0906) 雑歌(ぞうか)だけの巻です。大伴旅人(おおとものた

  • Man'yōshū - Wikipedia

    This article needs additional citations for verification. Please help improve this article by adding citations to reliable sources. Unsourced material may be challenged and removed. Find sources: "Man'yōshū" – news · newspapers · books · scholar · JSTOR (May 2018) (Learn how and when to remove this message) A replica of a Man'yōshū poem No. 8, by Nukata no Ōkimi The Man'yōshū (万葉集, pronounced [maɰ

  • 長歌 - Wikipedia

    五七、五七、…、五七、七の形式で、すなわち五七を三回以上繰り返し、最後を七音を加える。『万葉集』に多く見えるが、『古今和歌集』の時点ではすでに作られなくなっている。主に公の場でうたわれるもので、反歌を伴う。 古くは必ずしも五または七でなく、字余り、字足らずになっている場合がある。長歌は柿人麻呂においてその頂点に達した。 長歌の始まりは古代の歌謡にあると見られ、『日書紀』や『古事記』の中に多くみられる。五音と七音の句を3回以上繰り返した形式のものが多く、それが次第に五・七音の最後に七音を加えて結ぶ形式に定型化していった。 『万葉集』の時代になると、長歌の後にそれを要約する形で、短歌形式(五七五七七)の(まれに旋頭歌形式の)反歌を付け加えることが多くなった。 平安時代に入り、『古今和歌集』が編纂される頃になると、「和歌」といえば短歌のことをさすようになり、長歌は次第に衰退していった。その制

  • 和歌 - Wikipedia

    『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には和歌の種類について「長歌・短歌・旋頭混の類、雑体一に非ず」とあるが「混」というのがどのような形式のものであったかは不明である。また仏足石歌体の形式は奈良時代に行なわれたのみであり、その後は廃絶している。短歌からはのちに句を五七五と七七に分けて詠む連歌や俳諧が発生する。 和歌を詠むことは、古くは貴族をはじめとする教養層にとってはたしなみのひとつであり、男女が詠み交わして自らの心を伝える手だてとし、また歌合や歌会が多く開かれ、そのための和歌が詠まれ披露された。そして詠まれた和歌は個人の歌集(私家集)や平安時代以降の勅命による勅撰和歌集の材料として集められ収録されている。ほかには勅命によらずに編纂された私撰集がある。 和歌は「敷島(しきしま)」とも、また「敷島の道」とも呼ばれた。敷島とは大和国や日のことを意味し、また枕詞のひとつでもあり「やまと」という

  • 万葉集 - Wikipedia

    万葉集の和歌はすべて漢字で書かれている(万葉仮名を含む)[注 1]。 天皇、貴族から下級官人、防人(防人の歌)、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌が収められており、作者不詳の和歌も2100首以上ある[1][3][4][注 2]。7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されており、成立は759年から780年(宝亀11年)ごろにかけてとみられ、編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされる[1]。完では鎌倉時代後期と推定される西願寺万葉集がもっとも古い[6]。 和歌の原点である万葉集は、時代を超えて読み継がれながら後世の作品にも影響を与えており(一例「菟原処女の伝説」)、日文学における第一級の史料であるが[1]、方言による歌もいくつか収録されており、さらにその中には詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても重

    万葉集 - Wikipedia
  • 1